第四章 アイル
ヴァルト大陸の外れにある、小さな集落。
地図にはほとんど記されず、王都の噂も戦の話も、風に乗って遅れて届くような場所だ。
その集落で、アイル・ルナリアは暮らしていた。
朝は霧の残る森へ向かい、
昼までに獲物を仕留め、
夕方には家へ戻る。
それが、彼女の日常だった。
アイルは森の奥、獣道の脇で足を止める。
足音を殺し、呼吸を整え、弓を構えた。
矢筒には、数本の矢。
どれも無駄にはできない。
(距離、十分)
視線の先。
低木の影で、小型の獣が草を食んでいる。
弓を引く。
背中と腕に、いつもの張り。
アイルは迷わない。
迷う必要がないほど、この動作を繰り返してきた。
——放つ。
弦が鳴り、矢が飛ぶ。
だが。
わずかに、逸れた。
アイル「……?」
ありえない。
風もない。
距離も完璧。
獣は驚いて逃げ去り、森に音が吸い込まれる。
アイルは弓を下ろし、右手を見た。
違和感。
ほんの一瞬、指先が熱を持った気がした。
(気のせい……?)
そう思おうとした、その時。
右手の甲に、鋭い熱が走る。
アイル「……っ!」
弓を取り落とし、膝をつく。
息が詰まり、視界が揺れる。
痛みは、内側から来ていた。
皮膚ではない。
骨でもない。
——もっと深いところ。
何かが、
抗えない“何か”が、
刻み込まれてく。
アイル「や、め……!」
声にならない。
右手の甲に、線が浮かび上がる。
光でも、闇でもない。
絡み合い、形を成し、
拒否することを許さない紋様。
それは、刻まれるのではなく、
最初から在るものを思い出すように、そこに現れた。
痛みが引いたとき、
アイルは荒い息のまま、地面に手をついていた。
震える指で、そっと甲を見る。
消えない。
薄れない。
アイル「……なに、これ……」
答えは、ない。
森は静かだった。
鳥の声も、風の音も、いつもと変わらない。
変わったのは、ひとつだけ。
アイル・ルナリアの右手に、
この世界の理から外れた“何か”が宿ったこと。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
アイルは森を抜け、集落へ続く細い道を歩いていた。
弓は背負ったまま。
獲物は、ない。
右手には、白い布が巻かれている。
応急処置に使った包帯だ。
足取りは重いが、立ち止まることはしない。
日が落ちきる前に帰らなければ、母に心配をかける。
木造の家々が見えてきて、
煙突から立ち上る煙の匂いが鼻をくすぐった。
(……夕飯、どうしよ)
そう考えながら、アイルは自分の家の戸を押す。
「ただいま」
返事はすぐに返ってきた。
母「おかえり、アイル」
囲炉裏のそばで、リディア・ルナリアが振り返る。
火にかけた鍋から、湯気が立っていた。
妹「お姉ちゃん!」
ぱたぱたと足音を立てて、フィアが駆け寄ってくる。
そのまま、ぎゅっと抱きつこうとして――
フィア「……あれ?」
包帯に気づき、手が止まる。
母「どうしたの、その手」
アイルは一瞬だけ視線を逸らし、
すぐに、何でもないことのように肩をすくめた。
アイル「木の枝でちょっとね」
アイル「大した怪我じゃないよ」
母は近づき、包帯の上からそっと触れる。
母「……無理はしないで」
それ以上、深くは聞かなかった。
フィア「痛い?」
アイル「大丈夫だよ!」
そう言って、フィアの頭を撫でる。
包帯のある右手は使わず、左手で。
アイル「ごめん、今日は獲物が取れなかった」
一瞬の間。
だが、リディアは眉をひそめることも、ため息をつくこともなかった。
母「そう。なら、今日は干し肉と豆のスープね」
それだけだった。
フィア「ねえねえ、今日は星、見える?」
アイル「ああ。雲なさそうだしね」
フィア「じゃあ、お父さんにも見せてあげたいね!」
