(9)
年末になる前に――――
忙しくなる前に、とりあえず礼がしたいと由樹に呼び出されたのは、十一月ももう後わずかとなった金曜の夜の事。
翔が告げられたその場所は、普段ならば足を運ばないたぐいの少し落ち着いた雰囲気の店。
「おお、来たか。こっちだ」
出迎えた店員に待ち合わせを告げた時、掛けられた声に眼をやれば、少し高く設定された丸テーブルに背の高い椅子。そこに腰かけて手を振る由樹と日名子の姿が見える。
「翔ちゃん、おそい~」.
「すみません、遅れました」
「いや、俺達も少し前に来たとこだから…」
そう言って、由樹が自分の隣の席を勧める。
―――― いや、薦められなくても、中森の隣には座りませんって…
「しかし、残念だったな、蓮は」
連絡言ってるんだろ?と問われれば「ええ」と苦笑しながら頷くしかない。
本当なら、この席に蓮も同席する筈だった。
「終わらないみたいだね、仕事」
「声が凄かったですよ」
『こんな時に発注ミスなんて~~!!』
悠長にメールをする余裕も無いらしく、携帯から聞こえる蓮の声はもう、泣きごと全開だった。
『今日中に何とかしないと、ヤバいのよ!! もう、いつ終わるかもわかんない!』
せっかくせっかく、由樹におごらせるいい機会だったのに~~!!
そう告げると由樹の苦笑が一層深くなる。
「まあ、今回は仕方ないな。ひなと俺、翔の予定を考えると、今日を逃すとまた何時になるか… 蓮にはまた、機会を作って礼をするとしよう。…ああ、そんな顔しないでいいから。翔も、ひなも、その時はまた二人とも誘うから」
「もちろん!そうしてね。由兄。あたしだって、蓮さんとお話したいんだから」
ほんと、残念。
ぷーっと膨れた日名子の頬をつつきながら、由樹が笑う。
「ほら、そんな顔しない。折角、ひなが行きたがってた店、連れてきてあげたんだろ? しっかり楽しんでくれないと」
「…ここって、中森のチョイスですか?」
「この子が入るには少し敷居が高い店だから」
基本的に酒を楽しむ為の店構えだからな。
「でも、なんか、此処のピザが美味いって聞いて来たらしくって。連れてけってうるさくてな。今、一枚注文出してるから、翔も遠慮しないで食っていいぞ」
「連れてけって言ってないでしょ! 友達と行くって言ったら駄目だって言うから!」
「まだ、酒も飲めないのに来るような所じゃない。俺が一緒じゃないなら、駄目だ」
「だから、一緒に来てもらってるじゃない!」
由樹と日名子の掛け合いは何時も通りで、あの騒動の後もあまり変わった様には見えないが。
それでも、元々なかなか凄かった由樹の過保護になお一層の拍車が掛った様な気もする。
―――― スキンシップも、なんか増えてないか?
今更ながら、蓮の不在が痛い。
当てられに来たつもりはないのに当てられそうだ。こうなったら、思いっきり食事と酒を楽しむに限る。
評判だと言うピザを運んできた店員に、ついでに自分のビールと新しくもう一枚、別の奴を注文して、間をおかず運ばれてきたビールと一緒に遠慮なくそれを口に運ぶ。
評判になるだけはある。これは本当に蓮が残念がりそうだ。
「翔ちゃん、翔ちゃん」
「なんだ?」
「残念だよね~ 蓮さん居なくって」
「仕方ないだろ、仕事だってんなら」
意味深ににっこり笑って言ってくる日名子を軽くいなしてやる。
蓮は高校を卒業後、二年専門学校へ通った後、中堅どころのアパレルメーカーに就職した。
それなりに責任の有る事も出て来たらしく、こうやって不意の残業も珍しくない。
「それでも、楽しそうにやってるな」
「ええ」
由樹が翔のグラスにビールを注ぎながら言ってくる。
まだ、翔の知らない世界に蓮はもうなじんでいる。
生き生きと蓮が働いているのを見るのは、翔にとって何よりの事では有るが、自分はまだまだ学生の身分である事は少しばかり忸怩たるものがないではない。
――――焦ったってな…
焦ったって、年の差が縮まる訳でもない。
何度、こうやって自分を慰めるんだろうな、俺は。
―――― あと、一年…
後一年たったら、卒業出来る。
就職活動はもう始めているし、手ごたえもある。
大人になれる。
もうすぐ、本当に大人になれる。
体ばっかり大きくなればいいと思ってたのは、何時までだったか。
身長は伸びた。蓮を追い越した。
なのに、まだ、自信の欠片もありゃしない。
「―――― どうした、青少年。溜息が重いぞ」
「…由さんに言われたくありませんね。聞こうか聞くまいか迷ってたんですが、中森のその左手…」
「わっ! 気が付いた?気が付いた!? うわ~っ、信じらんない!」
あの翔ちゃんが気が付くなんて!
