行きつけの薬師の魔女が、ことあるごとに惚れ薬をぶっかけようとしてくる
辺境騎士団において、薬師の魔女リゼットは非常に重宝されていた。
傷薬はよく効く。熱冷ましも効く。毒消しなどは王都の薬師が作るものより早く効く。
ただし、彼女の家へ薬を取りに行く者は少ない。
理由は単純だった。
危ないからである。
「アルフレッド。悪いが、リゼットのところへ行ってきてくれ」
団長にそう言われたとき、騎士アルフレッドは無言で眉を寄せた。
「……またですか」
「まただ。胃薬が切れた」
「団長が酒を控えれば済む話では」
「それはそれ。これはこれだ」
任務なら仕方ない。
アルフレッドは溜息を飲み込み、辺境の森の奥にある魔女の家へ向かった。
リゼットの家は、森の中にぽつんと建っている。
屋根には薬草が干され、窓辺には色とりどりの瓶が並び、扉の横には手書きの札が掛かっていた。
『開ける前に声をかけてください。爆発することがあります』
爆発することがある家に、薬を取りに来させるな。
アルフレッドはそう思いながら、扉を叩いた。
「リゼット。辺境騎士団のアルフレッドだ。薬を受け取りに来た」
返事はない。
「入るぞ」
扉を開けた瞬間だった。
「きゃっ」
小さな悲鳴と共に、薄桃色の液体がアルフレッドの顔面めがけて飛んできた。
「……っ!」
アルフレッドは反射で身をひねった。
液体は彼の頬すれすれを通過し、背後の木にぶちまけられる。甘ったるい香りがふわりと広がった。
作業台の向こうで、リゼットが両手を口元に当てて固まっている。
栗色の髪はあちこち跳ね、黒いローブの袖には薬草の粉がついていた。大きな琥珀色の瞳がうろうろしている。
アルフレッドは低い声で問うた。
「これはなんだ」
「惚れ薬です!」
「なんでそんなものを作っている?」
「練習で……」
「練習で惚れ薬を作るな!」
リゼットは肩をすぼめた。
「でも、薬師として幅広い分野に対応できたほうがいいかなって」
「幅を広げる方向が間違っている」
「まだ未完成です。飲ませなければ効きません……多分」
「なら、なぜ俺に向かって飛んできた」
「びっくりして……」
「びっくりしたのはこっちだ」
アルフレッドは眉間を押さえた。
任務は薬の受け取り。
余計な説教をする時間はない。
「団長の胃薬をもらいに来た」
「あ、はい。今お包みします」
リゼットは慌てて棚へ向かい、小瓶をいくつか取り出した。
その動作自体は手慣れている。薬を選ぶ指先も迷いがない。
腕はいい。
腕はいいのだ。
それ以外が致命的に危ないだけで。
「こちらです。朝晩一粒ずつ。酒を飲むなら二粒です」
「団長には十粒渡しておく」
「死にます」
「冗談だ」
アルフレッドが薬包を受け取ると、リゼットはどこかほっとしたように笑った。
「今日は避けるのがお上手でしたね」
「今日は、とはなんだ」
「いえ。なんでもありません」
その言い方が、妙に引っかかった。
そして数日後。
「アルフレッド、リゼットのところへ行ってきてくれ」
「嫌です」
「まだ用件を言っていない」
「リゼットのところへ行けと言われた時点で用件は十分です」
「副団長の傷薬が切れた」
「……任務なら行きます」
アルフレッドは再び森へ向かった。
今度は慎重だった。
扉の前で三回叩き、一歩下がる。
「リゼット。アルフレッドだ。傷薬を取りに来た。開けるぞ」
「は、はい! どうぞ!」
返事があった。
安全だ。
そう判断した自分を、アルフレッドは後に恥じることになる。
扉を開けると、リゼットが戸棚から小瓶を取り出し、こちらへ駆け寄ってきた。
「こちらが傷薬で――あっ」
何もない床で、彼女はつまずいた。
なぜか小瓶の蓋は開いていた。
なぜか中身は薄桃色だった。
なぜか液体はまっすぐアルフレッドの胸元へ向かって飛んできた。
「……!」
アルフレッドは半歩横へずれた。
液体は彼のマントをかすめ、床に散った。
「なっ、貴重な薬をこぼすなんて――」
「大丈夫です! 惚れ薬ですから!」
「惚れ薬!?」
「間違えました!」
「何と間違えたら惚れ薬になる!」
「傷薬です!」
「色が違う!」
「あっ、本当だ!」
「今気づいたのか!?」
アルフレッドが声を上げると、リゼットは慌てて床にしゃがみ込んだ。