その言葉に、
リディアの手が,ほんの一瞬だけ止まる。
母「……ええ。きっと、見てるわ」
それ以上、誰も何も言わなかった。
囲炉裏の火が、ぱちりと弾ける。
何でもない会話。
いつも通りの夕暮れ。
それなのに。
包帯の下で、
じくりと、脈打つ感覚が走る。
痛みとは、違う。
熱とも、違う。
(……なに、これ)
アイルは気づかれないように、
そっと右手を握りしめた。
囲炉裏の火が、揺れる。
その音が、
妙に大きく聞こえた。┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈それから、数日が過ぎた。
森での出来事は、
夢のように曖昧で、現実のように鮮明だった。
アイルは、あの日から弓を手に取っていない。
狩りに出ようとすると、
どうしても、右手の甲に意識が向いてしまうからだ。
包帯の下。
誰にも見せていない“それ”。
(……まだ、消えてない)
夜、布団の中でそっと確かめるたび、
胸の奥が、ざわついた。
何かが変わってしまった。
でも、それが何なのかは分からない。
分からないまま、
時間だけが過ぎていった。
╌╌╌╌╌╌╌╌╌╌╌╌
その日の朝。
集落に、見慣れない気配が入り込んだ。
家々の間を抜けてくる、規則正しい足音。
革靴が石を踏む、乾いた音。
アイルは、はっとして顔を上げた。
(……なに?)
外に出ると、
集落の入り口に、数人の人影が立っていた。
白を基調とした装束。
胸元に刻まれた、見慣れない紋様。
——神殿の者たち。
村人たちは、距離を取りながら様子を窺っている。
不安と警戒が、空気に混じっていた。
その中の一人が、一歩前に出る。
「この集落に、異変はなかったか」
静かな声。
だが、有無を言わせない響きがあった。
村の長が、慎重に答える。
「……異変、とは?」
神殿の者は、わずかに視線を巡らせる。
「数日前」
「強い反応が、この周辺で確認された」
アイルの心臓が、跳ねた。
無意識に、包帯を巻いた右手を引き寄せる。
「手の甲に、見慣れない印を持つ者はいないか」
「光や、強い痛みを伴うものだ」
ざわ、と空気が揺れた。
誰も答えない。
誰も、名乗り出ない。
当然だ。
そんな話、聞いたこともない。
——けれど。
アイルは、息を呑んだ。
(……私のこと、だ)
森の中。
刻み込まれるような感覚。
逃げ場のない、あの瞬間。
神殿の者は、言葉を続ける。
「心当たりがあれば、隠す必要はない」
「それは“罪”ではない」
その言葉が、
なぜか、ひどく重く聞こえた。
アイルは、唇を噛みしめる。
名乗り出れば、
きっと、ここには戻れない。
母と、妹と。
この集落での暮らしとも。
視線が、自然とフィアの方へ向かう。
何も知らず、きょとんとこちらを見ている妹。
アイルは、小さく息を吸った。
——まだだ。
今は、まだ。
包帯の下で、
手の甲の紋章が、微かに熱を帯びた気がした。
まるで、
「逃げられない」と告げるように。まるで、
その日から、神殿の信者たちは集落に留まった。
白い装束の者たちが、
朝から晩まで家々を訪ね歩く。
一軒ずつ。
確実に。
取りこぼしがないように。
扉を叩く音が、何度も響く。
「失礼する」
「少し、お時間を」
同じ言葉。
同じ視線。
同じ確認。
「手の甲を、見せていただけますか」
拒む者はいない。
拒める空気ではなかった。
アイルは家の中で、
そのやり取りを、ただ聞いていた。
(……まだ、来てない)
包帯を巻いた右手を、
膝の上で、ぎゅっと握る。
熱はない。
光もない。
けれど——
確かに、そこに“在る”。
外から、別の家の扉が閉まる音がした。
「ここも、違う」
その声が聞こえた瞬間、
胸の奥が、ひどくざわついた。
(……いつまで、隠れるつもり?)
