梅雨の少し前
不意に携帯電話が鳴った。
今時の若者とは違い、何かにつけて不精なため、流行歌の着メロなどは設定
していない。会社から支給されているものなので、近くの人間にかかってきた
のと間違えるのも頻繁で、早くオリジナルの着信音に変えなければと心に誓っ
て早や数カ月。
無機質極まりない呼び出し音の五回目あたりで、ようやく伸ばした指の先に
触れた携帯を覗きこむと、しばらくご無沙汰している母上の名前がそこに表示
されていた。
時は日曜日の午前10時。
何をするでもなく、休日ならではの夢うつつを貪っていた浩二は、物憂げな
気分にようやく打ち勝って通話のボタンを押した。
「はいはい」
なぜかうちの母親は、電話の第一声がいつも「もしもし」ではなく「はいは
い」なのだ。
「久しぶり」
「ホンマご無沙汰やね。今の仕事終わったら帰ってこられる?」
妻を地元に一人残して、単身赴任をしている浩二の境遇を慮ったこの言葉も、
二人の会話の導入部としてはすでに定型句となりつつあった。
「どうやろね、社員は会社の指示にハイハイ従うだけやから。んで何?」
「ああ、あんたにハガキ来とったよ。高校の同窓会事務局やて」
「あ、そう。で、いつ?」
一応開催日時を聞いたものの、概ね浩二はこの催しに参加するつもりはなか
った。就職してから今日まで、特に大学関係においては、この手の連絡は数限
りなくあった。しかし一度としてそれらに出席したことはない。同窓会事務局
というからには、学年全体かもしかしたら高校の卒業生全体かも知れない。漠
然としたイメージではあるが、このような催しに出席する連中は、日頃からお
互いに定期的に連絡を取り合い、よって同窓会のにも示し合せた上での出席が
ほとんどではないのか。つまり、それなりの出席者がいたとしても、高校時代
の友達との交流が疎遠になっている浩二にとって、有意義な同窓会になる確率
は極めて低いのである。貧しい想像力が瞬時に脳裏に描いたのは、昔を懐かし
む歓談の中から取り残され、ビールグラス片手にポツンと一人たたずむ自分の
姿であった。勿論これがクラスだけの同窓会なら、顔見知りばかりであり、こ
のような懸念を抱く必要はないのだが。
『同窓会事務局』という言葉を聞いた途端、急速に母親からの連絡に興味を
失ってゆく自分を浩二は強く意識した。
そしてもうひとつ。
浩二にはどうしても同窓会の参加に二の足を踏ませる理由があった。
早坂敏男・・・奴には絶対に会いたくない。
早坂とは一年生の時に同じクラスになった。
特に親しかった訳ではなく、クラスが変わってからは、廊下で会うと軽く目
くばせする程度の間柄だった。
その距離感が大きく変わる出来事が、あろうことか、大学受験のシーズンに
起こる。
浩二が高校三年の晩秋を迎える頃、さすがに周りの雰囲気も何となく慌ただ
しく、殺気立つほどではないにしろ、世間一般が想像する程度の受験間近の空
気に包まれていた。
浩二はというと、特に積極的に進路に対する希望があった訳ではない。ただ
何となく周りの人のペースに合わせて勉強をし、特段現役にこだわる訳ではな
く、一浪くらいまでならいいから、大学と名の付くところに入って、将来はそ
れからゆっくり考えようと思っていた。
そんな浩二の前に振って湧いたのが推薦入試の件。
大学名を聞いても、誰も感嘆の声を上げないかわりに、眉をひそめたりする
人もいない空気のような大学で、関西圏としては学生数も少ない。ただ、昔か
ら推薦枠があるようで、特定の学部にだけは毎年入学者が出ている。つまり一
般的な推薦入試ではなく、指定校推薦という奴なんだろう。
浩二は積極的に希望した訳ではない。しかしそういう彼の姿勢に、将来の懸
念を感じ取った担任の女性教諭が、何とか推薦の対象にもなるから、受けてみ
てはどうかと強く勧めてくれたのだった。しかし今から考えると、希望校への
入学を目指して受験勉強に励む多くの生徒から見ると、その大学は魅力には少
々乏しく、希望者が少なかったという理由も否定できない。
しかし浩二にとっては、受験勉強から早々に解放されるという事は、決して
悪い話ではなく、まして指定校推薦である為、試験が小論文と面接のみという
のが非常にありがたかった。
しかし実際には、その面接試験は峻烈を極めた。
―― あなたが当学を希望した理由は ――
―― はい、まず自由な校風である事です。そしてなにより、一般教養にお
けるカリキュラムの豊富さが魅力です ――
―― 他と比べて当学が自由であるという具体的理由と、他にはないカリキ
ュラムを挙げて下さい ――
―― ・・・・・・ ――
―― 今年の出来事の中で、あなたの一番の関心事はなんですか
―― はい、新しい内閣ができた事です ――
―― では、前の鈴木内閣と今回の中曽根内閣では具体的に何が違いますか。
そして何を期待しますか ――
―― ・・・・・・ ――
『泰平の眠りを覚ます蒸気船』ではないけれど、受験勉強中とはいえ、ド
ップリと安穏生活に首まで浸っていた浩二たちにとって今回の面接は、十分
