182話 ぽことおばぁ
朝靄の中、金毛邸を出発して、ドン・ドラド、俺、ぽこの順で赤壁山を登っている。
たぬきの里を流れる小川を辿り、冷たい空気が肺にしみる。
本格的な冬はそこまで来ている。数日中にたぬきの里にも雪が降るだろう。
見通しが悪いせいもあり、道はわからない。前を歩くドン・ドラドの背中を頼りに歩くばかりだ。
ドン・ドラドは数歩先を歩いては、ぽこと俺を振り返っている。
「あれ? 川の水が」
先刻まで進行方向から流れてきていた川の水が、いつの間にか逆流している。
「登っていたはずなのに?」
上から下へ流れるのが道理のはずが、目を疑ってしまう。
「旦那様、ぽこの手を」
背後からぽこが手を握ってくれ、言われるままに目を閉じる。
空間がねじれ、押し出されるような感覚から、吸い込まれる感覚へと変わった。
「おばぁが隠居している場所は特別な結界で守られています」
ぽこがドン・ドラドを睨むと、ドン・ドラドが素知らぬふりで小さな鈴を鳴らした。
一度鳴らす毎に靄が薄くなっていく。
「どら、このくらいでいいだろう」
ドン・ドラドはそう言うと、沢を降り始めた。
「今のはたぬき古来の化け術です。山で出くわしたたぬきが、さっきみたいに振り返りながら山奥に入っていきますけど、あれは罠です」
山奥でたぬき姿のぽこが、俺を振り返りながら遠のいていけば、ついついついて行ってしまうのは請け合いだ。
「なるほど。入っちゃいけない場所まで来た人間を追い出すんだったか」
「そうです。懲らしめたり、遠くに連れて行ったりします」
沢を降りたところは、大きな湖だった。
「赤壁山の上に湖?」
赤壁山の湖といえば丸湖様だ。それ以上標高が高いところに湖があるのは見たことがない。
人間に見つからぬように閉ざされた隠されている場所なのだと実感する。
「婿殿、乗りなさい」
ドン・ドラドが船に化け、俺とぽこが乗り込む。ぽこに差し出された竿で湖の底を突き、船を動かす。
方向はドン・ドラドが決めてくれる。
結婚を認めてくれ、こうしておばあさんの家に案内してくれたりもするが、時々納得がいかないらしい。
先ほどのように化かそうとしてくる。
娘の結婚に関して、父親は複雑な心持ちなのだろう。俺には全て受け入れることしかできない。
静かな湖畔に、俺が竿を差す水音だけが聞こえる。
靄に朝日が反射して、視界は悪いが妙に明るい。
やがて、船が大きな岩にコツンとぶつかった。
岩は、庭の飛び石のように続き、その先に屋敷が建っている。
湖の中に屋敷がある?
先に降りて、ぽこに手を貸す。
たぬきの里にあるような作りの家で、玄関には木製の板が敷き詰められている。
「おばぁ!」
ぽこが俺を置いて、部屋の中へ上がって行った。
ドン・ドラドがぽこの背中を見て、頬を綻ばせる。そして、玄関で自ら足ふきの用意をし始めた。たぬきの里ではありえない光景だ。
「ここには使用人は一匹しか置いていないから」
なるほど。早速真似して、足を拭い、部屋に上がった。
天井から無数の飾りがぶら下げられている。
蕎麦の茎で作られている素朴な飾りだ。
どれも八枚の三角を組み合わせた形をしているのが共通で、単体の小さい物もあれば、組み合わせた大きな物まで様々だ。
奇妙な飾りが浮かぶ薄暗い空間は星空のように見える。
「それは安寧を祈って作った飾りですよ」
優しい声に視線が降りる。
ぽこに似た金色の毛並みのたぬきがいた。
「おばぁ、こちらはぽこの旦那様になるオズワルドさんです」
ぽこが金色のたぬきに寄り添っている。
「ようこそいらっしゃいましたね。ぽこの祖母でございます」
細いたぬきに頭を下げられ、俺も大きな身体を小さくたたんだ。
「シマエナガたちが歌うから、今日は何かいいことがあると思っていたのよ」
おばあさんが、コロコロと笑うのに見惚れてしまう。
「どうかしたか?」
部屋中の点検をしていたドン・ドラドが戻って来た。
「あ、いや、笑い方がぽこに似ていたので」
「そりゃあ、そうだろう。家族だからな」
「あなたとオズワルドさんもよく似ているわよ」
「「どこがっ⁉」」
ドン・ドラドと声を揃えてしまい、またおばあさんが笑った。随分楽しそうだ。
「大きな身体で、怖そうな顔をしてるところとか、そっくりだわ。やっぱり女の子は父親に似たのを選ぶのねぇ」
おばあさんの言葉に、三人揃って顔を赤らめてしまう。
「こちらには一人でお住まいですか?」
話題を逸らしたくて、つい話しかけてしまった。
言ってから、使用人が一人いることを思い出した。口下手が喋ろうとしたらこんな失敗をしてしまう。
「心穏やかにお迎えを待っている身です。でも、こうして孫の結婚の報告を聞くと嬉しいわぁ」
ぽこが笑顔でおばあさんを見ている。達者でいてくれるのが嬉しいと見える。
「俺は人間なのに、驚かれませんね」
一番気になることを率直に聞いてみた。達観したようなおばあさん相手に誤魔化しはきかない気がしたからだ。
「そりゃあそうよ。ぽこが選んだ相手です。たぬきでも人間でも、ぽこが幸せならいいの」
「おばぁ……」
ぽこの声が震える。
たぬきの里に結婚の挨拶に来てから、人間だと驚かれるか、許可を得るために理不尽な試練を出されるかだった。
温かく迎え入れてくれて、挨拶に来た喜びがじわじわと湧いて来る。
あぁ、家族に結婚を祝われるとは何と幸せなことだろう。
「精一杯勤めさせて頂きます」
もう一度深々と頭を下げたら、ぽこも後に続いた。おばあさんがころころと笑う。
「気張らなくて大丈夫、お互いに思いやる愛情があれば幸せになりますよ」
腕組みをしたドン・ドラドが深く頷いた。
しんみりした空気が流れる。
「あのね、おばぁ。ぽこは人間になりたいの。そんな薬があるって前に教えてくれたでしょう?」
「人間になる薬だと⁉」
ドン・ドラドの怒鳴り声で、天井からぶら下がっている飾りが揺れた。
安寧を祈って作られたものだ。
「儂はそんなこと聞いとらんぞ! やっぱり、この結婚認めるわけにはいかん!」





