第1話 昨日を持たない少年
霞ヶ関千春は、今日も目を覚ました。
朝の光が窓から差し込む。カーテンの隙間から入り込んだ風が、彼女の頬を撫でる。静かな部屋。いつものように心臓は鼓動を刻み、手を動かせば指は確かにそこにある。
(……また、生きている)
それは呪いだった。千春は何度死んでも、違う魂となって転生し、それでもすべての記憶を持ち続ける。千の時を超え、幾度も人生をやり直してきた。
「もう、疲れた……」
小さくつぶやく。これが何度目の朝なのか、もう数えることもやめた。彼女は生まれ変わるたびに、いつかこの「永遠」が終わるのではないかと願っていた。だが、そんな奇跡は訪れなかった。
「はぁ……」と息を吐きながら、制服に着替える。今日は「高校生」の人生だった。生きることを諦めた少女には、それすらも意味のない「役割」に過ぎなかった。
*
教室に入ると、クラスメイトたちは賑やかに話していた。彼女は窓際の席に静かに腰を下ろし、ぼんやりと景色を眺める。変わり映えのない日々。次にこの人生を終えても、また新しい体で目覚めるだけなのだろう。
「おはよう、霞ヶ関さん!」
ふいに声をかけられた。視線を向けると、そこには平山久遠がいた。
「……おはよう」
彼のことは知っていた。同じクラスの男子。いつも明るくて、人懐っこい。だが——千春にはひとつだけ、どうしても理解できないことがあった。
(どうしてこの人は、毎日私に自己紹介をするの?)
「えっと、ごめんね、名前聞いてもいい? 初対面の人の名前覚えるの、苦手なんだ」
(また、だ……)
彼は毎朝、千春の名前を尋ねる。そして、その日の出来事を翌日にはすっかり忘れてしまうのだ。
「霞ヶ関千春よ」
「あ、そっか、千春ちゃんか! よろしくね!」
(昨日も言ってたのに)
久遠の笑顔を見つめながら、千春は思った。
彼はまるで、「昨日」を生きていないみたいだ——。
「ねぇ、平山くんって、どうして毎日私のことを忘れるの?」
昼休み、霞ヶ関千春は何気ない口調で尋ねた。彼の隣に腰を下ろし、購買で買ったパンを指先でつまむ。彼女にとって、こうして誰かと食事をすることすら久しぶりだった。
「んー? どうしてって……あはは、ごめんね。僕、昔から人の名前とか覚えられなくてさ」
久遠は照れ笑いを浮かべながら、唐揚げを口に放り込む。
「名前だけじゃないでしょ」
千春はじっと彼の目を見た。
「昨日、私たちは話した。けど、あなたは今日になったらそれを覚えていない。それって、普通じゃない」
彼はフォークを持つ手を止め、千春を見つめ返した。
「……そっか。千春ちゃんは、気づいたんだね」
久遠は少し困ったように笑い、テーブルの上で指を組んだ。
「僕さ、毎日世界が"リセット"されるんだよ」
「リセット?」
「そう。僕の記憶は、一日しか続かない。夜、眠ると、昨日のことが全部消えちゃうんだ」
「……」
千春は、胸の奥がざわつくのを感じた。
「でもさ、不思議なことにね。忘れるのは嫌じゃないんだ。むしろ、ちょっと楽しいんだよ」
「楽しい?」
「うん。だって、毎日が新しいから。昨日のことを覚えてないってことは、毎朝新しい世界にいるみたいなものだろ?」
千春は言葉を失った。
彼女は「永遠の記憶」を持ち、どれだけ死んでも記憶を手放せない。一方で、久遠は「昨日を持たず」、新しい一日をまっさらな気持ちで迎えている。
——この人は、私と正反対だ。
「もし千春ちゃんが僕みたいに昨日を忘れられたら、何をしたい?」
不意に、久遠が問いかけてきた。
千春は、考えた。
もし、自分の記憶がすべて消えたなら。何千年も生きてきた苦しみを、何度も繰り返した別れの痛みを、全部忘れることができたなら——。
「……生きることが、少しは楽になるのかもしれない」
千春はぽつりと答えた。
「そっか」
久遠は、優しく微笑んだ。
「じゃあ、僕が毎日忘れてあげるよ」
「……え?」
「千春ちゃんが抱えてること、全部。僕が覚えていられないなら、そのぶん毎日話してくれたらいい。そしたら、千春ちゃんの"昨日"を、僕が"今日"に変えてあげる」
千春は、言葉を失った。
——こんなことを言われたのは、初めてだった。