「…何だ、それは」
実は席に着いた時から気付いてはいたのだ。
日名子の左手の薬指。めったにアクセサリーを付けない日名子の指にキラッと光るもの。
「そんだけ、指を気にしてたら、『判ってください』って言ってるようなもんだろうが。…で、まさかとは思いますが…」
「え~とね…実は…」
「ああ、結納を入れた」
「は?」
「よ、由兄…! そんなはっきり言わなくったって…」
「どう言おうが同じだろうが。結婚はひなが卒業してからにするつもりだが、とりあえず、形はきちんとしておいた方が良いって双方の家族の間で決まってな。この前の大安に結納を入れたんだ」
これで、こいつは俺の正真正銘の婚約者だ。よろしくな。
にやっと、笑う由樹に対し、日名子の顔は真っ赤に染まって…
『案外、そのまま、結婚式って事もあるかもよ』
―――― 蓮… お前の読み、あたっちまってるぞ…
流石に、結婚までは行かなかったみたいだが。
かろうじてそこに、由樹の理性が見えるのは決して翔の気のせいではないだろう。
―――― 結局、当てられに来たのか、俺…
これはさっさと食べるだけ食べて退散したほうが良いんじゃねぇか?
改めて此処に居ない蓮に、翔は少しだけ恨み事を言いたくなった。
九時も過ぎ、酒を楽しめる由樹と翔はともかく、しっかりジュースしか呑ませてもらえなかった日名子が退屈を訴える様になって、三人は店を出た。
外に出た途端に吹き付けてくる風。
冷たい北風は、もうすっかり冬の色だ。
「―――― 翔~~~…」
「うわっ!!」
帰る為、駅に向かおうとした翔の背にいきなり声が掛ったかと思ったら、柔らかな腕が首筋に絡みついてきた。
「れ、蓮!?」
「そーだよ~…あたし…」
妙にうらみがましい声が翔の背中からする。
「もう、終わり~? 終わっちゃった~? …間に合わなかった~くやしい…」
翔の首に後ろからしがみ付いたまま、その背中に顔を押し付けた蓮のくぐもった声が翔にダイレクトに響いてくる。
「残業終わったのか?蓮」
「うん。やっとね。これで、ちゃんと週末を迎えられるわ。下手したら丸々休日出勤になるとこよ。思ったより、それでも早く何とかなったから、間に合うかな~って思ったのに…」
「そうならそうで、連絡しろよ」
「もう、とにかく間に合うかもって思って猛ダッシュしたんだもん。ここ、あたしの会社から、近いじゃない。…なのに」
くやしいくやしいくやしい~~!!
「由樹におごらせてやれなかった~!!」
…まだ、いってやがる…
背中にしがみついたままの蓮の言い草に、あっけにとられたままの日名子の横で由樹が苦笑する。
「しょう~ ねえ、しょう~ お腹すいた~ ごはん~食べたい~」
「お前、もしかして、晩飯抜きか?」
「うん」
もうすぐ九時半。それは、また気の毒に。
「可哀そうでしょ?可哀そうだよね? 可哀そうなこの蓮ちゃんに翔のご飯をください」
ぎゅう…と、翔の首にしがみ付いたままの蓮の腕に力が籠る。
ちょ、ちょっと待て! このまま首、絞め続ける気か。
「まて、まてまて!」
ちょっと待て!
作ってやりたいのは山々だが。
「今日はこれの予定だったから、飯たいてねーぞ」
これから帰ってしかけてもかなり時間が掛ってしまう。
「ついでにおかずになるもんが何もねぇ。作り置きですら、昨日お前が食いつくしたろうが」
「え~!? ひどい~あたしのごはん~!!」
お腹すいた。お腹すいた!!
