(13)
今回、未遂ではありますが軽く無理やりな行為の表現があります。
ご注意ください。
「―――― ただいま…」
深夜、もう二時も過ぎて。
静まり返った玄関に溜息の様な蓮の声がこだまする。
―――― 寝ちゃってるか…
そ~と玄関の戸を閉めて、音を立てない様に靴を脱ぐ。
そっと、ドアを開けて台所に入り、整理されたコップを取って水を飲む。
冷たい水が頭を冷やしていく。
『泊っていけ』
終電前に帰ろうと、駅に向かう蓮に告げられた仁の言葉。
立ち止まり振りかえり、思いもかけないほど近くにその存在を感じて一呼吸動作が鈍る。
その瞬間に大きな腕に抱き締められた。
当り前の様に頬に添えられる手、下りてくる唇。
触れるだけのキスはそのまま深く、探る様に熱くなる。
覚えている唇。忘れきれていないキス。
昔より、それはもっと熱く、もっと貪欲に蓮の気持ちを絡め取ろうとする。
このまま… このまま…?
でも――――
『…蓮?』
そっとたくましいその体を押し戻す掌に、仁の口付けが途切れる。
眼を合わさないまま、その掌に少しだけ力を込めて蓮は首を横に振った。
『蓮…』
わかってる。
仁のその言葉も行動も。
その意味がわかっているから頷けなかった。
『…駄目か…?』
もう、俺は欲しくないか?
『…あんたは欲しいの?』
『欲しい』
今は、お前だけが欲しい。
その言葉に揺らがない訳がない――――
けれど、今、蓮はこうして家に居る。
結局逃してしまった終電の後、深夜にタクシーを捕まえてまで。
七年前なら、きっとそのまま抱かれていた。
流された。
流されていた。
けれど、あの腕に抱かれたら逃げられない。
全て覚えている。あの腕もあの髪も、あの唇も、何もかもみんな覚えてる。
嫌いじゃない。嫌いになんかなっていない。
前以上に熱く甘く、心を体を酔わせたままで甘やかして、仁の傍にいる事の、その安穏をもう一度蓮の前に突き付ける。
なのに、駄目。
もうダメだ。
もう、誰にも抱かれたくなんかない。
仁だけじゃない。
もう、誰の腕も欲しくない。
たった一つ――――― その腕以外は、欲しくない…!
知ってしまった感情。わかってしまった気持ち。
なのに、あたしはそれを求めない。求めちゃいけないと知っている。
大事だから。
何よりも大切だから壊せない。壊したくなんかない。
たったひとつ、あたしが何よりも守りたい場所。
たった一人。ただ一人だけがそこに住んでいる。
守る… 絶対に守り通すって決めたから。
その、一人だけを、あたしは――――
「蓮」
突然掛けられた声に蓮の手元が狂う。
ガシャン!
滑り落ちたコップがシンクの中で砕けた。
「―――!?」
割れたコップ。銀色のシンクの中で鈍く光る欠片。
「―――― もう! 脅かさないで! 翔ってば起きてたの? びっくりするじゃない」
声が震えずに出た事に蓮は心で感謝する。
「あ~あ、コップ、割れちゃった…」
拾い集めようと伸ばされた蓮の腕を、翔の手が掴む。
「…何処行ってた?」
「翔?」
「どこ、行ってた…」
「…っつ!」
ぎりっ…と、音が聞こえるかのように蓮を捕らえた翔の手に力が籠る。
うつむいた翔の顔。少し長めの髪が目元を隠して気持ちが読めない。
「…翔」
変… 翔が変だ…
「翔、なんかあった?」
「何かあったのは、そっちだろう!!」
吐き捨てる様な大声。
いきなり顔を上げた翔のその瞳に射抜かれた様に、蓮は全ての動きを止める。
「蓮」
ぎりり…締めつける手の力が抜けない。
「蓮、何が有った」
冷たいその瞳の色に、肌が泡立つ。
「俺に言えないか…?」
「しょ…う…」
「俺には言えないのか!」
翔――――!
喉を切り裂くような呼びかけが、声になっていない事に蓮は気付かない。
なに…?
これは、なに?
「何時まで…
―――― 何時まで、俺を子供扱いすれば気が済むんだ!!」
「いたっ!」
強引に振り向かされ、両の腕を思いきり拘束されて、悲鳴が思わず口を吐く。
「翔!痛い!」
「蓮!」
「痛い!! やだ、放し…「いやだ!」
「翔!」
「いやだ!」
絶対に放さない!