「僕が千春ちゃんの“昨日”を、“今日”に変えてあげるよ。」
そう言った久遠の言葉が、千春の胸に残っていた。
放課後の帰り道。空は夕焼けに染まり、茜色の雲がゆっくりと流れていく。千春は久遠と並んで歩いていた。
「……どうして、そんなこと言うの?」
ふと、千春は尋ねた。
「ん?」
「私の話を毎日忘れてしまうのに、それでも聞き続けるって……意味があるの?」
久遠は、足を止めた。
「意味……かぁ。」
彼は考えるように空を見上げたあと、ふっと微笑んだ。
「千春ちゃんは、覚えていることに意味を求める?」
「……?」
「例えば、今日この景色を見て、明日には忘れちゃうとする。でも、今この瞬間、僕は夕焼けが綺麗だなって思ってる。」
久遠は指を空に向けた。オレンジ色の光が、ビルの隙間から溢れている。
「それって、意味がないことなのかな?」
千春は答えられなかった。
「覚えていなくても、今感じていることには意味があるんじゃないかな。だから、僕は千春ちゃんの話を聞きたい。それがたとえ明日消えてしまうとしても。」
彼はそう言って、笑った。
「……ばかみたい」
千春は小さく呟いた。
「うん、よく言われる。」
「普通なら、昨日のことを忘れるのは怖いものよ。」
「そうかもね。でも、千春ちゃんは“昨日”を忘れられないことが怖いんでしょ?」
千春はハッとした。
「……違う?」
久遠はまっすぐ千春を見つめていた。彼の目には、余計な詮索も、憐れみもなかった。ただ、千春の言葉を待っているような、そんな優しい瞳だった。
「……そうね。」
千春は少しだけ笑った。
「じゃあ、約束しよう。」
久遠は手を差し出した。
「明日になったら、僕は今日のことを忘れてる。でも、千春ちゃんがまた話してくれるなら、僕はまたちゃんと聞く。」
千春は、その手を見つめた。
(この人は、本当に……不思議な人。)
一日しか続かない記憶。
一日しか続かない約束。
でも、それが「今日」という確かな時間の中にあるのなら——。
千春はそっと久遠の手を取った。
「……うん。」
夕焼けの光が、二人を包んでいた。
霞ヶ関千春が目を覚ますと、また同じ朝が始まっていた。
窓の外は曇り空。少し湿った風がカーテンを揺らしている。
(……昨日、久遠くんと話した)
彼の言葉が、まだ胸の中に残っていた。
「明日になったら、僕は今日のことを忘れてる。でも、千春ちゃんがまた話してくれるなら、僕はまたちゃんと聞く。」
それは、あまりに儚くて、信じがたい約束だった。
(……本当に、覚えていないの?)
千春は制服に着替え、いつものように学校へ向かった。
*
教室に入ると、いつものように賑やかな声が響いていた。千春は黙って席に着き、窓の外を眺める。
その時、背後から聞き慣れた声がした。
「おはよう! えっと……ごめん、名前聞いてもいい?」
——やはり、彼は昨日のことを忘れていた。
「……霞ヶ関千春よ。」
千春は静かに答えた。
「そっか、千春ちゃんか! よろしくね!」
昨日と同じやりとり。昨日と同じ笑顔。
何も知らないような顔をして、彼はまた、千春に「初めて」の挨拶をする。
(本当に、何も覚えていないんだ……。)
改めて実感すると、胸の奥が妙にざわついた。
「千春ちゃん、どうしたの?」
「……別に。」
本当は、「昨日話したこと、覚えてないの?」と問い詰めたい気持ちもあった。でも、久遠にとって「昨日」は存在しないのだ。彼の中では、今日がすべて。
——なら、私はどうすればいいの?
千春は昨日の自分を思い出す。
「明日になったら、僕は今日のことを忘れてる。」
「でも、千春ちゃんがまた話してくれるなら、僕はまたちゃんと聞く。」
そう言ったのは、昨日の久遠。でも、今日の久遠は、その言葉さえ知らない。
「……」
千春は静かに息を吸った。そして、ゆっくりと口を開いた。
「ねえ、久遠くん。」
「ん?」
「今日、放課後に一緒に帰らない?」
昨日と同じように、千春は問いかけた。
「え、いいの?」
「……ええ。」
「やった! じゃあ、楽しみにしてるね!」
久遠の明るい笑顔を見ながら、千春は思った。
(昨日と同じ会話を、今日も繰り返していくの?)