こうなると、子供のだだとどう違うのかさっぱり分からなくなるが。
そこへ、さっきから笑い続けていた由樹が見かねて助け船を出してきた。
「なら、これから皆で大将のトコでも行くか」
「由樹?」
「由さん?」
「あそこなら、腹一杯食わせてくれるだろ? お互い、家からも近いし、ついでに酒もある」
―――― いえ、それは蓮にはいりませんが。
「正直、俺もいまいち物足りないんだよな。ピザは確かに美味かったが、夜はやっぱり米が食いたい」
「あ、由さんもですか? 実は俺も…」
夜は米。
これは食生活の基本だ。
「ええ~!信じらんない!あんなに食べてまた食べるの!?」
「米は別腹」
「それは、普通甘いものでしょうが!」
中森がなんと言おうとそこは譲れないぞ、俺は。
「…当然、由樹のおごりよね?」
「この状況下で、違うとは言えないだろ? 蓮、お前も翔もまとめて大将の所で俺が面倒見てやろう。ひなも行くか?」
「もちろん!――――でも、いいの? 門限…」
「俺が、付いてる時は良いだろ? ちゃんと送って行くから」
「やった~! 由兄大好き!」
「やった~! 由樹、大好きって言って欲しい?」
「遠慮する」
そんな会話に翔は首筋をさすりながら苦笑する。
やっと放された蓮の腕に少しだけ寂しいものを感じながら。
「れん?」
その声は四人でたどり着いた駅の、エントランスで掛けられた。
振りむいた俺達を見て、疑問の響きを失くした声がもう一度蓮を呼ぶ。
「蓮」
それは聞いたことがないくらいに低く、けれどその響きが全てを圧する様な大人の声。
振りむいた眼に映ったのは背の高い一人の男。
細面のその顔は美形と言うよりは精悍な印象を周囲に与え、引きしまった体躯は着込んだコートの上からでもその強さをうかがい知れる。
コートの下には、品のいい、スーツ。年は三十代前半と言ったところだろうか。
「…じん」
茫然とした蓮の唇から音が漏れるのを翔はその時確かに聞いた。
じん―――― その名前に、忘れていた筈の記憶が、翔を一瞬にして過去に連れ戻す。
雨。
土砂降りの雨。
大きな大人用の傘。
まだ、すっぽりとそれに隠れてしまう小さい自分。
雨。
全ての音を失くしてしまうほどの雨。
聞こえない声。
見えない顔。
なのに、それはしっかりと翔の眼に焼き付いて。
蓮よりも高い背丈。大きな背中。
縋りつく掌。ゆっくりと放される体。
夜の闇の中、微かな街灯の灯りだけが辺りを照らしていたはずなのに。
おぼえている。
忘れていない。
雨に―――― それだけではない何かに濡れそぼった蓮の唇が紡いだ音。
『じん』
聞こえない筈のその音を、翔はこんなにも鮮やかに覚えている―――――
「蓮…」
初めて聞くその声は、翔の気持ちをこれ以上ないほどざわめかせて蓮を呼ぶ。
「…久しぶりね…」
久しぶり、仁。
相手の名を呼び返す、その蓮の声音が翔の中にざらついた感情を呼び覚ます。
「…こんなところで、会えるなんてな…」
こんなところで―――― もう、後少しでも、此処に来るのが遅かったなら。
「よかったら、これから、付き合えるか?」
「…そうね…」
蓮の躊躇いは一瞬だった。
「由樹、日名子ちゃん。ゴメンネ。大将のトコはまた今度」
「ああ」
「蓮さん…!」
何かを言いかけた日名子の手をぐっと握って由樹が止める。
「翔」
振りむいて翔を見た、蓮の眼に迷いはなくて。
「翔、先に、帰っててくれる?」
「蓮」
「少し遅くなるかもしれないけど、帰るから」
帰るから。
その言葉に翔は縫いとめられて動けない。
「じゃあね」
ひらひらと手を振って、また雑踏の中に消えて行く蓮を翔は見送るしかない。
遠ざかっていく影が紛れて見えなくなった頃、由樹の手が翔の肩に掛る。
「翔…」
身動き一つしなかった翔の口から言葉が零れ出る。
「…あいつだ」
「翔?」
「あいつだ…」
雨の中、翔の知らない蓮を翔に見せつけた男。
「なんで…」
なんで、今更、こんなところで。
雨が降る。
今ではない雨の音が翔の耳に鳴り響く。
土砂降りの雨。
傘で防ぎきれないほど、地面を蓮をあの男を叩きつけていた雨。
迎えに出た翔の影を、雨はその中に隠しきっていた。
見る筈のなかった光景は記憶の中でこんなにも鮮やかなまま翔を射抜く。
崩れる。
俺と蓮の日常が崩れる。
何かが動き出す音を、翔は今、確かに聞いていた。
やっと、更新できました。
新キャラ登場。蓮の過去が、この後翔の前に現れてきます。
なかなか進みませんが、どうか、見守ってやってください。