こぼれた薄桃色の液体を前に、両手をわたわたと泳がせている。
「ど、どうしましょう……。床がアルフレッド様に恋をしてしまうかもしれません」
「床に効く薬なのか、これは」
「いえ、たぶん効きません」
「たぶんで物を言うな」
「でも、床が急にアルフレッド様を離さなくなったら困るので」
「床が俺を離さない状況とはなんだ」
リゼットは真剣な顔で床を見つめた。
その顔があまりにも真剣なので、アルフレッドは余計に腹が立った。
「……リゼット」
「はい」
「傷薬はどこだ」
「こちらです」
リゼットは立ち上がり、今度こそ戸棚から別の小瓶を取り出した。
透明な軟膏が入っている。
アルフレッドは目を細めた。
「本当に傷薬か」
「はい。今度こそ傷薬です!」
「蓋を開けるな」
「でも、中身を確認したほうが」
「開けるな」
「はい……」
リゼットはしゅんとした顔で小瓶を差し出した。
アルフレッドはそれを受け取る前に、彼女の手元を確認する。
蓋は閉まっている。
中身は薄桃色ではない。
匂いもしない。
ようやく安全だと判断し、彼は小瓶を受け取った。
「次からは、惚れ薬と傷薬を同じ棚に置くな」
「はい」
「同じ大きさの瓶に入れるな」
「はい」
「そもそも惚れ薬を作るな」
「それは……」
「なぜそこで返事が止まる」
リゼットは目をそらした。
「薬師として、作れる薬の種類は多いほうがいいかなと」
「それは前にも聞いた」
「それに、もし必要な人がいたら」
「誰が必要とする」
「片想いの人とか……」
リゼットの声が、最後だけ小さくなった。
アルフレッドは一瞬だけ黙る。
リゼットはすぐに顔を上げた。
「も、もちろん悪用はしません! ちゃんと倫理的に、平和的に、適切な濃度で!」
「惚れ薬に倫理的な濃度があるのか」
「あります。多分」
「また、多分か」
アルフレッドは小瓶を懐にしまい、魔女の家を後にした。
懐には、傷薬と一緒に、没収した惚れ薬が三本入っていた。
さらに数日後。
アルフレッドは扉の前でしばらく考えた。
今日は違うはずだ。
薬をもらうだけだ。
そう自分に言い聞かせ、いつもより低い声で言った。
「リゼット。例の薬は――」
「えーい!」
「危な!」
扉の隙間から、薄桃色の液体が横薙ぎに飛んできた。
アルフレッドは首を引いて回避する。液体は森の草むらへ消えた。
扉の向こうで、リゼットが瓶を握ったまま固まっている。
「いきなり何をする!」
「不審者だと思って」
「だからって怪しい薬品を撒くな!」
「大丈夫です。惚れ薬なんで!」
「不審者に惚れ薬を!?」
「惚れれば不審者ではなくなる可能性が」
「危険思想だ!」
リゼットは視線を泳がせた。
「それに、アルフレッド様は毎回避けるので」
「避けるに決まっている」
「すごく避けますね」
「感心するところではない」
「騎士団の方って皆さんそうなんですか?」
「惚れ薬を浴びせられた経験がある騎士は、少なくとも俺の知る限りいない」
「では、アルフレッド様だけの特別な経験ですね」
「嬉しくない」
そう言ったのに、リゼットは少しだけ笑った。
本当に、少しだけ。
薬棚の陰で、ほっとしたような、嬉しそうな顔をした。
アルフレッドはそこで一瞬だけ言葉に詰まった。
彼女は危険だ。
油断ならない。
だが、悪意はない。
多分。
おそらく。
できればそうであってほしい。
そして、また別の日。
「いい加減、来るのが怖くなってきた」
アルフレッドは扉の前で呟いた。
今回は団長の胃薬でも、副団長の傷薬でもない。
自分の手の甲にできた切り傷を治す薬をもらいに来たのだ。
つまり、来なくてもよかった。
騎士団の薬箱にある普通の傷薬でも済んだ。
それでも足が向いた。
理由は分からない。
分かりたくもなかった。
「リゼット。入るぞ」
扉を開けた。
「危ない!」
声がした。
同時に、天井から大量の小瓶が降ってきた。
しかも全て蓋がない。
薄桃色の液体が、雨のように降り注ぐ。
「……っ!」
アルフレッドは動いた。
一歩下がり、身を沈め、肩を引き、剣の鞘で一本を弾き、机を蹴って跳ねた瓶を避ける。
最後の一本が頬をかすめる寸前、彼は指先で瓶の首をつかんだ。
床にも、壁にも、作業台にも、薄桃色の液体が飛び散っている。
しかしアルフレッドには一滴もかかっていなかった。
リゼットは目を丸くしていた。