自分に向けた問い。
母と妹の姿が、脳裏をよぎる。
この家。
この集落。
変わらない日常。
——守りたい。
でも。
守るために、
何かを偽り続けることは、
本当に“守る”ことなのか。
そのとき。
外から、信者の声が響いた。
「この周辺は、すでに確認を終えた」
「反応は、まだ残っている」
空気が、凍る。
「近くに、必ずいるはずだ」
その言葉を聞いた瞬間、
アイルの中で、何かが静かに決まった。
(……私だ)
もう、逃げない。
アイルは、立ち上がった。
リディア「アイル……?」
母の声に、
アイルは振り返り、微笑む。
アイル「大丈夫」
アイル「ちょっと、行ってくるだけ」
フィアが、不安そうに袖を掴む。
フィア「……すぐ、帰ってくる?」
アイルは、少しだけ迷ってから、
頷いた。
アイル「うん」
その約束が、
守れるかどうかは分からない。
それでも。
アイルは、扉を開けた。
白い装束の者たちが、
一斉にこちらを見る。
その視線の中心で、
アイルは立ち止まった。
一瞬だけ、息を吸う。
そして、はっきりと言う。
アイル「……私です」
一瞬の静寂。
信者の一人が、低く息を呑む。
「……名乗り出る、ということだな」
アイルは、答えなかった。
代わりに、
右手を胸の前へと持ち上げる。
包帯にかけた指が、わずかに震えた。
——だが、止まらない。
アイルは、ゆっくりと包帯をほどいた。
白い布が外れ、
露わになった手の甲。
そこに刻まれた、消えない紋章。
アイル「……これ、ですか?」
その瞬間、
空気が、はっきりと変わった。
信者たちの表情が、凍りつく。
誰もが、言葉を失う。
やがて、一人が低く告げた。
「……確認した」
その言葉が落ちた瞬間だった。
リディア「待ってください!」
母が、思わず前へ出る。
声は震えていたが、はっきりとしていた。
リディア「この子は……」
リディア「この子は、ただの——」
言葉が、続かなかった。
“ただの何”なのか。
それを言い切ることが、もうできなかった。
信者は、穏やかな表情のまま、首を振る。
「危害を加えるつもりはありません」
「ですが、放置することもできない」
リディアは、アイルを見た。
幼い頃から知っている背中。
手を引いて歩いた道。
熱を出した夜。
泣きじゃくった朝。
その娘が、
今は、まっすぐに前を向いて立っている。
リディア「……行くの?」
かすれた声。
アイルは、少しだけ迷ってから、
ゆっくりと頷いた。
アイル「うん」
短い返事。
けれど、逃げはなかった。
フィアが、堪えきれずに声を上げる。
フィア「やだ……!」
フィア「おねえちゃん、行かないで……!」
アイルはしゃがみ込み、
妹と視線を合わせた。
アイル「すぐ……じゃないけど」
アイル「ちゃんと、帰ってくる」
その言葉が、
約束なのか、願いなのかは分からない。
リディアは、唇を強く噛みしめた。
止めたい。
引き留めたい。
抱きしめて、離したくない。
それでも。
娘の目が、
もう“決めた者”のそれであることを、
母は理解してしまった。
リディア「……無事でいなさい」
精一杯の言葉だった。
アイルは、立ち上がり、
深く、頭を下げた。
アイル「……行ってきます」
信者たちが、静かに踵を返す。
集落の外れへと続く道。
そこに、もう迷いはなかった。
アイルは、振り返らなかった。
振り返れば、
きっと、足が止まってしまうから。
こうして、
ヴァルト大陸の外れにある小さな集落から、
一人の少女が旅立つ。
王都エリオスへ。
同じ刻、
同じ運命を刻まれた
もう一人の存在がいることを——
まだ、知らないまま。
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