表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
梅雨明けの頃  作者:
8/8

盛夏

 佳織が窓を大きく開け放した途端、遠く微かに聞こえていた蝉の鳴き声が部


屋中に響き渡った。


 まだ時刻は九時を過ぎたばかりなのに、強い日差しは夏を謳歌する動植物達


を、いやが上にも活発にさせる。


「で、同窓会行くの?」


「いや・・・行かない」


「そう」


 浩二の妻は普段から、夫の交友関係に対して全くと言っていいほど無関心で、


今回も幾度か久しぶりの同窓会がある事を転勤先から電話で話したものの、そ


の話題に対する妻の食いつきは皆無であった。


 浩二にとっては、行かない理由を根掘り葉掘り問い質されるより、余程心情


的には楽なのだが、いつもの事とはいえ、少々拍子抜けの感が否めないのも事


実だった。


「同窓会に行くから帰って来たんやと思ってた」


「いや、ここんとこ仕事があんまり忙しないから」


 浩二は洗濯物をベランダに干しながら無関心に話す妻の背中に言葉を返した。


 昨日金曜日の夕方、仕事が終わってから浩二は、眩暈するほどの激しい逡巡


の末、一路福岡空港から機上の人となった。直前の電話一本で帰阪を知った妻


は、少々驚いたものの、元々先のスケジュールが読めない業界に何年も身を置


いている事もあって、特段不思議には思わなかったようだ。


 しかし普通に考えると、同窓会の前日に遙々遠方より帰って来たのだから、


『出席の意思あり』と取るのが自然だろう。



 ―― 同窓会に行くから帰って来たんやと思ってた ――


 ―― そうだ、行かないのなら何故俺は帰ってきた ――



 昨日遅く、家に辿り着いた時から、繰り返し煩悶して来た事だ。


 遙か二十数年前に封印されたはずの心の闇は、長い年月を経て今解き放たれ、


浩二の心を捉えて離そうとはしなかった。


 確かに南田の度重なる誘いは、僥倖であることには違いない。しかしそれは


あくまでも、会場で一人疎外感を味わうかも知れないという一つの懸念材料が


杞憂に終わっただけであり、今となってはそれも、砂粒のように瑣末な事のよ


うに思えてならない。


 あの時自分と同じくしてあの大学を受け、そして不合格になった連中はどう


しているだろうか。もしかしたら、当時の記憶も薄れ、何のわだかまりもなく、


今日は会場に向かうのだろうか。では何故自分ばかりが過去のたった一点に捉


われ、抜けだす事の出来ない迷宮を彷徨っているのか。


 益々勢いを増した蝉時雨も、今の浩二の耳には届かなかった。



「そんな噂を真に受けるなんて、信じらんないねぇ」


 唐突な佳織の言葉で浩二は我に返った。


 佳織の視線の先にあるテレビでは、ワールドニュースを伝えており、それに


よると、先週某発展途上国で皆既月食が見られたらしいのだが、ある海辺の小


さな町では、『月食が始まると大津波がやって来る』という噂が流れたらしい。


町の住人は月食の時間に合わせて、高台へと避難したものの、当然ながら待て


ど暮らせど津波はやってこない。そこで恐る恐る町に帰ってみると、特に大き


な家々は何者かが侵入し、金品を残らず持ち去られた後だったと言うのがその


ニュースの顛末。


 犯人が意図してあらぬ噂を流布したかどうかは、そこでは語られていなかっ


たものの、町の住人が揃いも揃って、そんな非科学的な噂を信じてしまった事


に佳織は呆れているのだ。


 確かにもたらされる情報量が圧倒的に少ない発展途上国などは、月や太陽な


どに対して、一種の畏怖の念を抱く傾向にあるかも知れない。しかしそれとは


別に、浩二は佳織のその言葉に何か強い引っかかりを覚えた。


 うまく口では説明出来ないが、何か今まで曖昧模糊として、霧の彼方に姿さ


え全く見えなかったものが、ようやくおぼろげな輪郭を捉えたような。



 ―― そんな噂を真に受けるなんて ――



 ―― 噂  噂  噂 ――



 浩二は眼を見開いた。


 そしてたった今、これまで煩悶したり、逡巡したりしていた理由をはっきり


と悟った。


 これまでの早坂敏男への憎悪は、噂という非常に頼りないものの上に立つ楼


閣であった。それをあたかも、全く疑う余地のない事実と捉えていたのだ。


いや違う!