にショッキングな出来事であった。
担当官にしてみれば、小論文と面接だけで簡単にはキャンパスを踏ませは
しないぞ、という気概と、付焼刃の問答練習くらいは絶対に論破してみせる
というプライドがあったのだろう。
浩二はというと、さすがにしどろもどろな返答に陥った場面もあったもの
の、何とか面接官の追及に屈することなく試験を終える事が出来た。
しかし問題はその4日後におこる。
先述の担任より、来週にもう一度面接試験を実施する旨の連絡が大学の方
よりあった事を唐突に知らされた。それは彼女の教職生活においても極めて
異例であるのか、その表情からもさすがに当惑の色が窺えた。
そしてこのあまり前例のない出来事が、生徒の間で話題になるのと比例し
て、一方でもう一つの不穏な噂がまことしやかに広まっていった。
同じ指定校推薦を受けた中に、早川敏男という男子生徒がいたのだが、例
の面接でとうとう返答に窮してしまい、顔を真っ赤にした挙句、最後の面接
官への礼も忘れ、茫然自失の体で退室したらしい。
しかしこれだけならば彼が不合格になるだけで幕引きになるところなのだ
が、噂にはまだ続きがあった。
彼の父親はその大学が置かれている地域出身の県議であったため、面接の
結果を悲観した彼が、試験をもう一度実施してもらうよう大学側に働きかけ
て欲しいと依頼したというのだ。それも自分の父親が県議であることを自慢
たらしく周囲にもらすというおまけまでつけて。
もともと必ずといっていいほど、自分の高校から受験する数人の中から、
1人か2人の合格が既定事実となっている指定校推薦であることを斟酌する
と、一般入試や推薦入試と比べて、面接のやり直しの影響は非常に狭い範囲
に限定される。つまり、自分の高校から受ける数人だけを再度面接試験し、
合否判定すれば良いだけの事で、他の高校の生徒には影響は出ない。
そういった考えからすると、このような優遇措置がまかり通るのも頷ける。
加えて高校生であった浩二には詳しい事は分らないが、大学への交付金や各
種の優遇措置などにおいて、教育機関に対する地元政治家の権力が絶大であ
っても決して不思議ではない。
結果、おざなり(であったかどうかは不明だが)の試験が行われ、早坂と
もう一人が合格し、浩二を含めたそれ以外の数人が不合格となった。
浩二はこの時の深い失望感を、遙か年月を経た今も、決して忘れる事が出
来ない。それは試験に不合格となってしまった事に対してではない。もとも
とあの試験は、期せずして自分の前に転がり込んできたものであり、何の感
慨も目的意識もなく、流れに任せて受けただけだった。
浩二にとってそんな不合格よりも、遙かに衝撃を受けたのは、自分が全く
思いもよらない奵計に長けた生徒が、あまりにも身近に存在した事である。
そして狡猾や権力という言葉とは全く無縁の生活をしていた当時の浩二にと
って、この時既に早坂敏男は、唾棄すべき存在以下になり下がったのだった。
「7月24日って書いてある」
母親の声で我に返った。
小さく漏らした浩二の嘆息を知る由もなく、久々の息子とのやりとりに心
なしか言葉は弾んでいる。
「今回は1983年の卒業生全員みたいよ」
「一応家の方に送っといて」
転勤が頻繁な仕事に従事している為、結婚後もいつ転居の必要性に迫られ
るか分らない境遇の浩二にとって、一番確実な連絡先は、やはり母親の住む
実家であるので、いちいち高校の同窓会事務局には現住所を知らせてはいな
い。
「分ったよ。丁度車両保険の更新証書も届いてるから、一緒に送っとく」
そしていつも通りの取りとめない話をした後、切った携帯電話をデッキの
上に無造作に置き、大きく窓を開け放した浩二は、梅雨の訪れを間近に告げ
る鈍色の空を見上げた。
頭の中で暗算してみると、高校の卒業から既に27年が経過している。し
かし、月日の流れに対する僅かばかりの感慨深さは、同窓会の欠席を既定事
実としている浩二にとって、心を大きく揺さぶるほどの事ではなかった。
ただ・・・
たった今置いたばかりの携帯電話に視線を戻した浩二は、同窓会に対する
冷めた気持ちとは裏腹に、何か言葉に出来ない不思議な感覚に捉われていた。
―― 何かがどこかで繋がっているのか ――
少なくともここ十数年の間、浩二は自分の卒業した高校というものを省み
た事はなかった。それがつい先日、何気なく仕事の合間に、自分の高校を検
索サイトにかけてみると、意外にも立派なホームページが開設されているば
かりか、ウィキペディアにも掲載されていた。
あとから知ったことだが、今はほとんどの高校がホームページを開設して
いるらしい。
特別な理由があった訳ではない。当の浩二自身も、どうして自分の高校を
検索しようと思いたったか、今となってはうまく説明できない。しかし、あ
まりにも長い空白期間を経た後に、まるで磁石にでも吸い寄せられるように、
期せずして重なった二つの出来事を単なる偶然と片付けてしまうには、どう
しても浩二には抵抗があった。