一日目 七月一七日 一四時〇三分(02:21:57)②
――【危険感知】
スマホが鳴動するのと、ノックのような音がしたのはほぼ同時だった。だが反射的に振り向いたのはドアではなく、天井だ。
ノック音は一つではなく、壁や窓などいたるところでし始める。まるで何かを探るような音が絶え間なく続く。
「ビアンカさん、アンジェちゃん、スマホを入れて靴を履いて」
綾は【黒のスマホ】から弓を取り出し、命じる口調で言う。オレも音を立てないよう【黒のスマホ】を体内へ仕舞い、キッチンを見る。あそこならアレがあるはずだ。
ノック音が止む――来る!
窓が破裂。飛散するガラス片と共に、虐殺蜂が侵入してきた。
数は四。窓が小さいことが幸いし、多くは入って来れないようだ。室内は熊ほどもある虐殺蜂には狭すぎ、接触しないよう距離をとっていた。
と、その内の一匹が別の一匹に衝突する。羽には矢。綾が射抜いたのか。
綾の体は半分布団に包まれていた。布団を被り、ガラス片を回避したらしい。賢い。
ちゃっかりと靴を履いていたオレは、このチャンスに畳の上でまごつく虐殺蜂へ飛びかかる。やらなきゃ死ぬ。やりたくないなんて言っていられなかった。
キッチンから調達した万能包丁と果物ナイフが、ギフト・【刃の祝福】を発動させる。
向上した身体能力とクリアになった思考で、躊躇無く床に倒れていた二匹を突き刺し、離れる。虐殺蜂がのたうち回る。が、まだ生きていた。オレの刺突は致命傷にならなかったようだ。
「後輩」
靴を綾へ投げ渡す。素足でガラス片がバラ撒かれた床を歩くのは危険だ。
「ありが……ねえ、ボクの靴、歯型ついてるんだけど?」
「グダグダぬかすな」
両手が包丁で塞がっていたから咥えてきた。口の中がジャリジャリするわ。
「逃げるよ!」
綾が射撃するが外れる。しかしこれは威嚇だったようで、虐殺蜂が後退する。積極的に攻撃してこないのは、こちらにいくらかの脅威は感じてくれているらしい。
ビアンカがドアを開ける。がすぐに閉めてしまう。
「何してる! 早く出ろ!」
「む、むし……むし、デス」
「むし?」
耳を澄ませば、ドアの外から何重もの羽音がしていた。
「お母さん、虫が苦手なんです……」
そう言って、アンジェリカがキッチンの戸棚を開く。
「これ……使えないですか?」
取り出したのは殺虫剤。大容量のお得用二本パックだ。効果があるかもしれない。
「へえ……いいね」
いい考えだ。オレが褒めると、アンジェリカが照れたように笑った。
「ここはもうダメそうだよ」
背後から虐殺蜂が距離を詰めてくる。
「しゃーなしだ」
ビニールを剥がしロックを抜いて、殺虫剤を一本、綾へ放る。
「行くぞ、覚悟を決めろ」
三人の女が頷く。
勢いよくドアを開け、屯していた蜂共へ殺虫剤を吹きかける。怯み飛び離れるが、殺すほどの効力は無い。蜂用ではなくG専用の殺虫剤だからだろうか? しかし無いよりはずっといい。
「ッ! 多いな!」
二〇体以上いる。しかもドンドン集まってきてないか? マズイぞこれは。
走って逃げるのは無理だ。何か別の移動手段が必要だ。
「センパイくん!?」
「しばらく何とかしろ!」
「おいコラっ!」
オレは三人を二階に放置して手すりから飛び降り、着地すると道路を隈なく探す。国道からここに来るまでいくつも転がっていたから、多分ここでも…………あった。
接近してくる虐殺蜂に殺虫剤を噴射して退け、それを拾い上げる。スイッチを押すと、軽やかな音を出して近くの駐車場の車が点灯する。このキーの車がアレか。
この近辺の住人が車で逃げようとして失敗したのだ。キーは血で濡れていた。
車に駆け寄り、ドアを開いてエンジンスイッチを押す。エンジンが掛かった。
「センパイくん!」
アンジェリカを抱えた綾がビアンカと共に走ってくる。虐殺蜂に追われているがスプレー缶を持っていない。使い切ったか。
「乗れ!」
後部座席のドアを開け、綾と入れ替わり殺虫剤を撒き散らす。中身が空になるまで押し続け、最後に缶を投げつけると、車に飛び込んだ。