そして、舌打ちした。
「ちっ!」
「今、舌打ちしたか?」
「してません」
さらに日が経ち。
アルフレッドは、森の前で足を止めた。
「……今日こそ、何も起きないはずだ」
そう口にした時点で、すでに負けている気がした。
だが、今回は用心している。
扉を開ける前に天井を見る。足元も見る。窓も確認する。棚の位置まで記憶しておく。
そこまでしてから、アルフレッドは扉を叩いた。
「リゼット。アルフレッドだ。入るぞ」
中から、少し間の抜けた声が返ってきた。
「はーい! 今日は大丈夫です!」
「その言葉が一番信用できない」
アルフレッドは慎重に扉を開けた。
天井からは何も降ってこない。
床にも罠はない。
棚の上にも、小瓶はない。
アルフレッドはわずかに息を吐いた。
「……本当に大丈夫そうだな」
「はい! 今日は何も仕掛けていません!」
「仕掛ける前提で話すな」
リゼットは作業台の前で胸を張っていた。
その手には、きちんと蓋の閉まった小瓶がある。
「今日はちゃんと普通の薬です」
「本当だな」
「本当です。惚れ薬ではありません」
「自分から言うな」
「念のためです」
アルフレッドは近づき、小瓶を受け取ろうとした。
その瞬間、リゼットの袖が作業台の端に引っかかった。
「あっ」
「……」
アルフレッドは無言で一歩下がった。
次の瞬間、作業台の上に置かれていた別の小瓶が倒れた。
蓋は、開いていた。
中身は、薄桃色だった。
「リゼット」
「違います」
「まだ何も言っていない」
「違います」
「これはなんだ」
「……惚れ薬です」
「今日は何も仕掛けていないと言ったな」
「仕掛けてはいません。置いてありました」
「もっと悪い」
薄桃色の液体が、作業台の端からぽたりと落ちた。
アルフレッドは、それを見て即座に身を引いた。
液体は床に落ち、甘い香りを広げる。
リゼットは真剣な顔で言った。
「でも、今回はアルフレッド様に向かっていません」
「進歩の基準が低すぎる」
「褒めてくれてもいいんですよ」
「褒める要素がない」
アルフレッドは額を押さえた。
やはり、今日も無事では済まなかった。
数日後。
アルフレッドは、魔女の家の扉から少し離れた場所に立っていた。
距離は三歩。
いや、念のため五歩。
「リゼット。アルフレッドだ」
扉の向こうで、がたん、と何かが倒れる音がした。
アルフレッドは無言でさらに一歩下がった。
「い、今開けます!」
「走るな」
「走ってません!」
明らかに走っている足音がした。
次の瞬間、扉が勢いよく開く。
リゼットが顔を出した。
栗色の髪は今日もあちこち跳ねていて、黒いローブの袖には薬草の粉がついている。大きな琥珀色の瞳が、なぜか期待に満ちていた。
「今日は絶対に絶対に大丈夫です!」
「その言葉を聞くたびに危険が増している気がする」
「本当に大丈夫です。今日は惚れ薬を持っていません」
「では、その後ろ手に隠しているものはなんだ」
リゼットの肩がぴくりと跳ねた。
「……普通の薬です」
「見せろ」
「普通の薬です」
「見せろ」
リゼットは観念したように、背中に隠していた小瓶を差し出した。
中身は薄桃色だった。
「リゼット」
「違います」
「まだ何も言っていない」
「これは惚れ薬ではありません」
「では何だ」
「好きな人の前で少しだけ素直になれる薬です」
「ほぼ同じだ」
「全然違います。効き方が穏やかです」
「効かせようとするな」
アルフレッドは小瓶を取り上げた。
リゼットは名残惜しそうにその瓶を目で追う。
「なぜ残念そうなんだ」
「せっかく今日は、こぼさずに渡せそうだったので」
「渡すな」
「一口だけでも」
「飲まない」
「香りだけでも」
「嗅がない」
「では、瓶を見るだけ」
「今見ている」
「あっ、本当ですね」
リゼットは少し嬉しそうにした。
アルフレッドは頭が痛くなった。
「それで、疲労回復薬はできたのか?」
「あ、そうでした。今持ってきますね」
「最初からそれを出せ」
「はい!」
リゼットは家の中へ引っ込んだ。
アルフレッドは扉の外で待つ。
中に入らない。
今日は絶対に入らない。
そう決めていた。
しかし、すぐに中から困ったような声がした。
「あの、アルフレッド様」
「なんだ」
「疲労回復薬の瓶が、棚の上にありまして」
