「この屋根の下はわたしのもの」と嗤う夫へ。では住まわせていただきません——職人の消えた屋敷を残し、自分の屋根を葺きます
笑い声が、握り飯の塩より先に背へ刺さりました。
とはいえ、こちらは炊きたてでございます。握る手を止めれば米が冷める。客間の笑いなど、腹も満たさず屋根も直さぬ、ずいぶん実入りの悪い音でございました。
「この屋根の下はわたしのもの。梁も瓦も、井戸の底の石まで、わたしの銭で買ったものだ」
旦那様の声は、台所の焚口までよく届きます。あれほど通る声なら、雨漏りの穴へ詰めておけば、瓦一枚くらいの役には立つかもしれません。
「この者は住まわせてもらっている身でしてな」
客間で杯が上がりました。見れば、お客の一人が羽織の袖を汚すまいと高く掲げております。あの羽織一枚で、雨漏りする西の棟が二度は葺けますわね。見栄は雨を止めませんのに。
「まあ、お優しいこと」
義姉が扇をぱちんと鳴らし、客たちが追従して笑いました。一笑いにつき銅銭一枚いただけるなら、軒樋まで直せそうです。
わたくしは返事の代わりに、握り飯の腹へ焼いた味噌を詰めました。葱を散らした熱い汁も椀へよそい、裏庭で瓦を選り分けている屋根屋たちへ運びます。朝から火を落とさぬ竈は、客間の誰より働き者でございました。
「奥さん、こいつは俺らの分か」
棟梁は梯子へ片足を掛けたまま、握り飯を見ました。必要なことしか申さぬ方ですから、味噌が多いだの少ないだのという無益な講評もいたしません。実に信用できます。飯は食べる者が黙るほど上等なのです。
「ええ。昼までに東の軒を見ていただければ、手間賃も昼に」
「雨が来る前に終わらせる」
「では、汁が冷める前にどうぞ」
棟梁は梯子を下り、ほかの職人たちも車座になりました。客間には鯛があり、こちらには大根と豆腐の汁。けれど湯気はこちらの勝ち。冷えた鯛の尾をありがたがるより、熱い汁で舌を焼くほうが、わたくしは断然よろしゅうございます。
十年前に嫁いだとき、西の屋根は二年もたぬと言われておりました。翌年には井戸が濁り、その次は建具が冬の隙間風を招き、竈の焚口まで欠けました。家というものは、持ち主の顔色などうかがわず順番に壊れます。まことに公平。
屋根屋を呼ぶ日には天気を見て、竈師の日には粘土が乾く場所を空ける。建具屋が鉋を使う日は客を遠ざけ、井戸浚いが来れば朝のうちに水を汲んでおく。そうして昼には銭を渡し、腹へ熱いものを入れてもらう。どれも旦那様のご自慢にならぬので、宴の席では省かれる仕事でございました。
「奥方、旦那様がお呼びです」
女中に促されて客間へ出ると、旦那様は上機嫌でわたくしを杯の脇へ立たせました。わたくしの席はございません。立っていれば酒代が浮く——なるほど、これも甲斐性のうちなのでしょう。
「皆も遠慮はいらん。この屋敷は何もかもわたしが整えた。女房には好きに台所を使わせている」
「さすがでございます」
「庭の屋根屋も、旦那様がお抱えで?」
「もちろんだ。銭を出すのはわたしだからな」
棟梁は握り飯を二つ食べて、東の軒へ上がっております。旦那様は棟梁が味噌を好むことも、若い屋根屋が大根を椀の最後まで残すこともご存じない。知らずとも屋根は持てます。屋根屋の手まで持てるかは、また別のお値段でございますが。
「お客への膳を増やせ。酒ももう一本だ」
「かしこまりました」
「聞いたか。何でも好きに差配している顔をするが——誰の銭だ?」
客の耳へ届くよう、旦那様はわざわざ声を張りました。屋根屋には聞かせず、わたくしには聞き損ねようのない、たいへん具合のよい声量です。
「旦那様の銭でございます」
「そうだ。忘れぬことだ」
忘れられるものですか。酒一本は竈師の半日の手間賃、鯛二尾なら建具の立て付け一枚分。旦那様が客へ飲ませる銭は、わたくしの頭の中で次々と家の骨や皮へ化けてゆきます。せめて本当に化けてくれればよいのに。
宴の翌日、欠けた焚口を直しに竈師が参りました。灰を除けると、赤土の奥まで細い割れ目が走っております。竈師は指でなぞり、眉を寄せました。
「奥さん、これ以上は待たせられねえ。火が横へ回る」
「昨日、旦那様は客へ火のように熱いお話をなさっておりましたけれど、そちらでは代わりになりません?」
