第三章 神殿の沈黙
夜明け前の空は、まだ色を決めかねていた。
薄い群青の中に、かすかな光が滲んでいる。
集落は静まり返っていた。
いつもなら聞こえてくる家畜の気配も、人の声もない。
レインは家の前に立ち、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
(……本当に、行くんだ)
王都エリオス。
名前だけは何度も聞いてきた場所。
けれど、それは物語の中の都であって、自分が向かう場所ではなかったはずだ。
足元に置かれた、小さな荷。
必要最低限のものしか入っていない。
レインは無意識に、右手の甲へ視線を落とす。
消えない紋章。
それが、すべての始まりであり、終わりでもあるように思えた。
家の扉が、静かに開く。
ルナが出てきた。
いつも通りの表情をしているが、その目の奥には眠れなかった夜の名残があった。
ルナ「……寒くない?」
レイン「うん、大丈夫」
それ以上、言葉は続かなかった。
しばらくして、レルネンも姿を現す。
外套を羽織り、腰には剣を帯びている。
レルネン「……まだ、引き返せる」
低く、静かな声。
何度も自分に言い聞かせてきた言葉のようだった。
レインは、首を振る。
レイン「行くよ」
レイン「ちゃんと、見てくる」
何を、とは言わなかった。
それでも、二人には伝わっていた。
レルネンは一瞬、目を伏せたあと、ゆっくりと頷いた。
レルネン「……そうか」
集落の外れ。
王都エリオスからの使者たちが、すでに待っていた。
無機質な装束。
感情を表に出さない視線。
その中の一人が、淡々と告げる。
「出立の時間です」
ルナが一歩、前に出る。
ルナ「……無事でいなさい」
ルナ「それだけで、いいから」
レインは小さく笑って、頷いた。
レイン「うん」
レルネンは何も言わず、ただ、レインの頭に手を置く。
重く、確かな重み。
それが最後の合図だった。
レインは振り返らなかった。
こうして、
レイン・ソレイユは集落を離れる。
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王都へ続く街道は、想像していたよりも長かった。
集落を離れてから数日。
道は整えられ、行き交う人の数も増えていく。
それだけで、世界が少しずつ変わっていくのが分かった。
レインは馬車の窓から外を眺めていた。
揺れる景色の中で、右手の甲に走るかすかな違和感だけが、
現実を繋ぎ止めている。
消えない紋章。
隠していても、そこにあると分かる存在感。
(……ここまで来ちゃったんだ)
後戻りは、もうできない。
やがて、街道の先に異質な影が現れた。
高い城壁。
白い石で築かれた巨大な壁が、地平線を断ち切るようにそびえている。
思わず、息を呑んだ。
(……これが)
使者の一人が、淡々と告げる。
「王都エリオスです」
門の前には人の波があった。
商人、兵士、巡礼者。
それぞれが目的を抱え、迷いなく進んでいく。
集落とは、まるで別の世界。
門をくぐった瞬間、
音と匂いと気配が、一気に押し寄せた。
石畳を打つ足音。
行き交う声。
高く積み上げられた建物が、空を切り取っている。
レインは、無意識に右手を握りしめた。
この場所では、
自分は「ただの少女」ではいられない。
そう理解してしまったから。
馬車は、神殿へと続く通りで止まった。
白を基調とした建物。
静けさをまとった、異様に整った空間。
「ここから先は、神殿の管轄です」
使者の声が、やけに遠く聞こえた。
レインは、ゆっくりと地面に足を下ろす。
神殿へと続く通りは、王都の喧騒から切り離されたように静かだった。
石畳は白く磨かれ、
両脇に並ぶ柱が、視線を否応なく前へと導く。
空気が、違う。
音が遠のき、胸の奥がひりつくような感覚だけが残る。
(……ここが)
案内の使者に続き、レインは歩き出す。
背後で門が閉じる音がして、わずかに肩が強張った。
神殿の内部は広く、高かった。
天井近くまで伸びる柱。
淡い光を宿した灯りが、等間隔に配置されている。
その中心へと進むにつれ、
視線を向けられている気配が増えていく。
好奇ではない。
評価でもない。
——確認。
そう感じた瞬間、レインは右手をぎゅっと握りしめた。
「……こちらへ」
低い声に導かれ、奥の間へ進む。
そこには、
簡素な衣を纏った神殿の者たちが数名、静かに待っていた。
年齢も性別もまちまちだが、共通しているのは、澄んだ目。
その中の一人が、レインを見据える。
「名を」
レインは一瞬だけ息を整え、答える。
レイン「……レインです」
レイン「レイン・ソレイユ」
名を告げた瞬間、
わずかに空気が揺れた気がした。
誰かが、短く息を吸う音。
誰かが、視線を伏せる気配。
だが、説明はない。
「手を」
促され、レインは黙って右手を差し出す。
包帯の下。
隠してきた現実。
神殿の者は、ためらいなく包帯に触れた。
露わになった手の甲。
そこに刻まれた、消えない紋章。
沈黙が落ちる。
重く、深い沈黙。
「……確認した」
その一言だけが、告げられた。
レインは唇を噛みしめる。
やはり、ここは——
逃げ場ではなかった。
神殿の奥で、誰かが低く呟く。
「同じ刻に、もう一つ……」
その言葉の続きを、誰も口にしなかった。沈黙が、空間に沈殿していく。
張りつめた静けさの中で、淡い灯りだけが揺れていた。
神殿の者たちは、それ以上何も語らない。
問いも、説明もない。
あるのは、確認が終わったという事実だけだった。
「……今日は、ここまでです」
そう告げられ、
レインは別の回廊へと導かれた。
歩きながら感じるのは、
敵意ではない。
警戒でもない。
——距離。
近づきすぎず、遠ざけもしない。
扱いに、明確な線が引かれている。
通された部屋は、広かった。
石造りではあるが、冷たさは感じない。
柔らかな寝具。
清潔な机と椅子。
壁際には、水と食事がすでに用意されていた。
高い位置の窓からは、
王都の空がわずかに見える。
「こちらが、あなたの滞在用の部屋です」
「必要なものがあれば、外の者に」
そう告げられ、扉が閉まる。
鍵の音はしたが、
閉じ込められた、という印象はなかった。
——むしろ。
逃げる必要がある場所ではない、
と示されているようだった。
一人になると、
レインはゆっくりと息を吐いた。
右手の甲を見る。
紋章は、変わらずそこにある。
痛みも、熱もない。
(……同じ刻に、もう一つ……)
意味は、分からない。
ただ、あの言葉が
重要なことだけは分かる。
自分に向けられた言葉ではない。
それなのに、無関係とも思えなかった。
この部屋も、
この待遇も、
理由があって与えられている。
——それだけだ。
レインはベッドに腰を下ろし、
視線を伏せる。
ここは、守られる場所ではない。
けれど、
粗末に扱われる場所でもない。
その中間。
選ばれたわけでも、
許されたわけでもない。
ただ——
もう、元の場所には戻れない。
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