184話 旦那様と縁側
金毛邸の台所から風月廬に戻ると、旦那様が縁側に座っていた。
「湯冷めしてしまいますよ」
私と入れ替わりで露天風呂に入ったばかりだから、旦那様の顔は赤い。
作り立ての生姜湯を手渡すと、早速一口啜った。
「ジンジャーに蜂蜜?」
「お酒じゃなくてがっかりですか?」
「いいや、ありがとう」
旦那様が隣を手で叩くので、そこに座る。旦那様の身体から熱が伝わってくる。
「綺麗だなぁ」
旦那様が見上げた先は、満天の星空だった。寒いから空気が澄んで、星の色までよく見える。
落っこちてきそうな星を並んで見上げていると、旦那様が生姜湯を飲み干して横になった。
「薬が無くて残念だ」
ぽそりと呟いた言葉が、心に沁みた。
私を励ますための言葉ではなく、旦那様の本音に聞こえた。
「今の言葉で救われた気がします」
「うん?」
「ほら、ぽこは最初から古の薬で人間になるつもりで押しかけ女房になりましたから」
「そう言やぁ、そうだったか」
ひっそり笑う息遣いが聞こえる。この笑い方が好き。心が綻ぶ気がする。
建前や騙し合いのための笑い方ではないから、心に響く。
誠実で、仲間想いの旦那様だから、こんなに惚れた。
好きという言葉では足りなく、惚れたという言葉の方がしっくりくる。
旦那様になら、例え情けないことでも話してしまえる。
私を受け止めてくれるはず。
「ずっとぽこの意見を押し付けてると思ってました。ぽこの赤ちゃんのことも、結婚のことも」
「ぽこと俺の子供の話しだ」
まだ熱い生姜湯を脇に置いて、旦那様の隣に真似して寝転ぶ。おでこを旦那様に腕にくっつける。
「そうですね。二人の話しです」
目を閉じると、星の瞬く音がする気がする。静かな時間。
この人だから、この人だからこそ私は一緒にいたい。
旦那様の温もりを感じていれば幸せだ。
「子供を望めなくても、ぽこを可愛がってもらえますか?」
「いつも可愛がっているだろう?」
意図が通じずに返事に困った。旦那様が言っているのは、たぬきの毛並みを撫でまわす話で、私が聞いたのは別のことだ。けれど、それを口に出すのは恥ずかしい。
「えと、その……」
上半身を起こして捻り、隣で夜空を見上げている旦那様を覗き込む。
いつもなら、背が足らずこの角度のお顔は見えない。
他の人が怖がるけれど、丹精で男らしく見える。
トクン――トクン――
心臓が騒がしい。一緒に暮らして一年も経つのに、まだ顔を見るだけでときめいてしまう。
「どうかしたかい?」
返事をしない私を気遣った旦那様と視線が絡み合う。身体を起こそうとしていた旦那様の動きが止まった。
私、どんな顔をしてるんだろう?
顔が火照っているのはわかる。これからしようとしていることを考えたら、息が苦しい。
旦那様のお顔の近くに手を置いて、覆いかぶさる。髪が一束二人の間に落ちてきた。
旦那様の手が伸びてきて、落ちた髪を耳にかけてくれた。
待ってくれてる。
じっと見つめられる優しい視線に励まされて、再び近づく。
旦那様の息遣いがわかるくらい近い。
ようやく合わせた唇は優しかった。
私からの初めての行為だった。
せがんで困らせたことがあったけど、あれとは全く違う。
二人の気持ちが通い合っているから、できる口付けだ。
触れ合うだけの唇を離すと、旦那様の目だけが見えた。近すぎて他は見えない。
「こんな風に――です」
こんな風に可愛がってもらいたい。この続きがしたい。
よこしまな気持ちをどう表現すればいいのか。
大きな手が私の後頭部を一撫でした。そして、私の顔を旦那様に近づける。
さっきと同じ触れるだけなのに、旦那様のはどうしてこんなに違うんだろう?
高ぶった気持ちが苦しい。旦那様の手が私の手を掴んで、指の間に指が侵入する。
自重を支えることを許されずに、旦那様の胸の上に身体が密着した。
飢えを満たす獣のように旦那様に口付けを続ける。唇に、頬に、目の端に。
もう一度唇に重ねると、指の拘束が解かれ、肩を掴んで離された。
行為に熱中しすぎて、自分を取り戻せない。余韻が残り、夢うつつを彷徨う。
吐く息が白いことに気が付き、どれだけ今熱いのだろうと思うと恥ずかしくなった。
「煽るのが上手いな」
「え? 何かおっしゃいましたか?」
「いいや、こっちの話。そうだな。結婚はけじめだから、そういうこともあるだろう」
旦那様も上半身を起こした。
「前みたいに、俺がいじめたみたいに言ってくれるなよ」
前みたい?
私の誕生日のとき、あわやいい雰囲気になったはずだ。そのとき、私は何て言ったっけ?
「許して」だ。
「もぉ! からかわないでください!」
旦那様が声を出して笑った。
「本当に怖かったんです」
「俺は人間だからたぬきを食うものな」
違う、そういう意味じゃない。だけど、そんなことはどうでもよくなった。
旦那様が笑うなら私も嬉しい。
「毛皮だってとりますし!」
「何しろ立派な毛皮だからなぁ。冬はもふもふしていて実にいい」
笑って立ち上がる。星空を見上げてお腹を撫でた。
よし!
覚悟を決めて叩いた腹鼓は高い澄んだ音がした。