「ならねえな」
実務家の返答は早くてよろしい。
粘土を練る竈師の横へ、芋と牛蒡の汁、胡麻塩の握り飯を置きました。手間賃を包んだ布も、昼のうちにその隣へ置きます。仕事を終えた者を日暮れまで待たせると、次にこちらが急いだとき、向こうの手もきっちり日暮れまで来ません。人の半日は、こちらだけが安く買える品ではございませんもの。
「こないだ雨で流れた分まで入ってるぞ」
「半日、空けていただきましたから」
「仕事はしてねえ」
「ほかのお仕事を断って来てくださったでしょう。空いた腹へ、仕事をしたかどうか尋ねても膨れません」
竈師は包みを懐へ入れ、汁を一口すすりました。それだけでございます。恩だの情だのと名札を付ければ、たちまち安芝居になる。熱いものは、熱いうちに腹へ入ればよろしいのです。
雨で流れた半日を埋めぬ家は、三度目から決まって「手が塞がる」のでございます。銭を払えば人が来るなどとお思いの方は、ご自分の半日だけは天下一のお値打ち品と信じていらっしゃる。旦那様など、まさにその大店でございました。店主一人、客はなし。
盆には素麺を四軒へ届けました。暮れには酒二升と餅を、屋根屋、竈師、建具屋、井戸浚いへ。豪華である必要はございません。今年も頼みますと、口より先に腹へ届けばよいのです。
暮れの風に酒瓶を下げて戻ると、門先に義姉の駕籠がありました。嫌な予感は、瓦よりよく当たります。
「まあ。また家のものを持ち出してきたの?」
義姉は火鉢の前で手を温め、わたくしの空いた手を見ました。旦那様は上座で煙管を弄び、待ってましたとばかりに鼻を鳴らします。
「職人へ酒二升と餅を届けてまいりました」
「このお屋敷へ出入りできるだけでも、ありがたいでしょうに」
「まったくだ。居候が家の銭で顔を売る。ずいぶん立派な奥方ぶりだな」
義姉の扇が、またぱちんと鳴りました。冬まで扇を持ち歩くとは、旦那様を囃すための専用道具なのでしょう。あれを薪にすれば湯が一杯——いけません、塗りが臭いますわね。竈への侮辱です。
「左様でございますね」
わたくしはそれだけ申し上げました。
その夜、旦那様は酒を飲み、義姉は夕餉まで食べて帰りました。鰤の照り焼きを二切れ。居候の差配した膳でも、喉は素直に通るようで何よりです。
翌朝、わたくしは一番の外出着へ袖を通しました。荷は風呂敷一つ。衣と櫛、それから履き慣れた足袋だけです。持って出るほどのものなど、初めからほとんど持っておりませんでした。
旦那様は朝餉の席で、わたくしの荷を見ても箸を置きませんでした。
「どこへ行く」
「こちらを出てまいります」
「何を馬鹿な。誰がそのようなことを許した」
「お許しは要りませんでしょう」
旦那様の箸が止まりました。味噌汁の表で豆腐が一つ、ゆらりと回ります。
「屋根も瓦も竈も、みなあなた様のもの。わたくしは住まわせてもらっている身とのことでしたから」
「それは、客前での言い回しだ」
「客前だけでなく、義姉様の前でも伺いました」
「だからといって、出ていく妻があるか」
「では、わたくしの家でございますか」
旦那様の口が開きました。閉じました。また開き、今度は味噌汁をすすりました。ずいぶん熱かったらしく、眉間へ深い皺が寄ります。答えの代わりとしては、少々お行儀が悪い。
「あなた様のおっしゃるとおりでございます。わたくしのものではない場所へ、これ以上住まわせていただくわけにはまいりません」
「勝手にしろ。じきに戻ることになる」
「はい。勝手にいたします」
これほど夫婦の会話が噛み合ったのは、十年で初めてかもしれません。ありがたいことです。最後に一つ、値のつかぬものをいただきました。
わたくしは台所へ戻り、焚口の前へ膝をつきました。鍋を下ろし、残った薪を退け、灰を掻いて火を落とします。十年、一日も冷たくしたことのない竈でした。
赤みが消えてゆく焚口を、振り返りました。
「わたくしはこの竈を、十年、わたくしの家のものだと思うておりました」
旦那様は何も申しませんでした。
わたくしは門を出ました。風呂敷一つなら、戸を閉める音まで軽いものでございました。
その夜から雨になりました。
