(12)
――――― 三カ月かけて、お前を口説く。
その宣言通りに、頻繁に掛ってくる仁からのメールが今日も携帯を揺らす。
十二月が過ぎ、一月ももう半ば…
何度、こうしてメールを受け取ったのだろう。
『今日、会えるか? 夜、ちょっとした集まりが有る。顔を売って置いて損はない筈だ』
付き合え。
相変わらず、強引なのにちゃんと断れない理由を作る。
色恋だけでなく、パートナーが欲しい。
そう告げられた日のまま、こうして連れだして自分の世界を、まだ、蓮では届かない筈の世界を見せる。
―――― 断れない、自分が悪い…
何も考えなくても良い安心感―――― もう、あの頃と同じ気持ちで居られないと解っているのに。
洒落た大人向けのバー。
彼お得意のテリトリーに連れ込まれ、前と同じように、カウンターで並んでグラスを傾ける。
「…酒も強くなったな…」
前みたいに酔わなくなった。
「酔って欲しい? おあいにく様」
そっちの方も、変わったの。
「…もう、あの頃のあたしはいないわ」
「知ってる」
「あんたを追い駆けてたあたしはいないの」
「…わかってる」
こんな風に聞きわけのいいところも、何もかも受け止められてしまいそうで困る。
「…いっつも、タイミングが悪過ぎるわ…」
「何が?」
「あんたがあたしの前に現れるのがよ」
なんで、いつも、あたしが揺らぐ時に現れるのか。
「俺にとったら、グッドタイミングってことか?」
そんな心外みたいな顔しないで。
「そう簡単に付け込ませてくれる様なお前じゃなかったが…」
付けこんだりしたつもりはないぞ。
…そうね。
そうだったかも。
たった一人の身内だった祖父が、急な発作であっけなく逝ってしまったのは二十歳の冬。
残されたのは、家とあたしと、―――― 翔。
生活に不安が有った訳では無いし、親身になってくれた人もたくさん周りに居たけれど。
所詮、他人。
あの時の、足元が崩れて行く様な気持ちを共有してくれる人は翔以外に誰も居なくて。
弱音を、吐く訳にいかなかった。翔になんて言えなかった。
まだ、十二歳でしかない翔に、気持ちを負わせるなんてどうしたって出来なくて。
この子まで、失う訳にいかないから。
あたしがこの子を守らなくちゃいけないから。
今だから、わかる。
あたしは自分が甘えられる場所が欲しかった。
ただの女で居られる場所が欲しかった。
そんなあたしを宥め、あやし、惑わせて、束の間の甘えを許した男。
「…そうね…」
付け込まれたなんて思わない。
あの頃のあたしには、確かに仁が必要だった。
「お前も、俺の事、嫌いじゃなかっただろ?」
当り前の事を聞かないで。
「でも、あんたはきまぐれだったわよね?」
「…」
「否定できないでしょ?」
最初、あたしに声を掛けてきたのは、仁のきまぐれだったと今ならわかる。
「…それでも、俺は、お前が好きだった」
「…」
「そうでなきゃ、付いてこいなんて言えるか」
今さらだけどな。
「そうね…」
今更―――― 一度も聞いたことなんかなかった言葉。
言って欲しいなんて、あたしも言わなかったけど。
それでも、確かに仁から伝わってきたものはあって、それはその時の蓮にはとっても大事なもので。
『欲しい』と言われて、迷うことなく頷いた。
この腕に全てを預ける事に、何のためらいも感じなかった。
何も知らなかった蓮の気持ちを―――― 体を、時間を、想いを。
蓮の全てを、仁が独占しつくしたあの濃密な時間。
嬉しくて、楽しくて、ただひたすらに現実では無いモノを信じた半年―――― 確かに、あたしは仁の事が好きだったけれど。
「…言ってたら、違ったか?」
「…」
「言葉にして告げたら、お前は付いてきていたか?」
『ニューヨークへ行く』
有る日、突然告げられた言葉。
『一緒に来い』
その手を取る事が、蓮にはどうしても出来なかった。
「…あたしが『行かないで』って言って、あんたは行くのをやめたかしら?」
現実を、見ていなかったのはあたしだけかもしれないけれど。
あたしが付いていけなかったように。
貴方は、あたしと此処に居る事を選ぶような人じゃない。
「それこそ、今さらよね」
あたしは仁を、
仁はあたしを、
選ぶことが出来なかったのだから。
お互いに、それ以上に大切なものがあるとその時知ってしまったから。
「…坊やのことか?」
「…!?」
「この前、会ったな。あの無駄に顔のいいのが、蓮ご自慢の坊やだろ」
「…そんな言い方しないで」
「でかくなってる。前はこーんなちびだったのにな」
「…何で、知ってるの? 会わせたことなんて無かった筈よ」
「ああ。顔を見たのは初めてだ」
「?」
たまに見せる少し意地悪な表情。
こうなったら絶対に口を割らないとわかっているから、蓮はそれ以上追及しない。
「あれだけ顔が良いと大変だな。親代わりとしちゃ、気の休まる暇も無かったろ」
「…そんなことないわ…」
翔の事を顔だけみたいに言わないで――――
なんだろう… 仁の口から、翔についての論評なんか聞きたくない。
「…もう、いいだろう?」
「?」
「もう、坊やを卒業させてやってもいい頃だ」
ガタン!
思わず立ち上がりかけた蓮の、その腕を握り締めて仁が言う。
「もう、坊やだって、子供じゃない。お前がそばに居なくてもやっていける。お前がずっとそばにいる必要は、もう、ないだろう?」
―――― 何で…
「…何で、そんな事、言うの…!」
「もう、お前を引き止めるものはない筈だ。」
来い。
俺と一緒に。
揺らぐ。揺らいでしまう。
この場で、この時に、仁にだけは言われたくない。
「……前のあたしじゃないって言ったでしょ…?」
もう、あんたしか知らなかったあたしじゃない。
いろんな男をみて、いろんな男を知って。
「前みたいに、なんにも知らない女じゃないわ!」
「―――― それでも、良いって言ったら?」
静かな声に蓮の体が大きく震える。
「俺だって、この七年、聖人君子だったなんて、口が裂けても言えないさ。…こんな商売だ。名前が売れれば売れるだけ寄ってくる女だって少なくない」
「仁…」
「俺が口説いてるのは、七年前のお前じゃない。いろんな事を知って、こんないい女になった今の蓮を口説いてる」
「じん……」
やめて。
「…来てくれ、一緒に」
言わないで。
「俺と一緒に来てくれ」
掴まれた腕が、痛い。
「好きだ」
好きだ、蓮。
「ずっと、お前の事を愛してた」
「…簡単に言わないで」
「簡単じゃないさ」
「前は一度も言った事なんかないくせに!」
「だから、今回は惜しまない」
失くしたくないから、言葉なんていくらでもくれてやる。
「言葉でお前が手に入るなら安いものだ」
「…軽過ぎる」
「言わなきゃ、伝わらない」
もう、後悔だけはしたくない。
「来い」
「…」
「俺と一緒に来い」
低く落とされた照明の中、真剣に見つめる仁から、蓮は眼を逸らす事が出来なかった。
蓮が二十歳の冬―――― じい様が亡くなったのは翔は小六の終わりごろになります。この後、四月に蓮は社会人に、翔は中学生になりました。
蓮が仁に出会ったのはこの次の年あたり。…この辺り、年表が要りそうなので、捕捉で… 蛇足かも知れませんが。
おそらく明後日にはもう一話更新できるかと… 勢いがついているのでこのままそこまでは行けます。
その後はまた、少し、間が空きそうです。