強くそのまま引き寄せられて、
「――――!?」
息がつまる。
体に廻された腕の強さが、蓮の息を止める。
見開いた眼に映るのは少し色素の薄い翔の髪。
蓮の唇に触れる少しだけ冷たい翔の――――
「――――駄目!」
「蓮!」
「翔、放して!」
首を振り、逃れようとした蓮の身体に翔の腕が絡みつく。
片方の腕だけで蓮を押さえつけ、片手で蓮の頭をその髪ごと押さえつけて翔は再びその唇を塞ぐ。
噛み付く様な、優しくないキス。
初めてのキス。
翔とする、初めての――――
「―――― やっ…!!」
首を振って逸らそうとした体をもっと強く押さえつけられ、声になりかけた否定の言葉を飲み込む様に熱い何かが蓮の口の中に入りこむ。
「う… ふっ…」
優しさもテクニックも、何も無い。
ただ、蓮を奪おうとするだけのキス。
奥へ奥へ――― まるで蓮の全てを貪り食う様に。
蓮の力が抜ける。
それを感じて翔の拘束が少しだけ緩む。
その隙をつく様に蓮の拳が翔のみぞおちを突く。
「ぐっ…!」
唇が離れる。一瞬緩みかけたその腕は、けれど躊躇いを振り切ったかのようにかえってその力を強め、床に蓮の身体を叩きつける様に押し倒した。
「――――!!」
痛みに息が止まる。咄嗟の受け身で頭だけは守ったものの、背中全体に受けた衝撃が蓮を襲う。
その両手を両足を、全身で縫いとめる様に、翔の身体が蓮に大きく圧し掛かる。
「―――― しょう!」
痛む体が動かない。
「翔!放して!」
「…いやだ…」
「放しなさい!翔!」
「いやだ!」
「翔!!」
籠められた力がなお一層蓮を拘束しようとその勢いを強める。
ぎりぎりと音と立てる手頸。動けない体。
強い、強い…
――――― しょう…!
だれ?
だれ、これは…
しょう?
あたしの、しょう?
―――― 違う!
これは翔じゃない!
キッと気丈に見あげたはずの蓮の眼は、間近に有った翔の、その瞳の色に押された。
「……!!」
悲鳴が喉の奥に籠る。
これは…この眼は…
冷たく、濃く、深く―――― 闇の深淵をのぞいた様な暗い瞳の奥にともる炎。
――――― こわい…
眼を逸らしたいのに逸らせない。
体が動かない。
「―――― わかってたろ…?」
静かな、声。
「お前、わかってたろ? 俺の気持ち」
いっそ、冷静と言える程。
「ずっとずっと…… ずっと、お前だけ見てきた俺の気持ち。お前、わかってたよな?」
何時だって、お前はわかってたんだ!!
激情は断定。
反論をする事なんて許されない。
「わかってて… 全部知ってて知らんフリしてたのか? 俺なら、大丈夫だって思ってたか?」
ふざけるな…
「…ふざけるな…!!」
血を吐く様な叫び。こんな声が聞きたいんじゃないのに…!
「そこまで、馬鹿にするのか? 俺じゃ、お前の相手にはならないってか!?」
違う、ちがう…
首を振る。無意識に蓮は強く首を横に振る。
―――― 翔!
しょう…!
…どうして? 声が出ない。言葉が出ない。
止めないと… 絶対に止めないと。
駄目だ。これ以上は駄目だ。翔に、言わせてしまったら、あたしたちは…!
「…しょ… はな…」
「いやだって言った!」
放さない!放してなんかやるもんか!
蓮の抗いは、かえって翔の感情を負に引きずる。
「…抱かれたのか…?」
「しょ…」
「あいつに、また、抱かれたのか…?」
「違う!」
違う。抱かれてなんかいない。抱かれようとも思ってない。
す…っと翔の指が蓮の唇をなぞる。
「…口紅、落ちてる…」
「…!」
「…こんなこと、今まで、無かったよな…?」
蓮を押さえつけたままの翔の顔に、微かな笑みが浮かぶ。
「…抱かれたのか」
また、あいつに。
断定に一瞬蓮の頭に血が上る。
「抱かれてなんかない!」
そんなこと、あんたに関係ない!
