第21話 幻想の迷宮
ココを誘導しながら、ゴットフリーもしばらくはスムーズに鏡の迷宮を進むことができた。
やっと、出口か……。しかし、本当にこれで終わりなのか。
ゴットフリーが息をついた、その時
「あっ、見ぃつけた」
振向いた自分の右側にココの姿が浮かびあがった。だが、手で触れてみると、そこには鏡の壁があった。
その時、
「……っ!」
突然、顔をこわばらせたココ。
「おい、どうかしたか。こちらは、気にせず前に進め。その先に多分出口がある」
ゴットフリーは、訝しげに眉をひそめた。
「い……や、進みたくない」
「何?」
「だって、いるじゃない! 前の鏡の向こうに……あ、あの大蛇が!」
にわかに鏡の正面に浮かび上がった白い大蛇。紅い舌を吐き出しながらこちらを見ている巨大な鎌首。
白い大蛇! ……そんなはずがあるものか。あれは、闇馬刀の闇の向こうに消えてしまったはずだろう。まさか、他にもいたのか。しかも、俺とゴキブリ娘側の迷宮に一匹ずつ?
何かが腑に落ちない。それに、床に浮かぶ迷宮の答は、疑いもなく正面の道を指している。ゴットフリーは、突然思い立ったように白い大蛇のいる方向へ歩を進め、そして、大声でココに言った。
「前へ進め! 何も気にするな」
「えっ……、でも、白蛇が……」
「これは魔鏡だ。足元をよく見ろ。白蛇の絵が描かれてる。光の屈折を利用して、それを鏡の中に浮かび上がらせているだけなんだ」
魔鏡? 何か仕掛けがあるってこと? 白蛇は絵? そう言われてみても、正面に鎌首をもたげている大蛇は生生しすぎて絵には思えない。足元を確認するなんて、怖くてとてもできやしない。
「駄目……怖くて、前になんか進めない」
「俺を信じろ! こんな“騙し”にのせられるな」
「だって、そっちの方が絵でも、私側のは本物かも知れないよ」
どうにかして足を前に踏み出そうとしてみるが、震えるばかりで、ココの体はいうことをきいてくれない。
ふうっと一つ息を吐くと、ゴットフリーは冷たい声音で言った。
「わかった。なら、お前とはここでお別れだ。せいぜい、ない知恵をしぼって、一人で“鏡の迷宮”を攻略するんだな」
「ちょっと、ちょっと待ってよ。一人なんて絶対無理!」
ココはあせって、ゴットフリーの名を繰り返し呼んだ。だが、返事はなく、その姿は鏡の向こうに消えてしまった。
一人ぽつんと鏡の迷宮に取り残されてしまったココ。正面には禍々しく口角を開いた大蛇がとぐろを巻いている。急に迷宮の通路が何十倍にも長く広く思えてきて、目にじわりと涙があふれてきた。
白蛇の二つの瞳が紅に輝き、正面で立ちすくむ少女を舐めるように見下ろしている。その時、鼻につんと流れてきた甘い香り。
花の香り……?
次の瞬間、ココは背中にぞくりと悪寒を感じ、後ろを振り返った。
そこにいるのは、
鏡の中のもう一人の私。
不安な気持ちがぬぐいきれず、ココは恐る恐る回りを見渡した。
鏡の迷宮に無数に映る自分の姿は、どれもこれも一人ぼっちの迷宮に戸惑い、怯えた表情をしていた。ところが、
ココが視線をもう一度、戻した後ろの鏡。その中の少女がくすりと笑ったではないか。
「……えっ?」
私、笑ってなんかいない……。
思わず両の手を頬にあてがい、鏡に映る自分を見た時、ココは、ぎょっと視線をその指先に向けた。
先ほど傷つけた指先から、どくどくと赤い血が流れ出している。
「血が……」
何で? 全然、痛くもないのに……。呼吸をするほどに、あたりに漂う花の芳香が胸の中に入り込み、ココはおかしな気分になってきた。
焦って流れる血をぬぐおうとする。すると、それはココの手のひらをすり抜け、ひらりと紅の花びらに姿を変えて空に飛び散った。
「な、何? これ、何なのっ」
それに継いで、大量の紅の花びらが一斉にココの上に降り注いできた。
紅の花の乱舞の中で鏡の中の少女がまた笑う。その瞳が紅に輝いた時、耐え切れぬ恐怖がココの背中を通り過ぎた。
「助けて、ゴットフリー!」
ココはぺたりと床に座り込み、絶叫のような悲鳴をあげた。
* *
「あの声は?」
鏡の迷宮の中に木霊する少女の声。
ゴキブリ娘……?