(何の意味もないように見えて、それでも……。)
(私はきっと、また同じことを話してしまうんだ。)
そしてまた、今日という一日が始まる。
放課後。
霞ヶ関千春は、校門の前で久遠を待っていた。
(……昨日もこうして彼を待っていた。)
いや、昨日だけじゃない。おそらく今日と同じように、昨日も、そして明日も、彼と並んで帰ることになるのだろう。
「千春ちゃん!」
久遠が駆け寄ってくる。相変わらず明るい笑顔だった。
「待たせちゃった?」
「……別に。」
「よかった! じゃあ、行こっか!」
彼は特に気負う様子もなく、千春の隣に並んで歩き出した。昨日と同じ帰り道。昨日と同じ景色。でも、彼にとっては"初めて"の帰り道だった。
「千春ちゃんってさ、普段どんなこと考えてるの?」
「……そんなこと、聞いてどうするの?」
「うーん、ただの興味かな! せっかくこうして一緒に帰るんだし、千春ちゃんのこと、もっと知りたいし。」
「……私は、何千年も生きているのよ。」
千春はふと、口をついて出た言葉に自分で驚いた。
久遠は「へぇ」と言って、楽しそうに笑う。
「すごいね! じゃあ、僕よりもずっといろんなこと知ってるんだ。」
「信じるの?」
「うん、だって千春ちゃんがそう言うなら、そうなんじゃない?」
千春は目を瞬いた。
「……疑わないの?」
「千春ちゃんが嘘をついてるようには見えないからね。」
彼はあまりにもあっさりと言った。
千春は、今まで誰にもこの話をしたことがなかった。話したところで、狂人扱いされるのがオチだとわかっていたからだ。でも、久遠は違った。
彼は、「昨日を持たない」せいか、妙に素直だった。
「じゃあ、千春ちゃんはさ、何千年も生きてきて、今までどんなことをしてきたの?」
「……いろいろよ。」
千春は曖昧に答えた。
「楽しかった?」
「……そんなわけないでしょう。」
何千年も生きてきた。愛する人を失い続けた。何度死んでも、この記憶だけは消えなかった。楽しいこともあったかもしれない。でも、それ以上に「終わらない」ことが苦痛だった。
「……そっか。」
久遠は悲しそうな顔をするわけでもなく、ただ静かに千春を見つめていた。
「ねえ、千春ちゃん。」
「何?」
「僕が忘れても、また話してくれる?」
千春は立ち止まった。
久遠は、昨日と同じことを言った。
(この人は、本当に……昨日を覚えていないんだ。)
わかっていたはずなのに、その事実が、胸の奥にじんわりと広がる。
「……わからない。」
千春は、そう呟いた。
それでも、久遠は笑った。
「じゃあ、また明日ね!」
彼は手を振ると、そのまま駅の改札へと消えていった。
(明日になれば、彼は私のことをまた忘れる。)
(それでも私は——。)
千春は小さく息を吐き、帰り道を歩き出した。
霞ヶ関千春は、朝の光の中で目を覚ました。
窓の外は晴れている。空気はひんやりと冷たく、秋の気配が少しずつ近づいてきていた。
(……今日も生きてる。)
どれだけ死を願っても、彼女の時間は終わらなかった。千春は何千年も生き続け、その記憶だけを抱えていた。
そして今日もまた、彼女にとっては"続き"の朝が訪れた。
だが、久遠にとっては——。
(今日が"最初"の日なんだ。)
*
教室に入ると、いつものようにざわめきが広がっていた。千春は自分の席につき、鞄を机の横にかける。
「おはよう! えっと……名前、聞いてもいい?」
その声を聞いた瞬間、千春は目を閉じた。
——やはり、彼は昨日のことを覚えていない。
「霞ヶ関千春よ。」
彼女が答えると、久遠はいつものように笑った。
「千春ちゃんか! そっか、よろしくね!」
昨日も聞いた。おそらく、一昨日も、その前の日も。
何度も、何度も、久遠は千春の名前を尋ね、そして忘れていく。
(これからも、私は何度もこの人に名前を呼ばせるんだろうか。)
そんなことを考えていたとき、ふいに久遠が言った。
「千春ちゃんって、すごく綺麗な名前だよね。」
千春は思わず久遠を見た。
「……どうして?」
