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行きつけの薬師の魔女が、ことあるごとに惚れ薬をぶっかけようとしてくる

作者: 月宮 かすみ
掲載日:2026/05/28

 

 辺境騎士団において、薬師の魔女リゼットは非常に重宝されていた。


 傷薬はよく効く。熱冷ましも効く。毒消しなどは王都の薬師が作るものより早く効く。


 ただし、彼女の家へ薬を取りに行く者は少ない。


 理由は単純だった。


 危ないからである。


「アルフレッド。悪いが、リゼットのところへ行ってきてくれ」


 団長にそう言われたとき、騎士アルフレッドは無言で眉を寄せた。


「……またですか」


「まただ。胃薬が切れた」


「団長が酒を控えれば済む話では」


「それはそれ。これはこれだ」


 任務なら仕方ない。


 アルフレッドは溜息を飲み込み、辺境の森の奥にある魔女の家へ向かった。


 リゼットの家は、森の中にぽつんと建っている。


 屋根には薬草が干され、窓辺には色とりどりの瓶が並び、扉の横には手書きの札が掛かっていた。


『開ける前に声をかけてください。爆発することがあります』


 爆発することがある家に、薬を取りに来させるな。


 アルフレッドはそう思いながら、扉を叩いた。


「リゼット。辺境騎士団のアルフレッドだ。薬を受け取りに来た」


 返事はない。


「入るぞ」


 扉を開けた瞬間だった。


「きゃっ」


 小さな悲鳴と共に、薄桃色の液体がアルフレッドの顔面めがけて飛んできた。


「……っ!」


 アルフレッドは反射で身をひねった。


 液体は彼の頬すれすれを通過し、背後の木にぶちまけられる。甘ったるい香りがふわりと広がった。


 作業台の向こうで、リゼットが両手を口元に当てて固まっている。


 栗色の髪はあちこち跳ね、黒いローブの袖には薬草の粉がついていた。大きな琥珀色の瞳がうろうろしている。


 アルフレッドは低い声で問うた。


「これはなんだ」


「惚れ薬です!」


「なんでそんなものを作っている?」


「練習で……」


「練習で惚れ薬を作るな!」


 リゼットは肩をすぼめた。


「でも、薬師として幅広い分野に対応できたほうがいいかなって」


「幅を広げる方向が間違っている」


「まだ未完成です。飲ませなければ効きません……多分」


「なら、なぜ俺に向かって飛んできた」


「びっくりして……」


「びっくりしたのはこっちだ」


 アルフレッドは眉間を押さえた。


 任務は薬の受け取り。


 余計な説教をする時間はない。


「団長の胃薬をもらいに来た」


「あ、はい。今お包みします」


 リゼットは慌てて棚へ向かい、小瓶をいくつか取り出した。


 その動作自体は手慣れている。薬を選ぶ指先も迷いがない。


 腕はいい。


 腕はいいのだ。


 それ以外が致命的に危ないだけで。


「こちらです。朝晩一粒ずつ。酒を飲むなら二粒です」


「団長には十粒渡しておく」


「死にます」


「冗談だ」


 アルフレッドが薬包を受け取ると、リゼットはどこかほっとしたように笑った。


「今日は避けるのがお上手でしたね」


「今日は、とはなんだ」


「いえ。なんでもありません」


 その言い方が、妙に引っかかった。



 そして数日後。


「アルフレッド、リゼットのところへ行ってきてくれ」


「嫌です」


「まだ用件を言っていない」


「リゼットのところへ行けと言われた時点で用件は十分です」


「副団長の傷薬が切れた」


「……任務なら行きます」


 アルフレッドは再び森へ向かった。


 今度は慎重だった。


 扉の前で三回叩き、一歩下がる。


「リゼット。アルフレッドだ。傷薬を取りに来た。開けるぞ」


「は、はい! どうぞ!」


 返事があった。


 安全だ。


 そう判断した自分を、アルフレッドは後に恥じることになる。


