第5話「遠い」
「エルミーユという人間は一度、終わりを迎えたようなものなので……」
「物語と同じで、お父様は再婚されてからご様子が?」
「幼い頃は、とても優しい父だったのですけど……」
エルミーユという名の娘なんて、始めから存在しなかった。
娘がいたことを忘れてしまったかのような父の態度は、私に長すぎる悪夢を与えていく。
「反抗的な態度をとらず、父の命令に従っていれば、愛してもらえるようになるんじゃないかと……」
ぽつりと零れる言葉は、とても弱いものに思えた。
今でも鮮明に思い出せてしまう父の所業が、吹き抜ける風と一緒に流れ去ってくれたらいいのにと願う。
「でも、結局、私は娘になれず、下働きの少女としての人生を歩みました」
父に愛されたいという願いこそが、浅はかな願いだと気づかされた。
「ここから、エルミーユとしての人生を始められそうかな」
私が抱えている事情は、もうどうにもならないものだと思い込んでいた。
私の一生は、下働きで終える。
そんな現実に歯がゆさや悔しさを抱くのは始めだけで、だんだんと感覚が麻痺して下働きとしての生活が当たり前になっていく。
でも、この落ちゆく感覚こそが、魔法の芽生えを阻害していたものだと気づかされる。
「魔法使い様とお話をしていると、そんな自信のようなものが生まれてきます」
「やはり物語の最後は、最高の幸福で終わりたいね」
「贅沢を言うのなら、はいと答えさせてください」
いつか、下働きだった頃の記憶なんて思い出せなくなるくらい幸せになりたい。
誰に伝えたらいいのか分からないような希望が心を満たしていくのを感じて、私の中に生まれてきた新たな夢を魔法使い様に聞いてもらいたい。
(でも、私はまだ、魔法使い様に頼られていないから)
弟子が師匠に頼られたいなんて、おこがましい考え方かもしれない。
(それでも私は、夢を見続けたい)
魔法使い様に選んでもらえたことを、とても光栄に思っている。
そんな思いは、人から頼ってもらえるような人生を歩むことができるんじゃないかという新たな希望へと変わっていく。
「うーん……」
魔法使い様は何やら、わざとらしく考え込んでいるような声を発する。
「どうかなさいましたか……?」
「僕の名前、覚えてる?」
魔法使い様を不快にさせてしまったのかと不安になると、魔法使い様はなんの脈絡もなさそうな言葉を私に投げかけてきた。
「フール様」
「うーん……まあ、一応は師匠という立場だからね。今は、それでいいとしようか」
魔法使い様は時折、私のことを無視して話を進めることがある。
「これからは、名前を呼んで」
驚きという気持ちもあったかもしれない。
恐れ多いと言う気持ちもあったかもしれない。
どちらにせよ、いろんな感情が一気に湧き上がった私の声はひと段階。
可愛くないくらい、声のトーンが下がってしまったと思う。
「エルミーユの呼び方が、しっくりこなかったから」
何を指しているのか分からなかったけれど、私はお師匠様呼びと魔法使い様呼びが統一されていないということらしい。
「申し訳ございません! 今からでも統一して……」
「エルミーユ」
下働きは、名前で呼んでもらえない。
下働きは番号で呼ばれるのが普通なのに、魔法使い様は私の名前を呼んでくれる。
名前を呼ばれることは、私にとっての特別。
私は、もう下働きではない。
「…………フール様」
誰にも呼ばれなくなった私の名前を、こんなにも違和感なく呼んでくれる人のことを想った。
「なんで、エルミーユが照れるの?」
私をからかうような表情をしているのが分かるけど、魔法使い様の口角が上がっているのを見つけて顔に熱が溜まり始めていく。
「名前を呼ぶのは、こんなにも特別なことなんですね……」
フール様に指摘された通り、顔に熱が籠もり出す。
自分の顔が真っ赤に染まっていることにも気づいて、私は自分の両手で顔を覆ってしまう。
「呼びにくかったら、《《様》》も取り払ってくれて構わないよ」
「私たちは、師匠と弟子の関係ですよね?」
「ああ、うん、そんな設定もあったね」
「……設定?」
その言葉の意味を尋ねようとしたら、作業に集中されていたはずの硝子工芸職人のおじさまが声をかけてきた。
「時間はかかりますが、代用品は必ず用意するよ」
「ありがとうございます」
設定。
代用品。
謎の言葉が並んでいく中、フール様と職人さんは言葉を交わしていく。
なんらかしらの話がまとまったフール様は私の手を引いて、丸太小屋の外へと出る。
「壊されたガラスの靴を魔法で修復するか悩んだけど、欠片ひとつでも行方不明になると魔法の力が発動しないんだ」
ここでようやく、職人が多く住んでいるラクトセルを訪れた理由が分かった。
「ガラスの靴を作ったのは、さっきの職人さんなんですね」
「ええ、父の作品をエルミーユに贈ろうと思って」
自分でも、今日は可愛げのない声を上げていると思う。
でも、今は可愛げのない声なんて言っている場合ではない。