「響きが優しくて、なんだか落ち着く感じがする。あとはね、なんとなく、“春霞”って感じがするんだ。」
久遠は、まるで詩を読むように言葉を紡いだ。
「霞みがかった春の景色って、少しぼんやりしてるけど、どこか温かい感じがするんだよね。千春ちゃんの名前も、そんな雰囲気がするなって思った。」
千春は、そんなことを言われたのは初めてだった。
彼女の名前は、何千年の間に何度も変わった。違う時代、違う場所で、何度も違う人生を生きてきた。
けれど——今、千春は「霞ヶ関千春」として生きている。
「……ありがとう。」
千春は、ほんの少しだけ笑った。
「えっ、何か言った?」
「別に。」
「えー! 気になるなぁ!」
久遠は笑いながら、千春の隣の席に腰を下ろした。
(この人は、また明日になれば私の名前すら忘れてしまう。)
(それでも……今日だけは、私の名前を覚えていてくれる。)
それだけで、少しだけ心が温まる気がした。
「千春ちゃんってさ、何か好きなものある?」
放課後、久遠と並んで帰る途中で、突然そんなことを聞かれた。
「……好きなもの?」
千春は思わず問い返した。
「うん。なんでもいいよ! 食べ物とか、映画とか、景色とか……。」
好きなもの。
——それは千春にとって、考えたことのない問いだった。
何千年も生きてきて、あらゆるものを見てきた。美しいものも、醜いものも、愛しいものも、失いたくないものも。
けれど、それらはすべて時間の中で風化し、消えていった。
「……ないわ。」
千春はそう答えた。
「そっか。」
久遠は悲しむでもなく、ただ「うん」と頷いた。
「じゃあ、これから探せばいいね!」
「……探す?」
「うん!」
久遠は無邪気に笑った。
「好きなものって、気づいたらできてるものだしさ。千春ちゃんも、まだ見つかってないだけかもしれないよ。」
千春は、彼の言葉を反芻した。
「……そんな簡単に見つかるものなの?」
「簡単かどうかはわからないけど……僕はね、毎日"初めて"の気持ちで生きてるから、何を見ても新鮮なんだ。」
久遠は歩きながら、道端の花を指差した。
「例えば、この花。昨日もここに咲いてたんだろうけど、僕にとっては"初めて見る花"なんだよ。」
彼はしゃがみ込み、小さな花をじっと見つめた。
「だから、"今日の自分"が綺麗だなって思ったら、それが僕にとっての好きなものになるんだ。」
「……」
千春は言葉を失った。
——昨日を覚えていないからこそ、今日の一瞬一瞬を大切にしている。
彼にとって「過去」は存在しない。あるのは「今」という瞬間だけ。
「千春ちゃんも、いつか好きなものが見つかるといいね。」
そう言って、久遠は立ち上がった。
「……そうね。」
千春は、かすかに微笑んだ。
(私は、すべてを覚えている。)
(久遠くんは、すべてを忘れる。)
(それなのに——どうしてこんなにも、彼の言葉は私の心に残るんだろう。)
千春は小さく息を吐きながら、久遠と並んで歩き出した。
秋の風が吹き抜ける帰り道。霞ヶ関千春は、久遠と並んで歩いていた。
「ねえ、久遠くん。」
「ん?」
「あなたは、何か忘れたくないものってある?」
久遠は足を止め、少しだけ考えるように空を見上げた。
「……忘れたくないものかぁ。」
「そうよ。たとえば、大切な思い出とか、特別な人とか。」
千春は彼の横顔をじっと見つめた。
(この人は、昨日のことすら覚えていない。だから、"大切な思い出"なんて持てないんじゃないか——。)
そう思っていたのに、久遠は「うーん」と少し唸ってから、にこっと笑った。
「あるよ。」
「……え?」
「たとえ記憶は消えちゃってもさ。"大切だと思った気持ち"は、なんとなく残ってる気がするんだよね。」
「……気持ちが?」
「うん。ほら、例えば毎朝千春ちゃんに会うと、なんだか嬉しいなって思うんだ。」
千春は、一瞬言葉を失った。
「それって、"昨日の記憶"がなくても、きっと"昨日の僕"も楽しかったんだろうなって思えるんだよ。」
「……」
千春の胸の奥が、かすかに揺れた。
(記憶がなくても、気持ちは残る——?)
