あの頃(2)
「おにいちゃん達、取りあえず中に入ってみようか」
「何があるんですか」
「飲み物ならだいたいあるよ」
「オレンジジュースもあります?」
簡素なカラーテープで外と区切られた「店」の中に歩を進めながら、浩二は
全く似合わないエプロンをした「店員」に訊ねた。
「あるけど、お勧めはコーヒーかミックスジュース」
結局、少し三人で顔を見合わせて思案した後、一人がコーヒー、二人がミッ
クスジュースを注文し、ようやく落ち着いて席に着いた。と言っても、テーブ
ルは寄せられた教室の机の上に、白いテーブルクロスがかけられているだけだ
のものだし、今座っている椅子に至っては、授業用のものがそのまま置かれて
いるだけだ。
数日前、浩二は姉から、姉が通う高校の文化祭への誘いがあった。中学二年
生の浩二は、好奇心も手伝って、仲のいい友達に声を掛け、後に自身が通う事
になる高校の文化祭へとやって来たのだった。
高校の文化祭は、彼にとっては正に異次元空間で、まずきらびやかに飾りつ
けられたゲートをくぐったところにある金券売場で早くも心が弾んだ。
中学校の文化祭などは非常に味気ないもので、その内容と言えば、文化部の
作品展示や、少しばかり心躍るのが軽音楽部の演奏くらいか。どちらにせよ、
退屈極まりない時間を過ごすばかりの催しだ。それに比べてここは、正門から
見える範囲だけでも、極彩色に彩られており、買った金券に添えられた出店リ
ストを見ても、喫茶店、軽食店、甘味処と、中学ではあり得ないものばかりだ
った。勿論、金券を必要としない催しも豊富で、ゲームセンター、8ミリ映画
の上映、演劇、お化け屋敷と、決して大げさではなく、初めて高校の文化祭に
足を踏み入れた浩二達にとっては、まさしくめくるめくワンダーランドであっ
た。
そして何より新鮮だったのは、普段街中ですれ違う時は、思わず一歩引いて
しまうような強面のお兄さん達が、今日は笑顔で店の呼び込みをしたり、一方
では舞台やスクリーンで一心に演じている姿であった。そして入ったこの店で
も、一目で中学生と分かる自分達を見下すことなく暖かく迎えてくれている。
不意に大きな機械音とともに、豊潤な香りが漂ってきた。
簡単に仕切られたカウンターの奥を見ると、ドリップでコーヒーを淹れてい
る横で、ジューサーが勢いよく回転している。なるほど。お勧めというだけあ
って、文化祭の模擬店とはいえ、出来合いのものを容器に注ぐだけではなかっ
たみたいだ。
出されたミックスジュースを一口飲むと、予想に反してコクのある本格的な
味がした。少々驚いて、カウンターの方を見ると、自分たちの反応を窺ってい
たのか、ジューサーを洗っている途中のお姉さんと目が会った。
しばし戸惑った浩二は、左の親指と人差し指で作った○を彼女の方に向けて
おずおずと差し出した。
それを見た彼女は浩二達三人に左腕で小さくガッツポーズをすると、満面の
笑顔を返してくれた。
しかしたった一人、大人ぶってコーヒーを注文した友達の発した一言を、今
も浩二は忘れる事ができない。
「にっが~!」
どちらにせよ、抜けるような青空とそよぐ秋風の中、目の前で繰り広げられ
た歓声と喧騒が、その後の浩二の進路を決定づけたのは紛れもない事実であっ
た。
この文化祭以降、浩二は自身の成績が上がろうが下がろうが、姉が在学しそ
して卒業したこの高校の第一志望を遂に変更する事はなかった。