「取れないのか」
「取れます」
「なら取れ」
「ただ、隣に惚れ薬がありまして」
「なぜ隣に置く」
「色が綺麗だったので……」
アルフレッドは深く息を吐いた。
結局、彼は扉をくぐった。
作業台の上は、珍しく片付いていた。
床にも薬はこぼれていない。
天井にも小瓶はない。
本当に、今日は安全に見えた。
「どれだ」
「あの棚の右端です」
アルフレッドが棚に手を伸ばす。
その横で、リゼットがそわそわと彼を見上げていた。
「何を見ている」
「背が高いなと思って」
「それだけか」
「はい」
少し間が空いた。
「……あと、手が届くのが格好いいなと」
アルフレッドの手が止まった。
リゼットは言ってから、自分で真っ赤になった。
「い、今のは薬のせいではありません!」
「まだ何も言っていない」
「薬ではありません!」
「分かった」
アルフレッドは疲労回復薬の瓶を取った。
その隣に置いてあった薄桃色の小瓶も、ついでに取る。
「あっ」
「これは没収する」
「でも」
「没収する」
「……はい」
リゼットはしゅんとした。
アルフレッドは疲労回復薬だけを懐にしまい、惚れ薬の小瓶を片手に持つ。
「これで用件は済んだな」
「はい」
「では帰る」
「あ……」
リゼットの声が、小さく落ちた。
アルフレッドは扉へ向かいかけて、足を止める。
振り返ると、リゼットは慌てて笑った。
「お気をつけて」
その笑顔は、いつものように騒がしくなかった。
何かをこぼすわけでも、投げるわけでもない。
ただ、少し寂しそうだった。
アルフレッドは、手の中の薄桃色の小瓶を見下ろした。
「リゼット」
「はい」
「茶はあるか」
リゼットが目を丸くする。
「お茶、ですか?」
「ああ」
「あります。普通のお茶です」
「本当だな」
「本当です。今日は本当に普通です」
「なら、一杯だけ飲んでいく」
リゼットの顔が、ぱっと明るくなった。
「はい!」
「走るな」
「はい!」
そう返事をしながら、リゼットはほとんど跳ねるように作業台へ向かった。
アルフレッドは小さく息を吐く。
もう少し警戒するべきだ。
そう思うのに、なぜか足は扉ではなく椅子へ向かっていた。
リゼットが茶器を用意する音が、いつもより少しだけ楽しそうに聞こえた。
また別の日。
アルフレッドは、魔女の家の扉の前で深く息を吐いた。
今日は薬の用事ではない。
団長に頼まれたわけでも、副団長に命じられたわけでもない。
ただ、来た。
その事実がどうにも落ち着かなくて、アルフレッドはいつもより強めに扉を叩いた。
「リゼット。アルフレッドだ」
中から、がたん、と音がした。
それだけで嫌な予感がした。
「待ってください! 今、片付けています!」
「何をだ」
「何もです!」
「何も片付けるな」
アルフレッドは扉を開けた。
その瞬間、床に張られていた細い糸が足に触れた。
「……」
天井から、小瓶が落ちてきた。
アルフレッドは半歩下がる。
小瓶は彼の目の前を通り過ぎ――作業台の前にいたリゼットの頭上で割れた。
「きゃっ」
薄桃色の液体が、リゼットの髪と肩に降りかかった。
部屋に甘い香りが広がる。
リゼットは固まった。
アルフレッドも固まった。
「……リゼット」
「はい」
「これは?」
「……惚れ薬です」
「なぜ天井に仕掛けた」
「アルフレッド様が、最近あまり驚いてくださらないので……」
「俺を驚かせるために惚れ薬を仕掛けるな!」
「はい……」
リゼットはしゅんとした。
濡れた栗色の髪から、薄桃色の雫がぽたりと落ちる。
アルフレッドは慌てて近くの布を取った。
「動くな。目に入ったら危ない」
「はい」
リゼットは素直に立っていた。
いつもなら言い訳を重ねるところだ。
だが、今日は妙に静かだった。
アルフレッドは布で彼女の髪を拭う。
「効くのか」
「たぶん……少しだけ」
「少し?」
「飲んでいないので、強くはありません。ただ、気持ちが少し抑えにくくなるかもしれません」
「そうか。なら念のため外に出よう」
アルフレッドが身を引こうとすると、リゼットが反射的に彼の袖をつかんだ。
細い指が、ぎゅっと布を握る。
「行かないでください」
アルフレッドは動きを止めた。
リゼット自身も、自分の言葉に驚いたように目を見開いている。
「……今のは、薬のせいか」