一瞬、ゴットフリーは声の方向に足を向けそうになる。だが、
あいつは、自分で選んであの場所に残ったんだ。俺の知ったことじゃない。
ぷいと、前に向き直り正面の鏡に目を向けた時、鼻先に感じたかすかな甘い香りに違和感を持ち、鏡の迷宮をぐるりと見渡してみる。合わせ鏡の迷宮の中には、あいも変わらず自分自身の姿が幾重にも映し出されている。
ゴットフリーは、この景色にもいい加減に飽きてきたがと、右の胸に手をあてた。実はココと別れる少し前から、再び、そこにある傷痕が疼き出していたのだ。
夜叉王 - 伐折羅 - につけられた傷
一歩進むごとに、傷の痛みが強くなる。
それは、十中八九、凶事が起こる前の前触れと思って間違いはなかった。
次は何が来る?
ぴしりと鏡がきしむ音。
次の瞬間、ゴットフリーは襟元に銀の閃光が走り抜けてゆくような気がした。
「……!」
思わず床に膝をつき、酷い痛みに顔を歪めながら、手前の鏡に映しだされた“敵”の姿を睨めつける。
“やはり、敵は自分自身か”
鏡の中のゴットフリーが不敵に笑う。その手に握られたレイピアから、赤い血糊をしたたらせて。
「傑作な話だな。自分に自分の首を落とされるなんて」
首から流れ出した血を左手で押さえながら、ゴットフリーは座ったままで後ろの鏡に背をもたれ、深く息をついた。彼の腕をつたい、銀の床を紅に染めてゆく鮮血からは、芳しい花の香りが漂ってくる。
じんじんと胸の傷が痛みを増して疼き出した時、ゴットフリーは灰色の瞳を大きく見開き、腰に携えていたレイピアに手をやった。
鏡の中の自分が、手にした剣の切っ先を振り下ろしてくる。
「消えろ! こんな茶番に俺が乗せられると思っているのか!」
ゴットフリーが引き抜いたレイピアを鏡に投げつけた瞬間、激しい金属音が辺りに反響し、鏡の部屋が紅色に輝いた。
一瞬の閃光の後に、消えうせた後に残った景色は、今までと変わらない合わせ鏡の銀色の迷宮。
ただ、前と違っているのは、床には壊された鏡の残骸が散らばり、その中にゴットフリーが投げつけたレイピアが横たわっていることだった。
「笑わしてくれる。あんな物は、この部屋に漂う甘い香りに誘発された、ただの妄想にすぎない」
伐折羅……やはり、お前につけられた傷が俺に不利になるはずがない。
ゴットフリーは、右胸に残る傷跡に手をやり、ほっと息を吐き出した。
この傷が痛み続けていたおかげで、俺は“幻惑の迷宮”に迷い込まなくてすんだのだから。
その傷跡には、もう痛みはなかった。そして、先ほど血をしたたらせていた首には傷もなく、血の色は一滴残らず何処かに消えうせてしまっていた。
* *
「嫌だ、怖い! 誰か助けて!」
激しく乱舞する紅の花の中で、ココは叫び続けていた。どこかに逃れようと、立ち上がろうとしても腰が抜けたように力が入らない。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙をぬぐっても、またすぐに次の涙が溢れ出す。
くすくすくす
鏡の中の少女が笑う声が聞こえる。
何よっ、何で笑ってんのよ!
それとも、私の頭がどうかしちゃったの。
両手で耳を塞ぎ、鏡の中の映像が見えないように硬く瞼を閉じた。
ゴットフリー、どうして助けに来てくれないの。
小さな女の子が死ぬほど、怖い目にあってるっていうのに……普通ならかっこ良く、姿を現すのが英雄の定番じゃないのと、ココはちょっと腹を立てていた。だが、悪いのは、彼ではなく、その指示に従わなかった自分の方なのだ。
“俺を信じろ!”
その言葉が心の奥底をきゅっと強く締めつけた。そう、ここで頼れるのはゴットフリーだけだったのに……。
閉じた瞼を開いて、きりと真正面を睨めつけた。鏡の迷宮の奥では、おぞましい姿の白蛇が紅の瞳を輝かせ、ココの方を見つめている。
後ろの“笑う少女”は無視することに決めた。
怖くて怖くてたまらない。けれども、意を決したように、ココは前に一歩を踏み出した。
「ゴットフリー! 私を置いてゆかないで!」
そこは、元の鏡の部屋。
白蛇の姿も少女の姿も、大量にあった紅の花びらさえも、すべてが消えうせていた。