 扉を開けると、リゼットが戸棚から小瓶を取り出し、こちらへ駆け寄ってきた。


「こちらが傷薬で――あっ」


 何もない床で、彼女はつまずいた。


 なぜか小瓶の蓋は開いていた。


 なぜか中身は薄桃色だった。


 なぜか液体はまっすぐアルフレッドの胸元へ向かって飛んできた。


「……!」


 アルフレッドは半歩横へずれた。


 液体は彼のマントをかすめ、床に散った。


「なっ、貴重な薬をこぼすなんて――」


「大丈夫です! 惚れ薬ですから!」


「惚れ薬!?」


「間違えました!」


「何と間違えたら惚れ薬になる!」


「傷薬です!」


「色が違う!」


「あっ、本当だ!」


「今気づいたのか!?」


 アルフレッドが声を上げると、リゼットは慌てて床にしゃがみ込んだ。


 こぼれた薄桃色の液体を前に、両手をわたわたと泳がせている。


「ど、どうしましょう……。床がアルフレッド様に恋をしてしまうかもしれません」


「床に効く薬なのか、これは」


「いえ、たぶん効きません」


「たぶんで物を言うな」


「でも、床が急にアルフレッド様を離さなくなったら困るので」


「床が俺を離さない状況とはなんだ」


 リゼットは真剣な顔で床を見つめた。


 その顔があまりにも真剣なので、アルフレッドは余計に腹が立った。


「……リゼット」


「はい」


「傷薬はどこだ」


「こちらです」


 リゼットは立ち上がり、今度こそ戸棚から別の小瓶を取り出した。


 透明な軟膏が入っている。


 アルフレッドは目を細めた。


「本当に傷薬か」


「はい。今度こそ傷薬です!」


「蓋を開けるな」


「でも、中身を確認したほうが」


「開けるな」


「はい……」


 リゼットはしゅんとした顔で小瓶を差し出した。


 アルフレッドはそれを受け取る前に、彼女の手元を確認する。


 蓋は閉まっている。


 中身は薄桃色ではない。


 匂いもしない。


 ようやく安全だと判断し、彼は小瓶を受け取った。


「次からは、惚れ薬と傷薬を同じ棚に置くな」


「はい」


「同じ大きさの瓶に入れるな」


「はい」


「そもそも惚れ薬を作るな」


「それは……」


「なぜそこで返事が止まる」


 リゼットは目をそらした。


「薬師として、作れる薬の種類は多いほうがいいかなと」


「それは前にも聞いた」


「それに、もし必要な人がいたら」


「誰が必要とする」


「片想いの人とか……」


 リゼットの声が、最後だけ小さくなった。


 アルフレッドは一瞬だけ黙る。


 リゼットはすぐに顔を上げた。


「も、もちろん悪用はしません! ちゃんと倫理的に、平和的に、適切な濃度で!」


「惚れ薬に倫理的な濃度があるのか」


「あります。多分」


「また、多分か」


 アルフレッドは小瓶を懐にしまい、魔女の家を後にした。


 懐には、傷薬と一緒に、没収した惚れ薬が三本入っていた。



 さらに数日後。


 アルフレッドは扉の前でしばらく考えた。


 今日は違うはずだ。


 薬をもらうだけだ。


 そう自分に言い聞かせ、いつもより低い声で言った。


「リゼット。例の薬は――」


「えーい!」


「危な!」


 扉の隙間から、薄桃色の液体が横薙ぎに飛んできた。


 アルフレッドは首を引いて回避する。液体は森の草むらへ消えた。


 扉の向こうで、リゼットが瓶を握ったまま固まっている。


「いきなり何をする!」


「不審者だと思って」


「だからって怪しい薬品を撒くな!」


「大丈夫です。惚れ薬なんで!」


「不審者に惚れ薬を!?」


「惚れれば不審者ではなくなる可能性が」


「危険思想だ!」


 リゼットは視線を泳がせた。


「それに、アルフレッド様は毎回避けるので」


「避けるに決まっている」


「すごく避けますね」


「感心するところではない」


「騎士団の方って皆さんそうなんですか?」