「分かりません」
「なら離せ」
「嫌です」
即答だった。
リゼットの顔が一気に赤くなる。
「ち、違います。違わないですけど、違います」
「落ち着け」
「無理です。アルフレッド様が近いので」
「俺が拭いているからだ」
「いつも近くに来てほしいと思っています」
言ってから、リゼットは両手で口を押さえた。
アルフレッドは布を持ったまま固まった。
惚れ薬の香りがする。
だが、それよりも、リゼットの必死な目のほうが厄介だった。
「リゼット」
「聞かなかったことにしてください」
「無理だ」
「では、薬のせいにしてください」
「それも無理だ」
リゼットは泣きそうな顔になった。
「私は、ずっとアルフレッド様に来てほしかっただけです」
声が震えていた。
「薬を渡したら帰ってしまうから。普通に話しかける勇気がないから。だから、変なことばかりしました」
「変なことの範囲を超えていたがな」
「はい」
「危険だった」
「はい」
「迷惑だった」
「……はい」
リゼットの指が、アルフレッドの袖からゆっくり離れた。
「もう、しません」
その言葉は、今までで一番まともだった。
そして一番寂しそうだった。
アルフレッドは布を置いた。
「リゼット」
「はい」
「惚れ薬は、もう作るな」
「はい」
「俺に向けるな」
「はい」
「自分にもかぶるな」
「はい……」
「だが」
リゼットが顔を上げる。
アルフレッドは、少しだけ視線を逸らした。
「薬がなくても、俺は来る」
リゼットの琥珀色の瞳が揺れた。
「本当に?」
「ああ」
「薬の用事がなくても?」
「ああ」
「何も飛ばさなくても?」
「飛ばすな」
「何もこぼさなくても?」
「こぼすな」
「天井から何も降らせなくても?」
「二度と降らせるな」
リゼットは、くしゃりと笑った。
薄桃色の薬に濡れた髪のまま、今にも泣きそうな顔で笑った。
「では、お茶を出してもいいですか」
「普通の茶ならな」
「普通の茶です」
「本当だな」
「はい。惚れ薬は、もういりません」
リゼットは棚へ向かおうとして、足を止めた。
それから不安そうに振り返る。
「……でも、今の私は薬が効いているかもしれません」
「そうだな」
「だから、今言ったことは信用できないかもしれません」
「では、明日また聞く」
「明日?」
アルフレッドは頷いた。
「明日も来る」
リゼットは目を丸くした。
それから、真っ赤になって俯く。
「……明日も、お茶を用意しておきます」
「ああ」
「普通の茶を」
「それでいい」
アルフレッドは、床に落ちた割れた瓶を見た。
長かった戦いが終わった気がした。
惚れ薬を避け続けた日々。
天井を警戒し、床を疑い、戸棚を見るたびに身構えた日々。
その結末が、普通のお茶一杯になるとは思わなかった。
けれど、悪くない。
リゼットが小さく言った。
「アルフレッド様」
「なんだ」
「明日、来なかったら嫌です」
「行く」
「本当に?」
「ああ」
「薬が効いていない私でも、同じことを言うと思います」
アルフレッドは一瞬だけ黙った。
それから、濡れた彼女の髪に布をかぶせ直した。
「なら、明日もう一度聞く」
リゼットは布の下で、嬉しそうに笑った。
そして翌日。
アルフレッドが魔女の家を訪ねると、天井からは何も降ってこなかった。
扉の隙間からも、薄桃色の液体は飛んでこなかった。
ただ、リゼットが扉を開けて、真っ赤な顔で言った。
「お待ちしていました」
机の上には、普通のお茶が二杯。
棚には、新しい札がかかっていた。
『惚れ薬、製造中止』
その下に、小さく書き足されている。
『ただし、アルフレッド様用のお茶はあります』
アルフレッドはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「名前を書くな」
「では、騎士様用にします」
「それもやめろ」
「では、好きな人用」
「もっとやめろ」
リゼットは楽しそうに笑った。
アルフレッドは溜息をつきながら、椅子に座る。
惚れ薬は、もうない。
だがどうやら、自分には最初から必要なかったらしい。
普通のお茶を差し出されただけで、彼はまた明日もここに来る理由を考えていた。
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