「出せ!」
「マ、マッテっ!」
運転席から焦った声。そこに座っていたのはビアンカだった。助手席にアンジェリカ、同じ後部座席に綾がいた。綾と顔を見合わせる。
「ボク……免許持ってないよ」
誰が運転するのかまで考えていなかった。車の免許は当然オレも無い。子供と外国人も持っていないだろう。つまり全員、無免だ。
まごついている間に虐殺蜂が車にベタベタと貼り付いてくる。ヤバい、窓ガラスをぶち破られる。
「う、運転、したことありマスっ!」
「じゃあ早く出してくれっ!」
「ハ、ハイ!」
ガクンッと車が急発進し、壁にザリザリと擦れる。しかしおかげで虐殺蜂が飛び離れた。
「ア、アッ、アッ……」
車を発進させると、正面に虐殺蜂の群れが。ハンドルを握るビアンカが目に見えて動揺する。
「轢き殺せ」
オレの言葉にビアンカも意を決したようだ。すると助手席から笑い声が上がった。
「アハハッ! ひきころせー!」
「あ、アンジェっ!?」
きっちりシートベルトを締めたアンジェリカが手を叩き、キャッキャッと笑っていた。その様子に全員がギョッとしてる間に、車と衝突した虐殺蜂が肉片へと変わる。
「あー…………」
フロントガラスに色々なものがこびりついている。ワイパーを動かしても、緑色の体液がしつこく残っていた。
風が頬に当たる。綾が窓を開いていた。
「何を、」
その瞬間、世界が一変した。そして悟る。オレが何一つ理解していなかったことを。
一七年、この世界で生きてきた。クソみたいな人生だった。しかし、オレとオレの人生がクソであっても、世界もまたそうであると思うのは間違っていた。確かに世界は醜いかもしれない。だが逆に美しいもの、素晴らしいもの、尊いものも存在した。
美しいもの、素晴らしいもの、尊いもの――それは『尻』であった。
綾の尻。なぜか綾が窓から身を乗り出しているので、その尻が、すぐ目と鼻の先にあった。
スカート越しでも分かるその丸み。しっかりとした骨盤としなやかな筋肉、そして豊かな脂肪で形作られるその球形は、はち切れんばかりの生命力に溢れ、また神秘的ですらあった。
オレは無知であった。分かっていないということすら分かっていなかった。一七年も生きてきたというのに、何たる無知か。生まれてからずっとそばにいた『女』という存在に、これほどの美が秘められていたことを見過ごして生きてきた。思えば、オレはずっとそうだったかもしれない。自分に起こった出来事の恨み辛みで、大切なことを見過ごして来たのではないだろうか? 自分自身というちっぽけな、
「センパイくん!」
「ハッ!」
尻――いや綾の怒声に、オレは正気を取り戻す。
「ボケっとしてないで、早く写真を撮って!」
「え…………」
しゃ、写真を撮ってもよろしいのですか?
オレは神を拝み奉るように【黒のスマホ】を取り出し、感謝の祈りを捧げながらカメラのシャッターボタンを押した。
「おいコラっ! なんでボクのお尻を撮った!? 蜂だよ! 虐殺蜂を撮るのっ!!」
「あ、ああ」
綾が窓の外に身を乗り出しているのは、車で撥ねた虐殺蜂を撮っていたのだ。奴らの死骸を写真に収めれば、ゼノゾンで売ってポイントにすることができるのだった。
「早くしろ、バカっ!」
綾に激怒され状況を理解する。が、尻から顔を動かせない。
手探りで窓の開閉ボタンを押し、スマホだけを外へ向ける。
「撮ってる?」
「撮って、る」
連写しているが、撮れているかどうかは分からない。本気で眼球を尻から動かせなかった。
その後、虐殺蜂の密集地帯を抜けて綾からスマホをチェックされるが、ほとんど撮影できてないことをメチャクチャ怒られた。反省している。だが後悔はしていない。
『当真、あの写真を『宝物』フォルダに入れ、厳重にロックをかけておきますか?』
ゼノンが他の誰にも聞こえないように確認してくる。
「ゼノン、お前……」
実はいい奴なのか? オレは生まれて初めて心の底から「ありがとう」と礼を述べた。