「惚れ薬を浴びせられた経験がある騎士は、少なくとも俺の知る限りいない」


「では、アルフレッド様だけの特別な経験ですね」


「嬉しくない」


 そう言ったのに、リゼットは少しだけ笑った。


 本当に、少しだけ。


 薬棚の陰で、ほっとしたような、嬉しそうな顔をした。


 アルフレッドはそこで一瞬だけ言葉に詰まった。


 彼女は危険だ。


 油断ならない。


 だが、悪意はない。


 多分。


 おそらく。


 できればそうであってほしい。



 そして、また別の日。


「いい加減、来るのが怖くなってきた」


 アルフレッドは扉の前で呟いた。


 今回は団長の胃薬でも、副団長の傷薬でもない。


 自分の手の甲にできた切り傷を治す薬をもらいに来たのだ。


 つまり、来なくてもよかった。


 騎士団の薬箱にある普通の傷薬でも済んだ。


 それでも足が向いた。


 理由は分からない。


 分かりたくもなかった。


「リゼット。入るぞ」


 扉を開けた。


「危ない!」


 声がした。


 同時に、天井から大量の小瓶が降ってきた。


 しかも全て蓋がない。


 薄桃色の液体が、雨のように降り注ぐ。


「……っ!」


 アルフレッドは動いた。


 一歩下がり、身を沈め、肩を引き、剣の鞘で一本を弾き、机を蹴って跳ねた瓶を避ける。


 最後の一本が頬をかすめる寸前、彼は指先で瓶の首をつかんだ。


 床にも、壁にも、作業台にも、薄桃色の液体が飛び散っている。


 しかしアルフレッドには一滴もかかっていなかった。


 リゼットは目を丸くしていた。


 そして、舌打ちした。


「ちっ!」


「今、舌打ちしたか?」


「してません」



 さらに日が経ち。


 アルフレッドは、森の前で足を止めた。


「……今日こそ、何も起きないはずだ」


 そう口にした時点で、すでに負けている気がした。


 だが、今回は用心している。


 扉を開ける前に天井を見る。足元も見る。窓も確認する。棚の位置まで記憶しておく。


 そこまでしてから、アルフレッドは扉を叩いた。


「リゼット。アルフレッドだ。入るぞ」


 中から、少し間の抜けた声が返ってきた。


「はーい! 今日は大丈夫です!」


「その言葉が一番信用できない」


 アルフレッドは慎重に扉を開けた。


 天井からは何も降ってこない。


 床にも罠はない。


 棚の上にも、小瓶はない。


 アルフレッドはわずかに息を吐いた。


「……本当に大丈夫そうだな」


「はい! 今日は何も仕掛けていません!」


「仕掛ける前提で話すな」


 リゼットは作業台の前で胸を張っていた。


 その手には、きちんと蓋の閉まった小瓶がある。


「今日はちゃんと普通の薬です」


「本当だな」


「本当です。惚れ薬ではありません」


「自分から言うな」


「念のためです」


 アルフレッドは近づき、小瓶を受け取ろうとした。


 その瞬間、リゼットの袖が作業台の端に引っかかった。


「あっ」


「……」


 アルフレッドは無言で一歩下がった。


 次の瞬間、作業台の上に置かれていた別の小瓶が倒れた。


 蓋は、開いていた。


 中身は、薄桃色だった。


「リゼット」


「違います」


「まだ何も言っていない」


「違います」


「これはなんだ」


「……惚れ薬です」


「今日は何も仕掛けていないと言ったな」


「仕掛けてはいません。置いてありました」


「もっと悪い」


 薄桃色の液体が、作業台の端からぽたりと落ちた。


 アルフレッドは、それを見て即座に身を引いた。


 液体は床に落ち、甘い香りを広げる。


 リゼットは真剣な顔で言った。


「でも、今回はアルフレッド様に向かっていません」


「進歩の基準が低すぎる」


「褒めてくれてもいいんですよ」


「褒める要素がない」


 アルフレッドは額を押さえた。


 やはり、今日も無事では済まなかった。