 18歳の自分が、今と比べて如何に精神的に幼くても、不確実極まりないそ


んな噂を鵜呑みにするほど愚かではなかった筈だ。


 携帯電話やインターネットの普及が皆無で、自分たちの前に浮遊する情報量


が圧倒的に少なかった時代。だからこそ逆に、発信源の分らない、不穏な情報


には今の高校生達より余程敏感であった筈だ。


 では何故あんな噂を信じた!


 しかしその答えはすでに浩二の胸にあった。


 きっと自分が早坂に抱いていたものは、憎悪なんかではなく、嫉妬の念だっ


たのではないだろうか。自分自身がどれほど努力しようと決して持ち得ない絶


対的な権力を持つ者が身近にいる彼に対する嫉妬こそが、この心の闇の正体で


はないのか。


 元々強く志望した大学ではなかった。結果を知らされた時も、不合格になっ


たこの事自体には何の落胆もなかった。しかし、あの時の自分は不合格の『理


由付け』が欲しかったのだ。そしてそんな自分の前に転がっていた『噂』は格


好の材料だったに違いない。



 ―― そんな噂を真に受けるなんて ――



 そうだ、真に受けてなんかいない。


 それに縋っただけだ。


 自分のプライドを汚す事無く、不合格という事実を受け入れる為に、彼をス


ケープゴートにしたに過ぎない。それも敢えて望んではいない大学の不合格を


受け入れるという自己満足だけの為に。そして恐ろしく不確実な噂である事を


知悉しながら、さもそれが最早疑いようのない既定事実として心に封印してし


まったのも、他ならぬ自分自身なのだ。



 深い眩暈から少しずつ覚醒するように、閉ざされていた浩二の視界が徐々に


色を伴って拡がりつつあった。


 今となっては、噂の真偽などどうでもよかった。


 それよりも、自己憐憫の権化とも言える今までの自分と決別する代償は、こ


れから少しばかりの自己嫌悪と付き合っていかなければならない事だろうか。


 それを思うと、浩二は心の中で苦笑いをした。


 

 気付くとテレビが正午のニュースの始まりを告げている。


「俺、同窓会行ってくるわ」


 浩二に背を向けて既に昼食の準備に取り掛かっていた佳織の背中に言った。


「うん。気を付けて行っておいで」


 振り向いて言葉を返した佳織の驚くほど穏やかな表情は、浩二の背中を強く


押してくれた。


「でも余ったお昼ごはん、どうしてくれるの?」



 肉体が老いるのを怖いと思った事はない。


 しかし、共に駆け抜けたあの時期を、思いだす度に感じる痛いほどの懐かし


さや、二度と戻らない日々に対する惜別の情すらも、いつかは微塵も感じなく


なってしまう心の老いほど大きな恐怖はない。


ただ時間の経過の前では人は余りにも無力で、それに抗う術もなく、峻烈な


記憶は無残にも奈落に葬り去られる。


 しかし今の浩二の脳裏には鮮明に「あの頃」が蘇っていた。



 今だから南田祐樹に、高島裕に、校倉諒に会いに行こう。


 入学式の桜の道を、共に歩いた仲間に会いに行こう。


 初夏の日差しの中、一心にボールを追った仲間に会いに行こう。


 暗闇の中に浮き上がる不夜城のような校舎で、遅くまで文化祭の準備に励ん


だ仲間に会いに行こう。


 そして、共に青春の蹉跌を乗り越え、その後に自分の知らないたくさんの喜


びや悲しみを経験したであろう仲間に会いに行こう。



 佳織が急いで用意してくれた、夏物の背広に腕を通し、浩二はゆっくり玄関


の扉を開けた。


 降り注ぐ蝉時雨と、遠くの入道雲は、紛れもなくこの地方に盛夏の到来を告


げていた。



                              ― 完 ―


 


 



 


 


   

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