それは、千春にとって考えたことのない感覚だった。
彼女は、すべての記憶を持ち続けている。何千年分の経験も、出会った人の顔も、失った愛しいもののすべても。そのすべてが、消えることなく彼女の中に蓄積されていた。
(……でも、それは本当に"必要な記憶"だったんだろうか。)
久遠は、記憶がないのに毎朝千春を見て嬉しいと思う。昨日のことは忘れていても、今日の気持ちは確かにそこにある。
——そんな生き方が、少しだけ羨ましく思えた。
「……私も、いつか忘れたくないものを見つけられるかしら。」
「うん、きっと見つかるよ!」
久遠は迷いなくそう言った。
千春は、彼のその無邪気な笑顔を見つめながら、静かに思った。
(私は……本当は、何を忘れたくないんだろう。)
(そして、何を忘れたいんだろう——。)
放課後、霞ヶ関千春は久遠と並んで歩いていた。
「ねえ、久遠くん。」
「ん?」
「あなたは昨日のことを全部忘れるのに、どうして怖くないの?」
千春は、自分でも意外な質問をしていることに気づいた。
(……私は昨日を忘れられない。それが苦しくて仕方ないのに。)
(久遠くんは毎日"昨日"を失う。それなのに、どうしてこんなにも楽しそうに生きていられるの?)
久遠は少し考えてから、優しく微笑んだ。
「うーん……千春ちゃんは、昨日を忘れられないのが怖いの?」
「……それは。」
千春は答えに詰まった。
——怖いのか?
彼女は何千年もの間、過去のすべてを背負い続けてきた。愛した人の死も、苦しみも、喜びも、全部を記憶し続けた。
(忘れられたら、楽になれるのかもしれない。でも……。)
久遠は立ち止まり、千春の顔を覗き込んだ。
「僕はね、昨日を忘れることを怖いって思ったこと、たぶん一度もないよ。」
「……なんで?」
「だって、昨日を覚えてなくても、"今日の僕"はちゃんとここにいるから。」
千春は、言葉を失った。
「昨日がなくても、僕はちゃんと"今"を生きてる。楽しいことがあれば笑うし、悲しいことがあれば泣く。それで十分なんじゃないかなって思うんだ。」
「……」
(この人は、どうしてこんなにもまっすぐなの?)
千春は、久遠の瞳を見つめた。そこには、過去も未来もなく、ただ「今」を生きる強さがあった。
「千春ちゃん。」
「……何?」
「千春ちゃんは、僕のことを"昨日の僕"として見てる?」
「……え?」
「それとも、"今日の僕"として見てる?」
千春は、はっとした。
(私は……この人のことを、"昨日の久遠くん"として見てた?)
毎朝、彼は千春の名前を尋ねる。昨日の出来事を忘れてしまう。だから、彼は昨日の続きにいるわけじゃない。
(……久遠くんは、いつだって"今日"の久遠くんなんだ。)
千春はゆっくりと息を吐いた。
「……ごめんなさい。」
「え?」
「私はずっと、あなたを"昨日のあなた"として見ていたかもしれない。」
千春は久遠の瞳をまっすぐに見つめた。
「でも、あなたは"今日のあなた"なのよね。」
久遠は少し驚いたように目を瞬かせたあと、ふっと笑った。
「うん! そうだよ!」
「……」
千春は、小さく微笑んだ。
(昨日がなくても……今、この瞬間の彼は、確かにここにいる。)
(それなら——私も、"今"を生きてみてもいいのかもしれない。)
秋の風が、ふたりの間をそっと吹き抜けた。
秋の風が少し冷たくなり始めたある日、霞ヶ関千春はふと考えていた。
(久遠くんは、私との思い出を全部忘れてしまう。)
それは彼の生き方であり、彼にとっては当たり前のこと。けれど、千春にとっては違った。
(私は、何千年もの記憶を抱えている。)
(なのに、彼は昨日のことすら覚えていない。)
(……だったら、せめて。)
彼に"何か"を覚えていてほしい。
記憶ではなくても、形に残る何か。
「ねえ、久遠くん。」
「ん?」
「もし、"忘れないもの"を作るとしたら、何がいいと思う?」
久遠は少し考えてから、笑った。
「うーん、そうだなあ……。」
彼はポケットからボールペンを取り出し、千春の手を取る。
「ちょっと貸して。」
「え?」
千春が驚く間もなく、久遠は彼女の手の甲にペンで小さく文字を書いた。
「きょうのきろく」
「……何これ?」
千春は、自分の手に書かれた文字を見つめた。