 数日後。


 アルフレッドは、魔女の家の扉から少し離れた場所に立っていた。


 距離は三歩。


 いや、念のため五歩。


「リゼット。アルフレッドだ」


 扉の向こうで、がたん、と何かが倒れる音がした。


 アルフレッドは無言でさらに一歩下がった。


「い、今開けます!」


「走るな」


「走ってません!」


 明らかに走っている足音がした。


 次の瞬間、扉が勢いよく開く。


 リゼットが顔を出した。


 栗色の髪は今日もあちこち跳ねていて、黒いローブの袖には薬草の粉がついている。大きな琥珀色の瞳が、なぜか期待に満ちていた。


「今日は絶対に絶対に大丈夫です!」


「その言葉を聞くたびに危険が増している気がする」


「本当に大丈夫です。今日は惚れ薬を持っていません」


「では、その後ろ手に隠しているものはなんだ」


 リゼットの肩がぴくりと跳ねた。


「……普通の薬です」


「見せろ」


「普通の薬です」


「見せろ」


 リゼットは観念したように、背中に隠していた小瓶を差し出した。


 中身は薄桃色だった。


「リゼット」


「違います」


「まだ何も言っていない」


「これは惚れ薬ではありません」


「では何だ」


「好きな人の前で少しだけ素直になれる薬です」


「ほぼ同じだ」


「全然違います。効き方が穏やかです」


「効かせようとするな」


 アルフレッドは小瓶を取り上げた。


 リゼットは名残惜しそうにその瓶を目で追う。


「なぜ残念そうなんだ」


「せっかく今日は、こぼさずに渡せそうだったので」


「渡すな」


「一口だけでも」


「飲まない」


「香りだけでも」


「嗅がない」


「では、瓶を見るだけ」


「今見ている」


「あっ、本当ですね」


 リゼットは少し嬉しそうにした。


 アルフレッドは頭が痛くなった。


「それで、疲労回復薬はできたのか?」


「あ、そうでした。今持ってきますね」


「最初からそれを出せ」


「はい!」


 リゼットは家の中へ引っ込んだ。


 アルフレッドは扉の外で待つ。


 中に入らない。


 今日は絶対に入らない。


 そう決めていた。


 しかし、すぐに中から困ったような声がした。


「あの、アルフレッド様」


「なんだ」


「疲労回復薬の瓶が、棚の上にありまして」


「取れないのか」


「取れます」


「なら取れ」


「ただ、隣に惚れ薬がありまして」


「なぜ隣に置く」


「色が綺麗だったので……」


 アルフレッドは深く息を吐いた。


 結局、彼は扉をくぐった。


 作業台の上は、珍しく片付いていた。


 床にも薬はこぼれていない。


 天井にも小瓶はない。


 本当に、今日は安全に見えた。


「どれだ」


「あの棚の右端です」


 アルフレッドが棚に手を伸ばす。


 その横で、リゼットがそわそわと彼を見上げていた。


「何を見ている」


「背が高いなと思って」


「それだけか」


「はい」


 少し間が空いた。


「……あと、手が届くのが格好いいなと」


 アルフレッドの手が止まった。


 リゼットは言ってから、自分で真っ赤になった。


「い、今のは薬のせいではありません!」


「まだ何も言っていない」


「薬ではありません!」


「分かった」


 アルフレッドは疲労回復薬の瓶を取った。


 その隣に置いてあった薄桃色の小瓶も、ついでに取る。


「あっ」


「これは没収する」


「でも」


「没収する」


「……はい」


 リゼットはしゅんとした。


 アルフレッドは疲労回復薬だけを懐にしまい、惚れ薬の小瓶を片手に持つ。


「これで用件は済んだな」


「はい」


「では帰る」


「あ……」


 リゼットの声が、小さく落ちた。


 アルフレッドは扉へ向かいかけて、足を止める。


 振り返ると、リゼットは慌てて笑った。