「翔…! あんた、あたしをなんだと思って…!」
―――― そんな簡単に抱かれる様な女だと思ってたの!?
「…今、だけじゃねぇよ…」
「翔…?」
「…今までから、ずっと…」
俺が、知らない間、ずっと。
「抱かれたよな、あいつに」
「翔」
「あいつだけじゃないか…」
「翔…?」
なに、言おうとしてるの…
「何人、咥えこんだ…?」
「―――――!?」
「いったい何人に、この体を抱かせたんだ?」
息が、―――― 意識が、止まった。
翔に押さえつけられたまま、蓮の、全てが止まる。
―――― 知っ…て……
知って、る…?
知ってるの…?
今までのあたし。
翔には絶対に見せなかったあたし。
これまで翔にだけは知られないように、もがきながら隠してきた女を翔は蓮に叩きつける。
「気付かないと思ってたのか…?」
――――― そんな子供だと思ったか…!
遅く帰る夜。
微かな石鹸の匂い。
泣いて暴れて悪酔いした蓮を抱えて、どれほどの時を刻んだか。
そんなお前を目の当たりにし続けて、俺がいったいどう思ったか…!
「…相手なら、してやる」
「え…」
「俺が、お前の相手になってやる」
子供だなんて言わせない。
もう、誰の手にも渡さない!
「な、に…」
何、言って…
わからない…
翔の、言っている事がわからない。
「行かせない…」
絶対に、何処にも行かせるもんか!
拘束はそのままに、体ごと圧し掛かるように唇が塞がれる。
今度は最初から、深い、貪るままのキス。
両の手を無理やり頭の上で一つの腕で押さえつけられ、空いた手がするりとセーターの中に忍び込む。
「―――――!!」
がりっ!
「っつ…!」
覆い尽くす翔の唇に噛みついて、怯んだすきに顔を逸らせる。
もがき出ようとした顎を捕えられ、一層深く息が重なる。
「ぐっ…」
呼吸が止まる。思考がとまる。
鉄の味のするキス。絡み合った唾液が薄い紅色の糸を蓮の肌に伝わせる。
その後を追う様に翔の唇が肌をなぞり顎を伝い、そのまま這い上がって耳朶を噛む。
「バカ蓮…」
放さないって言ったろ…?
耳元で、いっそ優しい声で、翔が囁く。
「放さないって言った…」
もう、手加減しない。
「蓮、お前、手加減したろ…」
くくっ…と押し殺した笑い声。ぞくっと、悪寒が蓮の背を駆けあがる。
俺は、しない。
「もう、手加減なんか、してやらない…」
静かに唇が重なる。
すぐにまたそれは深くなり、セーターの下、キャミソールも潜り抜けた手が下着を押しのけて蓮の胸をわしづかむ。
「――――!!」
咄嗟に逃げようとよじった体は難なく押さえつけられ、徐々に荒々しさを増してゆく翔の動きが、その場に蓮を縫いとめる。
――――― 違う…
ちがうよ、翔…
こんなの、ちがう… まちがってる…
何もかも… 何もかも、間違ってる…
間違って、いるのに――――
とまらない、とめられない。
うごかない、うごけない。
違う…
つうっ…と一滴、涙が蓮の頬を伝って落ちた。
ちがう……
そして、蓮の身体はその全ての力を失う―――――
「……なんでだよ…」
何時の間にか、翔の動きも止まっていた。
「なんで、抵抗しないんだ…」
蓮は動かない。乱された服で、眼を見開いたまま。
「何で…」
涙だけが、蓮の頬を伝う。
あとから、あとから、止まらないそれだけが蓮が生きている証の様で。
すっと蓮の上から翔の重みが消える。
我に返った様に蓮の視線が何かを求めて。
「…しょう…」
泣き濡れた瞳。なのに、
「翔…」
それはあの日、五歳の翔に手を差し伸べた時と同じ色…
「なんでだよ…」
「…」
「なんで、そんな…」
なんで、そんな目で、俺を、見る…!
「…バカにするな…」
「…翔…」
「バカにするな…!!」
伸ばされてきた手に、翔は弾かれた様に飛び退る。
絡み合う視線。
振り切るように翔は部屋を、そしてそのまま家を飛び出した。
「―――― 翔!!」
引き絞るような蓮の叫びが闇に擦れる。
初めて、蓮の声は、翔を引き止める事が出来なかった。