ひとまず泊めてくださった町の宿では、二階の端からぽつり、ぽつりと雫が落ちました。女将に頼まれ、桶を三つ置きます。桶の位置を見るだけで、屋根のどこが傷んでいるか、おおよそ見当がつくようになってしまったわたくしです。奥方修業の成果としては、たいそう色気に欠けます。
翌朝、雨は上がりました。宿の裏口で粥をすすっていると、道を屋根屋たちが通ります。肩には梯子、手には縄。朝日を吸った濡れ瓦が、町じゅうで鈍く光っておりました。
棟梁は旦那様の屋敷の門前へ差しかかりました。西の棟には雨の筋が黒々と残り、軒先からまだ雫が垂れております。それでも梯子は止まりません。一本も。
「おい、待て!」
門から旦那様が飛び出しました。羽織の帯が曲がっております。あれでは客前に出られませんね。もっとも、屋根へ上がる棟梁は羽織の折り目など見ません。
「うちの屋根を先に見ろ。雨が入った」
「先約がある」
「昔からうちへ出入りしていただろう!」
棟梁は足を止めましたが、梯子を下ろしませんでした。若い屋根屋たちも旦那様を見ず、隣家の軒を見上げております。
「うちは屋敷に呼ばれてたんじゃねえ。奥さんに呼ばれてたんだ」
それだけ言い、棟梁は隣家の壁へ梯子を立てました。縄が締まり、木の端が土を噛みます。旦那様の屋敷だけ、空が丸見えでございました。
(職人など、銭を倍積めば明日にでも来る)
「倍だ! 手間賃を倍出す!」
旦那様はさっそく叫びました。さすが、旦那様。値札のないものへ値札を付ける速さだけは、わたくしより上でございます。
棟梁は振り返らず、梯子を上りました。
旦那様の倍額は、その日のうちに町を一巡したようです。竈師は「あいにく手が塞がっておりまして」と答え、焚口を見にも行かなかった。建具屋は鉋を布へ包んだまま首を横へ振り、井戸浚いは濁った水の話を聞いても両手を上げただけだったと、宿へ来た青物売りが申しました。
わたくしは鍋の蓋をずらし、吹きこぼれぬよう火を弱めました。人の不幸を煮炊きの肴にする趣味はございません。ですが、倍の銭が半日の手当一つに負けたと聞けば、汁の塩加減も少し冴えるというものです。今朝は実によい塩梅。
棟梁が女将へ一言だけ口を利きました。女将も、わたくしが鍋を三つ同時に回すのを見て、昼の賄いを頼みました。翌日には、宿の離れの建具を誰へ頼めばよいかと尋ねます。わたくしは建具屋の空く日を聞き、鉋屑を片づける場所と昼餉の刻を先に決めました。
「奥さんの頼みなら、五日後だ」
「昼は炊き込み飯にいたします」
「四日後に空く」
炊き込み飯一つで一日縮みました。銭だけでは動かぬ手も、牛蒡と油揚げには弱い。人とはなんと愛すべき腹をしているのでしょう。わたくしも同類です。
竈師には宿の古い焚口を見てもらい、井戸浚いには裏井戸の泥を上げてもらいました。雨の日に仕事が流れれば、女将へ半日分を出すよう頼みます。出せぬ日は、せめて飯と酒を持たせる。女将は算盤を二度弾いたあと、わたくしの献立を一度食べて頷きました。胃袋はときどき、算盤より正確です。
旦那様の屋敷では、焚口に火が入らなくなりました。雇われた賄い女中は、薪が湿っている、井戸水が濁る、建具が閉まらぬと三日で去ったそうです。雨のたびに桶が増え、次の宴の日には客の駕籠が一つも門へ入らなかった。
義姉の扇も寄りつきませんでした。濡れると塗りが剥げるのでしょう。姉弟の情も、膠で貼った骨ほどには雨へ強くなかったようです。
近隣の奥方たちは宿の土間で声を潜めました。
「あのお屋敷、今度の集まりもお断りですって」
「奥方が出たからでしょう。あちらで宴などしたら、裾へ雨が落ちますもの」
旦那様が屋敷を自慢したときには杯を上げた方々です。杯は上がっても、雨の日の裾までは差し出さない。まことに堅実でございます。
半月後、旦那様は屋敷を所有したまま、親戚の離れへ移りました。屋根も瓦も井戸の底の石も、きちんと旦那様のものでございます。何一つ失っていらっしゃらない。ただ、そこへ住めなくなっただけ。
家とは、ずいぶん場所を取る飾り物だったのですね。
わたくしは宿の賄いに加え、別家へ出入りする職人の差配も任されました。朝は粥、昼は握り飯と熱い汁。手間賃は昼に渡し、雨なら半日分を埋める。盆には素麺、暮れには酒二升と餅。新しいことはしておりません。十年、値が付かなかった仕事へ、ようやく値が付いただけでした。