「お気をつけて」


 その笑顔は、いつものように騒がしくなかった。


 何かをこぼすわけでも、投げるわけでもない。


 ただ、少し寂しそうだった。


 アルフレッドは、手の中の薄桃色の小瓶を見下ろした。


「リゼット」


「はい」


「茶はあるか」


 リゼットが目を丸くする。


「お茶、ですか?」


「ああ」


「あります。普通のお茶です」


「本当だな」


「本当です。今日は本当に普通です」


「なら、一杯だけ飲んでいく」


 リゼットの顔が、ぱっと明るくなった。


「はい!」


「走るな」


「はい!」


 そう返事をしながら、リゼットはほとんど跳ねるように作業台へ向かった。


 アルフレッドは小さく息を吐く。


 もう少し警戒するべきだ。


 そう思うのに、なぜか足は扉ではなく椅子へ向かっていた。


 リゼットが茶器を用意する音が、いつもより少しだけ楽しそうに聞こえた。



 また別の日。


 アルフレッドは、魔女の家の扉の前で深く息を吐いた。


 今日は薬の用事ではない。


 団長に頼まれたわけでも、副団長に命じられたわけでもない。


 ただ、来た。


 その事実がどうにも落ち着かなくて、アルフレッドはいつもより強めに扉を叩いた。


「リゼット。アルフレッドだ」


 中から、がたん、と音がした。


 それだけで嫌な予感がした。


「待ってください! 今、片付けています!」


「何をだ」


「何もです!」


「何も片付けるな」


 アルフレッドは扉を開けた。


 その瞬間、床に張られていた細い糸が足に触れた。


「……」


 天井から、小瓶が落ちてきた。


 アルフレッドは半歩下がる。


 小瓶は彼の目の前を通り過ぎ――作業台の前にいたリゼットの頭上で割れた。


「きゃっ」


 薄桃色の液体が、リゼットの髪と肩に降りかかった。


 部屋に甘い香りが広がる。


 リゼットは固まった。


 アルフレッドも固まった。


「……リゼット」


「はい」


「これは?」


「……惚れ薬です」


「なぜ天井に仕掛けた」


「アルフレッド様が、最近あまり驚いてくださらないので……」


「俺を驚かせるために惚れ薬を仕掛けるな!」


「はい……」


 リゼットはしゅんとした。


 濡れた栗色の髪から、薄桃色の雫がぽたりと落ちる。


 アルフレッドは慌てて近くの布を取った。


「動くな。目に入ったら危ない」


「はい」


 リゼットは素直に立っていた。


 いつもなら言い訳を重ねるところだ。


 だが、今日は妙に静かだった。


 アルフレッドは布で彼女の髪を拭う。


「効くのか」


「たぶん……少しだけ」


「少し?」


「飲んでいないので、強くはありません。ただ、気持ちが少し抑えにくくなるかもしれません」


「そうか。なら念のため外に出よう」


 アルフレッドが身を引こうとすると、リゼットが反射的に彼の袖をつかんだ。


 細い指が、ぎゅっと布を握る。


「行かないでください」


 アルフレッドは動きを止めた。


 リゼット自身も、自分の言葉に驚いたように目を見開いている。


「……今のは、薬のせいか」


「分かりません」


「なら離せ」


「嫌です」


 即答だった。


 リゼットの顔が一気に赤くなる。


「ち、違います。違わないですけど、違います」


「落ち着け」


「無理です。アルフレッド様が近いので」


「俺が拭いているからだ」


「いつも近くに来てほしいと思っています」


 言ってから、リゼットは両手で口を押さえた。


 アルフレッドは布を持ったまま固まった。


 惚れ薬の香りがする。


 だが、それよりも、リゼットの必死な目のほうが厄介だった。


「リゼット」


「聞かなかったことにしてください」


「無理だ」


「では、薬のせいにしてください」


「それも無理だ」


 リゼットは泣きそうな顔になった。


