186話 ぽこと七羽のうさぎ
寝床から起き出すのに苦労する。どうにも朝からやけに冷え込んでいる。
組み置いていた水が凍っており、その分厚さに首を傾げる。
「わ、分厚いですね。この時期にしては珍しいです」
赤壁山を見上げると山頂付近は吹雪いているらしく、真っ白で見えない。
「今夜は湯割りヴァダーだな」
「もう、旦那様ったら、まだ朝ですよ」
二人で笑いながら金毛邸へと向かうと、前座敷の方向からラッパのような音がした。
「何の音でしょう?」
ここに来て初めて聞く音だ。ぽこも首を傾げる中、ラッパの音は七回続いた。
咄嗟にぽこを背へと隠す。
ラッパが鳴った途端、玄関から桁違いの気配を感じた。例えるのなら、大屋根山の主と遭遇したような、圧倒的存在に死を覚悟するような感覚だ。
「ドン・ドラド様ぁぁぁ!」
いつもかしこまっている案内役のたぬきが、蒼白になり奥座敷へと走っていった。
好奇心旺盛のたぬきたちが、どやどやと集まり始めた。
「ぽこは風月廬に戻ってくれ」
「嫌です」
普段朗らで華のあるぽこが、真剣な顔で拒否した。
何はなくともぽこには危険なところに連れて行きたくない。だが、ぽこは白銀の王が襲来したときも里のものをかばった。
なぜ戻って欲しいのか理由を言おうとして留まる。ぽこの意見を尊重するということは、ぽこがたぬきの里で担っている仕事ごと尊重することでもある。
できる限りのことをするだけか。
諦めが表情に出たのを見て、ぽこが先を急いだ。追いかけて、追い越す。せめて守るくらいのことはさせて欲しい。
座敷に入る手前の廊下で、先に着いたたぬきたちが失神していた。
たぬきというやつは、怖いとすぐに失神する。彼らの言葉を借りるなら、それは失神ではなく、身を守るための死んだふりであって、一種の化け術だという。
前座敷には、全身黒の大きな女が杖をついて立っていた。
見た瞬間全身の血が凍るかと思った。
この女は、ゴーストアップルを取ったときに、危うく遭遇しかけた何者かと同じ匂いがする。
玄関先には大きな鹿がいた。あの時の足跡と一致する。
特定こそしなかったが、あれは妖精女王だと俺たちは考えていた。
やはり、妖精女王だったか。
ならば、目的はただ一つ。
どう出るのか時間を稼ぐ内に、皆に遅れてドン・ドラドが奥座敷から合流した。黒い女を見て啞然とし、立ち止まる。
黒い女は、よく見たらニワトコの実がついた枝でできた冠を被っている。
ニワトコは、葉、花、実、樹皮に薬効成分がある。熟していない実は強い毒があるから、生と死の象徴にされている。
「やいやい」
「やいやい!」
「そこの者!」
「不躾な視線で」
「御姿を汚すでない!」
「この方を」
「どなたと心得る!」
潰れたしゃがれ声でやかましいのが、黒い女の足元をぴょんぴょんと立て続けに跳ねた。
黒いのは七羽のうさぎだった。手にラッパを持っている。先刻の音はこいつらの仕業らしい。
「この方は妖精女王様である」
「死を司る神様と呼ぶ者もいる」
「一年の終わりに、死者の魂を連れていらっしゃる」
「親しき者には知恵を授けるが、」
「蓄えを腐らせ、疫病を流行らせる」
「妖精と呼ぶ者もおるが」
「その力の前に神と呼ぶ者もあり」
揃って突き出た二本の歯をむき出しにして、鼻をひくひくさせ、反応を確かめる。
深い沈黙が流れた。
ドン・ドラドが俺に課した最初の試練が、今年最初のゴーストアップルを取ってくるというのも、本来は妖精女王の物だというのも、ここにいるたぬきたちは皆知っている。
取り戻しに来たのか、それとも仕返しに来たのか。
誰も身動き一つできない。
背後に隠したぽこも、俺の腕と身体の間に顔を押し込んで震えている。
「この中に」
「妖精女王様の」
「ゴーストアップルを」
「盗んだ者が」
「おる!」
「正直に」
「名乗り出よ!」
一羽ずつ話すから、余計に言葉の意味がのしかかる。
妖精女王が、一堂を一匹ずつ確かめるように見渡してくる。老獪な視線はまるで心の中まで見透かすようだ。
我慢できずに失神するたぬきがさらに出始めた。
誰も口を割らず、視線が俺に集まることもない。恐怖に失神してしまうが、彼らの仲間を思う気持ちは強い。
「もう一度だけ」
「言おう」
「名乗り出れば」
「罰するのはその者だけ」
「庇いだてするなら」
「たぬきの里は」
「根絶やしだ‼」
寒さが一層際立ち、張り詰めた中で、黒いウサギたちが一音も漏らすまいと、耳をあらゆる方にせわしなく動かしている。
ドン・ドラドが動く気配があり、視線を合わせる。
「出てくるな。任せてくれ」と声にならないメッセージを送ると、頷いた。
ぽこが、握ってきた手が冷たい。指先で指を優しくなぞってから、手を離す。
俯いていたたぬきたちが、妖精女王の前に出て行く俺を見て息を飲んだ。
何も恰好つけて、たぬきの代わりに死のうだなんて考えちゃいない。
脳裏に浮かぶのは、自然災害で絶滅してしまう生き物のことだ。
十年インマーグにいるが、二度経験したことがある。特定の生き物が絶滅すれば、関連する生き物が皆煽りを喰らう。
目も当てられぬ惨状は、癒えるのに何年もかかるほど。
自然とは恐ろしいと思っていたが、もしかしたら、神や妖精を怒らせた罰なのかもしれないと思った。
そして、神や妖精は気まぐれな生き物だという。何の拍子に怒らせてしまうのかはわからない。
だからこそ思う。ぽこの美しい里を守りたい。
「俺がゴーストアップルをもぎました」
この場をどう切り抜けられるのか、策は思いついていない。だが、はいそうですかと死ぬわけにはいかない。
無策なのはいつものことだ。
「お前」
「何かを」
「庇って」
「おるな?」
「だが」
「情け容赦は」
「ないぞ!」





