第8話「姉」
「エルミーユ」
転移魔法を発動させる瞬間、フール様は私の名を呼んだ。
「頑張って」
弟子に向ける言葉は、いくらでもあったはず。
でも、フール様が選んだ言葉は、頑張ってという言葉だった。
投げやりな言葉ではなく、今度こそしっかりやれという意味の込められたものだと私は感じることができた。
「イシル様、お加減はいかがですか」
「…………はぁ?」
普段は可愛らしいを通り越したような猫撫で声のイシルが、ひと段階低い声を上げて不機嫌さを表現した。
「なんで、こんなところにいるの?」
「イシル様が何をしていたかは存じ上げませんが、気分が悪そうだったのでお声がけしました」
イシルは不審そうに私を見てくるけど、魔法が使えない人間に悪夢のことを説明しても信じてもらえない。私は堂々とイシルと向き合うことを選んだ。
「手をお貸ししましょうか」
「嫌よ、さっきまで雑巾で触っていた手なんて」
「きちんと手を洗っていたら、手を取ってもらえるということですか」
「っ」
第一声だけは低い声だったけど、イシルの声は普段通りの可愛らしさを取り戻していく。
「っていうか、気持ち悪い! 敬語とか、やめて!」
アルバーノ様の妻になるイシルにとって、私は下働きに当たる。
私が丁寧に喋ることに何も問題はないはずなのに、イシルは不快感を募らせていく。
「部屋に戻るわ」
「お供いたします」
「って、付いてくんな」
「迷いませんか、このお城」
「…………特別に、案内させてやってもいいわ」
イシルの態度は、いつもと変わらない。
でも、彼女の体を乗っ取っていた悪夢が逃亡を図ったせいか、イシルは私の言葉を無視せずに受け入れてくれる。
初めてイシルお義姉と、会話らしい会話ができているかもしれない。
「っていうか、ここ、どこ?」
悪夢が体を乗っ取っていたときの記憶が曖昧らしく、イシルは初めて歩く場内へきょろきょろと視線をさ迷わせていた。
「なんで私が、あんたと並んで歩かなきゃなの」
「不快でしたら、後ろを付いて歩きます」
「……いいわよ、別に」
イシルが、言葉を返してくれる。
そんな日のことを夢見ていたのは幼い頃までで、年齢を重ねた今になって幼い頃の願いを叶えてもらえるとは思ってもいなかった。
「……あの、イシルお義姉様」
「何?」
イシルが私を嫌っていることに変わりはないかもしれない。
でも、悪夢が去ったあとのイシルは、確実に変化を見せている。
悪夢を殺すことなく、イシルが変化を見せてくれたことに喜びを抱く。
「エルミーユ? あんた、泣いてるの?」
名前を、呼ばれる。
今までも名前を呼ばれることは何度もあったけど、イシルが名前を呼んでくれることが貴重なことのように思えた。
「使いなさい」
私が言葉を返す隙すら与えてくれなかったイシルが、私と言葉を交わしながら罠を呼んでくれるという特別感。
少しずつ、少しずつ、私の生きてきた世界が変化を遂げていく。
「苦情は受け付けないんだから」
イシルから差し出されたのは、春を彩る花の代表であるチューリップの刺繡が施されたハンカチーフ。
「それ、小さい頃から使ってて手放せないの」
「…………」
「涙は我慢しないで、流しちゃいなさい」
幼い頃から大事にしているハンカチーフを私に差し出してくれたことも、私には大きすぎる変化で涙腺を揺さぶられる。
「あんたは自由に生きられるんだから、好きなだけ泣けばいいの」
「イシルお義姉様」
「私の名前を呼んでいる暇があったら、泣きなさ……」
「独りで、背負い込まないでください」
イシルがアルバーノ様に見初められたときから、ずっと伝えたい言葉があった。
自分の部屋に戻るために動かしていた足が止まり、イシルは首を横へと動かして私を見た。
「生意気」
ほんの少し、イシルの口角が上がって見えた。
すぐに顔を真正面へと向けてしまったため、もう一度、イシルの表情を確認したいと思っても願いは叶わない。
でも、一瞬だけでも視界に入れたイシルの笑顔が見間違いではなかったと信じたい。
(悪夢を殺さなくても、イシルお義姉が私を認識してくれてる……)
まるで、夢を見ているような感覚に陥る。
都合の良すぎる夢を見ているような気もしてくるけど、私の隣を歩くイシルは幻のように消えたりしない。
彼女が確かに存在していることこそが、これは現実だということを教えてくれる。
「あー……なんだか思い出してきた。ちっちゃい頃の話を、あんたにしてたような気が……」
思い出さなくてもいい。
思い出すことがイシルにとっての辛さになるのなら、過去の話を蒸し返すことをやめようと思っていた。
でも、イシルは悪夢に体を乗っ取られていたときのことを思い出し始める。
「私、ちっちゃい頃に、あんたのお母さんと会ったことがあるのよ……」
「お伺いしました」
「私が、エルミーユのお母さんを殺したことも聞いた?」
「それで一触即発になろうとしていたところに、イシル様は体調を崩されたという流れです」
適当な話を作り上げて、イシルが悪夢に体を乗っ取られていたときの話を避けた。
「あの……その……」
「母が馬車に飛び込んでまで子どもを助けようとしたなんて、誰にも考えられなかったことです」
「それは……そうだけど……」
「誰も私の母を助けることはできなかった。それが現実です」
私の母が馬車に轢かれた、その瞬間。
その場に居合わせて、血に塗れていく母への申し訳なさと恐怖を感じていたのがイシルお義姉様。私の未来の、お姉様。
「誰も、何も悪くありません」
「こんなときまで良い子ぶらないでよ! 私はお父様と関係を持つために、馬車に飛び込んだんだって言ってんの!」
再び、イシルの足が止まった。
そして、イシルの怒鳴り声を聞きつけて、ようやく私たち以外の人たちが顔を見せ始める。
悪夢に招かれた空間が消滅し、元の世界に戻ってこられたことを城に仕える人たちが教えてくれる。