「私は、ずっとアルフレッド様に来てほしかっただけです」


 声が震えていた。


「薬を渡したら帰ってしまうから。普通に話しかける勇気がないから。だから、変なことばかりしました」


「変なことの範囲を超えていたがな」


「はい」


「危険だった」


「はい」


「迷惑だった」


「……はい」


 リゼットの指が、アルフレッドの袖からゆっくり離れた。


「もう、しません」


 その言葉は、今までで一番まともだった。


 そして一番寂しそうだった。


 アルフレッドは布を置いた。


「リゼット」


「はい」


「惚れ薬は、もう作るな」


「はい」


「俺に向けるな」


「はい」


「自分にもかぶるな」


「はい……」


「だが」


 リゼットが顔を上げる。


 アルフレッドは、少しだけ視線を逸らした。


「薬がなくても、俺は来る」


 リゼットの琥珀色の瞳が揺れた。


「本当に?」


「ああ」


「薬の用事がなくても?」


「ああ」


「何も飛ばさなくても?」


「飛ばすな」


「何もこぼさなくても?」


「こぼすな」


「天井から何も降らせなくても?」


「二度と降らせるな」


 リゼットは、くしゃりと笑った。


 薄桃色の薬に濡れた髪のまま、今にも泣きそうな顔で笑った。


「では、お茶を出してもいいですか」


「普通の茶ならな」


「普通の茶です」


「本当だな」


「はい。惚れ薬は、もういりません」


 リゼットは棚へ向かおうとして、足を止めた。


 それから不安そうに振り返る。


「……でも、今の私は薬が効いているかもしれません」


「そうだな」


「だから、今言ったことは信用できないかもしれません」


「では、明日また聞く」


「明日?」


 アルフレッドは頷いた。


「明日も来る」


 リゼットは目を丸くした。


 それから、真っ赤になって俯く。


「……明日も、お茶を用意しておきます」


「ああ」


「普通の茶を」


「それでいい」


 アルフレッドは、床に落ちた割れた瓶を見た。


 長かった戦いが終わった気がした。


 惚れ薬を避け続けた日々。


 天井を警戒し、床を疑い、戸棚を見るたびに身構えた日々。


 その結末が、普通のお茶一杯になるとは思わなかった。


 けれど、悪くない。


 リゼットが小さく言った。


「アルフレッド様」


「なんだ」


「明日、来なかったら嫌です」


「行く」


「本当に?」


「ああ」


「薬が効いていない私でも、同じことを言うと思います」


 アルフレッドは一瞬だけ黙った。


 それから、濡れた彼女の髪に布をかぶせ直した。


「なら、明日もう一度聞く」


 リゼットは布の下で、嬉しそうに笑った。


 そして翌日。


 アルフレッドが魔女の家を訪ねると、天井からは何も降ってこなかった。


 扉の隙間からも、薄桃色の液体は飛んでこなかった。


 ただ、リゼットが扉を開けて、真っ赤な顔で言った。


「お待ちしていました」


 机の上には、普通のお茶が二杯。


 棚には、新しい札がかかっていた。


『惚れ薬、製造中止』


 その下に、小さく書き足されている。


『ただし、アルフレッド様用のお茶はあります』


 アルフレッドはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。


「名前を書くな」


「では、騎士様用にします」


「それもやめろ」


「では、好きな人用」


「もっとやめろ」


 リゼットは楽しそうに笑った。


 アルフレッドは溜息をつきながら、椅子に座る。


 惚れ薬は、もうない。


 だがどうやら、自分には最初から必要なかったらしい。


 普通のお茶を差し出されただけで、彼はまた明日もここに来る理由を考えていた。


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