「"今日の記録"!」
久遠はにこっと笑った。
「僕は明日になったら昨日のことを忘れちゃうけど、こうして書いておけば、"昨日の僕"が何を考えてたかわかるかもしれないでしょ?」
千春は、久遠の言葉を反芻した。
(……記憶じゃなくても、記録は残る。)
「じゃあさ、千春ちゃんも書いてよ。」
「……私も?」
「うん! 千春ちゃんが"今日"をどう思ったのか、ちょっとだけでもいいから。」
千春はしばらく迷ったあと、ペンを受け取った。
彼の手を取ると、そっと指を動かして、そこに一言だけ書いた。
「わすれたくない」
久遠は、書かれた文字を見つめて、少し不思議そうな顔をした。
「これ……何を忘れたくないの?」
千春は、少しだけ微笑んだ。
「それは、明日のあなたが考えてみて。」
久遠は目を瞬かせたあと、楽しそうに笑った。
「わかった! 明日になったら、これを見て"昨日の僕"の気持ちを考えてみるね!」
「……そうして。」
千春は、彼の笑顔を見ながら思った。
(明日になれば、彼はこの会話を忘れる。)
(でも、こうして"記録"を残せば——彼の中に"昨日"が生まれるかもしれない。)
それは、ほんの小さな希望だった。
(もしも彼が"忘れたくない"と思うものに出会ったら、何かが変わるのだろうか。)
(私のように、記憶に縛られることになる? それとも——。)
千春は空を見上げた。
秋の雲が、ゆっくりと流れていく。
(私は、本当は何を忘れたくないんだろう。)
久遠の手のひらには、「わすれたくない」という千春の文字が、確かに残っていた。
翌朝、霞ヶ関千春が教室に入ると、いつものように久遠が笑顔で手を振った。
「おはよう! えっと……名前、聞いてもいい?」
——やっぱり、彼は昨日のことを忘れていた。
千春は少しだけ息を吐いて、静かに答えた。
「霞ヶ関千春よ。」
「千春ちゃんか! そっか、よろしくね!」
千春は、この会話をもう何度繰り返したのかわからなかった。けれど、昨日とはひとつだけ違うことがあった。
(久遠くんの手のひら……)
そこには、昨日千春が書いた言葉——**「わすれたくない」**が、まだ残っていた。
インクは少し滲んでいたけれど、確かにそこにある。
千春は息をのんだ。
(覚えていなくても、記録は残る。)
久遠は気づかないまま、その手を机に置いている。千春はそっとペンを取り出し、自分の手の甲を見た。
昨日、久遠が書いた**「きょうのきろく」**の文字は、まだうっすらと残っていた。
(……昨日、確かに私たちは一緒にいた。)
たとえ久遠の記憶から消えてしまっても、"昨日"は確かにあった。
——ふいに、久遠が手のひらを見た。
「あれ?」
彼は、そこに書かれた文字をじっと見つめる。
「わすれたくない……?」
久遠は首をかしげたあと、千春の方を見た。
「ねえ、千春ちゃん。これ、僕が書いたの?」
千春はゆっくりと首を横に振った。
「……私が書いたのよ。」
「そっか……。」
久遠は、小さく笑った。
「昨日の僕が、千春ちゃんに何か言われたのかな?」
千春は、彼のその言葉に心が揺れた。
(昨日の"君"が、"今日の君"に何かを伝えようとしている——。)
「……忘れてほしくなかったの。」
千春は、小さな声で答えた。
「何を?」
「……わからない。でも、昨日の私は、何かを忘れてほしくなかったのよ。」
久遠は、自分の手を見つめながら、ゆっくりと微笑んだ。
「じゃあさ、僕はこれを大事にするよ。」
「……え?」
「"昨日の僕"が忘れちゃっても、"今日の僕"がそれを見て、また考える。」
久遠は、そう言ってペンを取り出し、自分の手のひらに新しい文字を書いた。
「また あした」
千春は、それを見て息をのんだ。
「ね、千春ちゃんも書いてよ。」
「……私も?」
「うん。"今日の千春ちゃん"が思ったことを、"明日の千春ちゃん"に残せばいいんだよ。」
千春はしばらく迷ったあと、ペンを受け取った。そして、ゆっくりと自分の手の甲に文字を書く。
「わすれないで」
久遠は、その文字を見て笑った。
「じゃあ、明日の僕がこれを見て、また考えるね!」
「……そうして。」
千春は、小さく微笑んだ。
記憶はなくても、"昨日の証"はここにある。
——そう思えたことが、少しだけ嬉しかった。




