191話 ぽこの親父さんからのご褒美話
たぬき姿では足裏が思うように拭けず、足を洗う桶に足を突っ込んで、ぶるぶると震わせる。水気が飛んだところで奥座敷へ続く廊下に上がった。
とことこ歩いていると、背後で驚く声が挙がった。
「誰だ⁉ 水のついた脚で上がったのは」
とんだいたずらっ子のように言われ、振り返ると、俺の肉球型の水たまりが点々とついてきている。
「すまん。後で拭いておく」
「オズワルドさんでしたか。構いません。やっておきます」
叫んだたぬきが、俺を見て怒りを解いた。
「ありがとう」
化け術に不慣れな俺に、皆が優しくしてくれるのが、余計につらい。
人間よりも人間らしい生活を重んじる彼らと一緒にいると、たぬきになった今の方が大変だ。
奥座敷に入る手前、襖の前で、嫌な予感がした。
前回、ここに呼ばれたときにはとんでもない目に遭わされた。
初夜見物だと称して、ジョアンとさせられそうになったのを思い出す。
ぽこのいぬ間に俺一人を呼び出すなぞ、どうせ今度もロクな話しではないだろう。
覚悟してから中のドン・ドラドに声をかける。
「オズワルドです」
「おう! 入れや」
前脚で襖を開けて中を見たら、たぬき姿のドン・ドラドがいた。
黒い毛に、でっぷりとせり出した腹がたゆたう。立派な睾丸が主張し、我が目を疑う。
「ははは。この姿は初めてだったか」
視線を落とされたところまで歩み寄り、クッションの上に犬のようにお座りをした。
ドン・ドラドが皆に慕われているのも、その仕事ぶりも知っているが、たぬき姿の貫禄は人間のとき以上だ。
これが里長というものか。
「婿殿に助けて頂いたのは二度目だな。皆感謝しておる」
白銀の王と妖精女王のことだろうが、どちらも異例中の異例の事件だとぽこは言っていた。
「娘可愛さとはいえ、儂がいらぬことをして、婿殿をたぬきにさせてしまった。申し訳ない」
立派なたぬきであるドン・ドラドに謝られてはかなわない。
今度はこういう作戦なのだろう。
里長であるドン・ドラドが頭を下げて、俺に頼み事をする。たぬきになった俺はドン・ドラドの頼みを断り難い。まさに弱点を突いている。
「元よりたぬきになるつもりでしたから。これでぽことの間に子供も望めます」
先制攻撃を仕掛ける。
「もし、古の薬でたぬきになったら、この里で暮らすつもりだったのか?」
想像せぬ方向からの返しに、気の利いた返事ができない。
「インマーグに帰れば、贅沢しなけりゃ家族を養えると思ってました。化け術がこんな難しいとは知らなかったもので」
ちらりと脳裏に将来の夢だったものが浮かんだが、それとて、化け術を使えるようにならなけりゃできぬ。
「この里で暮らすのは嫌かね」
ドン・ドラドの意図が掴めない。どんな罠が潜んでいるのか慎重に探り当てねばならず、強面の顔が柔和なことにも戸惑う。
「いくら儂らが人間の真似をしようと、所詮は真似事だからな。妙ちきりんなのは笑ってゆるして欲しい」
寝巻のズボンを帽子にしていたたぬきを思い出す。本人には悪いが、あれはさすがに思い出すだけでも面白い。
思わず微笑んでしまった。そして、肩の力が抜けた。
「ここは美しいですね。居心地もいい」
ただ、俺が化けるのが下手なだけで。
「ならこれからもここで住めばいい。なに、元人間だろうと、今じゃ里を二度も救った英雄たぬきだ。皆、文句もあるまいて」
これが本音か? それを言うために呼んだのだろうか?
だとすれば、ドン・ドラドがたぬき姿で俺を呼んだのは、たぬきとして迎えるという気持ちを表したものだろうか?
いや、相手はたぬき親父だ。
「儂とて、ぽこが近くにいる方がいい」
これは本音だろう。誰かを騙すには、本音を混ぜるといいものだ。
「それで、何か欲しいものはないかね」
なるほど。望むものを与えるからぽこは諦めろと言いたいわけだ。なかなかせこい真似をしてくれる。
「ぽことの結婚を認めて頂ければ、それで十分です」
ドン・ドラドは顔をしかめた。
「嫌らしいことを言うな。それはそれ、これはこれだ。何か一つくらい欲しい物があるだろう?」
「う~ん。特に有りません」
褒美なんてものはいらない。ひどい目に遭ったばかりだ。欲しいものは自分で手に入れる方が断然よい。
もう懲り懲りってやつだ。
「儂に何かやると言われて断るやつはいない」
ドン・ドラドの語気に怒りが混じり始める。ドン・ドラドは策士ではあるが、短気だ。
適当に酒でも答えようかと思ったが、そんなまずい酒は欲しくない。
黙ったまま睨み合い、ようやく思いついた。
「俺よりぽこに何か」
「儂はお前に聞いている」
こりゃ、駄目だ。このままだと喧嘩になっちまう。
ふへーと腹の底から疲労の詰まったため息を吐く。
「可愛げがない婿ですみませんね。どうも俺は偏屈でして、誰かの好意に甘えて、己を堕落させるのが嫌いなんですよ」
「本当にややこしい男だな!」
睨み合っていたドン・ドラドの顔が解れた。口で罵りながら、むしろ喜んでいるように見える。
「金を貯めていたと聞いているが、何が目的だ?」
「あぁ、あの金は温泉宿を買うつもりでした。年取って冒険者はできませんから」
「ほぉ、温泉宿?」
ドン・ドラドは食いついて来た。いくらドン・ドラドと言えど、ない袖は振れぬというもの。この話題は気楽なやつだ。
「俺の生まれ育った村には温泉がありましてね。駄賃欲しさによく風呂掃除やら客室掃除やらやったもんです。要領はわかってるし、ぽこも料理上手ですから、二人でやれると踏んだわけです」
「なるほど。わかった。もう行っていい」
我ながら大きなものを引き合いに出したものだ。
ドン・ドラドはまた何か手を打ってくるやもしれないが、その前に結婚したい。
俺もたぬきになり、ぽことの間に障害は何もないはずなのに、結婚話は進まない。
化け術に自信を持てるようになったら、ぽこに結婚に向けた話しをしようと意気込んでいるが、あのザマである。
奥座敷から退出して、廊下にある大きな姿見でたぬき姿の己を見る。
黒い毛皮で、身体が大きい。人相の悪さはたぬきになっても健在だ。
俺とドン・ドラド、それにジョアンでも並べば、たいていの人間は逃げ出すだろう。
これまでぽこばかり見ていたから、たぬきになればもうちっと愛らしくなるかと思ったが違った。
腹を撫でながら気合を入れて人間姿に化けてみる。
いかついおっさんにたぬきのまるい耳が残り、脱力した。





