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第一話 別れの朝


 石畳に落ちた雨水は夜明け前の冷たい空気の中で黒く濁っていた。

 王都外れの湿った路地はいつもそうだ。朝になれば活気に溢れた商人の声が響くが、その前の時間だけは街が抱え込んだ濃く沈んだ膿が静かに浮かび上がる。


 ジョシュアは、母の手を握っていた。

 母もその小さな手を握り返していたはずだった。


 気づいたときにはその細く白い手はひどく冷たく、もう二度と握り返されることはないのだと幼いながらに理解してしまった。


「……お母さん?」


 呼びかけても答えはない。

 母の体は薄い外套に包まれ壁際に背を預けて静かに座っている。

 ひどく浅い呼吸音とわずかな心音が昨夜までは確かにあったはずなのに。


 飢えと寒さ。

 それがこの国で、人を殺す最も静かで確実な方法だった。


 王都は豊かだと、誰もが言う。

 だがその豊かさは城壁の内側と、太い通りの両脇までの話だ。


 税は重く、徴兵は頻繁。隣国との小競り合いも絶えなかった。王が悪いわけではない。だが「王がいる」という事実だけでは人々の腹は満たされないのだ。


 腹が減れば小さな事で諍いが多くなる。


 ジョシュアの父は、国境近くで起きた暴動の鎮圧に駆り出され、戻らなかった。

 英雄でも反逆者でもない。ただの農夫だった。


 残された母は助けを求めて王都へ流れ着き、日雇いの仕事を探しながらジョシュアを育てた。

 だが子連れが出来る仕事は多くない。日に日に仕事は減り、パンとミルクは高くなり、冬だけが変わわらず巡ってきた。


 そして、ある朝。

 母は起きなかった。


 ジョシュアはしばらくその場に座っていた。

 かろうじて今動けるのは、昨晩母がくれた一口の硬いパンのおかげだった。あのパンを母が食べていれば何かが変わったかもしれない。

 考えても仕方ない事が頭の中を巡っていた。

 身近な人間の熱が消えていく絶望が胸を覆い、喉の奥に感情をぐつぐつと煮詰めた灼熱の塊が込み上げてくるのに泣き叫ぶことも助けを呼ぶこともできずにただ、ただ、通り過ぎる人々の靴音を聞いていた。

 この国は、弱い者の声を拾わない。


 それが、彼が人生で最初に覚えた、国家というものだった。


「……子供がいるぞ」

「通報は本当だったみたいだな」


 低い声がした。

 振り返ると、光沢のある黒い外套をまとった男たちが立っていた。兵士ではない。だが、ただの民でもない。それほど身なりが良すぎた。


「生きているな。歳は……五つ前後か」

「こっちはもうダメだ、来るのが遅すぎたか」

「……よく耐えたね、もう安心していい」


 男の一人がしゃがみ込み、ジョシュアの顔を覗き込んだ。年配の男は声も出せず母の手を握るばかりの子供に憐れむような優しい顔をしていた。

 見て見ぬふりばかりをされてきた少年が初めて誰かの瞳に映った。

 その瞬間、ジョシュアは初めて泣いた。


 理由は分からない。

 怖かったのかもしれない。

 あるいは、もっと早く見つけてくれていたら母はまだ生きていたのにと、やり場のない気持ちが溢れてしまったのかもしれない。


「……目が、青いな」


 別の男がそうつぶやき息を呑む。


「それにこの顔」


 言葉が途切れ、数人の視線が交わされる。

 空気が変わった。


「一旦、孤児院に連れて行こう」


 それは命令だった。

 泣きじゃくるジョシュアは母の亡骸から引き剥がされ抱え上げられる。

 最後に見たのは朝日が差し込む路地と、冷たくなり動かない母の姿だった。

 

 その日、ジョシュアは一人になった。


オリジナルでははじめての作品です。

よろしくお願いします。

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