季節が一つ巡るころには、宿の裏手にある小さな土地と、家の普請を賄えるだけの銭が貯まりました。母屋の半分にも満たぬ広さです。けれど狭い土地は結構。屋根も竈も小さく済み、掃除の手間はさらに安い。見栄を置く部屋だけは、最初から建てませんでした。
「屋根はどうする」
棟梁が地面へ杭を打ちながら尋ねました。
「雨の入らぬものを。客へ自慢できぬほど丈夫にお願いいたします」
「面倒な注文だな」
「昼は茸の炊き込み飯です」
「請けた」
やはり胃袋は強い。
棟梁の梯子が、今度はわたくしの家へ立ちました。竈師が焚口を整え、建具屋が戸を滑らせ、井戸浚いが澄んだ水を柄杓で掬います。誰も旦那様の話をしませんでした。わたくしもいたしません。新しい屋根の下で古い雨漏りを数えるなど、場所代の無駄ですもの。
雨で半日作業が止まった日は、わたくしの裁量で手当を渡しました。棟梁は包みを懐へ入れ、翌朝、予定より早く梯子を掛けます。礼など申さず、こちらも聞かず。代わりに握り飯を一つ増やしました。たいへん明瞭な会話でございます。
屋根を葺き終えた日、わたくしは新しい竈へ自分で火を入れました。乾いた薪が爆ぜ、鍋の底を炎が舐めます。湯気が蓋を押し上げた瞬間、わたくしの頭は新しい家の相場暗算を始めました。
瓦は何年、梁は何年。建具の油は春に一度、井戸は夏前にもう一度。そうそう、この竈なら薪は一束少なく済みます。よろしい、たいへんよろしい。査定再開でございます!
昼には職人衆が自然に集まりました。棟梁、竈師、建具屋、井戸浚い。土間へ車座になり、炊き込み飯と芋の汁を囲みます。わたくしも同じ輪へ座り、自分の椀を取りました。
「奥さん、座ってていいのか」
竈師が申しました。
「ここでは、わたくしが座る場所もわたくしのものです」
「なら、汁をもう一杯くれ」
「それとこれは別勘定でございます」
笑い声が屋根へ当たり、落ちずに残りました。
門の外に人影が立ったのは、炊き込み飯を二膳たいらげたころです。旦那様でした。以前より痩せて見えましたが、羽織だけは上等です。あれなら軒樋と戸板一枚——いけません。今日は祝いの日。人様の羽織まで査定していては、飯が冷めます。
「話がある」
「お食事中ですので、手短にお願いいたします」
旦那様は職人たちを見回しました。誰も立ちません。棟梁は汁をすすり、建具屋は焦げた飯を箸で剥がしております。
「屋敷へ戻ってくれ」
「なぜでございますか」
「女中が続かん。屋根屋も竈師も来ない。客を呼べる状態ではないんだ」
わたくしが恋しいとは、とうとうおっしゃいませんでした。そこまで見事に便宜だけを拾ってくださると、こちらも余計なものを拾わずに済みます。十年分の答え合わせとしては満点。花丸まで差し上げたい。
「賄いの銭なら出す。以前より自由に使っていい」
「こちらで賄いの銭をいただいております」
「倍出そう」
おや。また倍。旦那様の世界には、一と倍の間がないらしい。
「屋敷はおまえの家でもある。今さら意地を張るな」
「わたくしの家、でございますか」
「ああ。だから戻れ」
旦那様は門を一歩くぐりました。頭上で、新しい軒先が陽を切っております。棟梁の葺いた瓦、竈師の火、建具屋の戸、井戸浚いの水。すべてにわたくしが銭を払い、昼を整え、雨の日の半日を勘定へ入れました。
わたくしは椀を置き、旦那様を見ました。
「この屋根の下はわたしのもの」
旦那様の口が、あの朝と同じ形に開きました。
「ですから、わたくしは出てまいりません」
門は閉ざしませんでした。閉めずとも、旦那様は入ってこられません。しばらく軒先を見上げ、それから上等な羽織の裾を返しました。
わたくしは椀を取り上げました。まだ湯気が立っております。よろしい、間に合いました。
「これですわ。飯は湯気が命。十年分まで熱いうちにいただきましょう」
職人たちの椀へ汁を足し、わたくしも一口すすりました。頭の上では、わたくしの屋根が、誰の許しも借りずに陽を受けておりました。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




