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 そうしてまた日曜を迎え、僕は彼女に会いに来た。

 彼女はいつも通り挨拶をして車の助手席に乗ったが、全体的に覇気が無く、表情も冴えなかった。

(学校かアルバイト先で何かあったのかな?)

 何となく話しかけにくく、沈黙がちに車を走らせていると、ヘッドレストに頭を置いて前を向いていた彼女は、やがてドア側にもたれ、ぐったりと目を閉じてしまったのだ。


「ど……どうしたの⁈」

 僕は車を停めて、彼女を覗き込んだ。

「ごめん……やっぱり家まで戻って」

 こめかみを押さえながら苦しそうに一言だけそう言って、青白い顔でまた目を閉じた彼女に、僕は気が気じゃなかった。


 僕に凭れながら帰宅した彼女は、頭痛薬を飲んでベッドに横になった。

「頭が痛いの? 医者を呼ぼうか」

 不安気に聞くと、

「大丈夫、寝不足で疲れてるだけだと思う」

と、彼女はベッドから僕を気遣うように少し首を振った。

「ごめんなさい、今日はこのまま休ませて」

「もちろんさ」

 僕が頷くと、彼女は安堵したように目を閉じた。


 しばらく僕はベッド脇に控えていたが、彼女の息遣いが規則的な寝息に変わると、その頬にそっと手を伸ばした。

 薄化粧の自然な肌は、触れると温かく、柔らかかった。


 そのまま僕は唇に軽くキスをした。初めてした時以来だった。強まって行く気持ちと反比例するように、僕は彼女に触れられなくなってしまっていた。


 その甘酸っぱい思いとともに、しばらくその寝顔を見つめた。


 時刻はまだ午後一時を回ったところだった。帰っても何の楽しみもない僕は、足元にあった彼女の本を一冊手に取った。

『ジャーナリズム論』

 新書サイズの本の表紙にそうあった。

「……」


 僕は部屋の中を見回した。彼女の部屋に入るのは、これが初めてだった。

 1DKの間取りの奥、この六畳強の自室に装飾物はほとんどなく、ファブリックも白やベージュを基調とした至極シンプルなものだった。家具もベッドとローテーブルとテレビ台、と最小限だ。彼女くらいの若い女性なら、もう少し何かしらの無駄なものがあってもよさそうなのに。


 それでいて、無視できないほど特徴的なのは、この部屋にあるおびただしい数の本だった。部屋の広さにしては大きな面積を占める本棚には、雑誌や小説、実用書などがびっしりと詰まっているのに、入りきらない本が床やテレビ台の上に無造作に積まれている。


 その意外な光景に僕はひとしきり無言で感嘆した後、ふと思いついて、ひとつひとつゆっくりとそこに溢れる本のタイトルを見て行った。時にはパラパラとめくって、元通り戻した。


 僕はこの部屋にどんな本があるのか――いや、ないのかを調べた。ざっとだが一通り見終わって、探していたジャンルの本は一冊も見つけられないことが分かった。

 そんな事が分かったところで、僕達のこの関係には何の意味もないというのに、僕は、少しだけ落胆した。



 夕方、彼女は目を覚ました。

 僕は部屋の本を借りて読んでいたところだった。

「どう、具合」

「うん、だいぶ良くなった」

と、彼女は血色の戻った顔で微笑んだ。

「帰らなかったの?」

「帰ってもする事もないしさ」

 僕は読んでいた本を閉じて、本棚に戻した。


 彼女は身体を起こしてベッドから下りると、キッチンから水を持って来て飲んだ。それから僕にも、

「何か飲む?」

と気遣いを見せたが、僕は首を振った。

「病気なんだから、寝てなよ」

「病気じゃないよ、疲れ。でも、寝たから回復したよ」


 気丈に振る舞う彼女に、僕はとうとう言った。先日から気にかかっていた、彼女の生活のことを。

「ねえ、そんなにまでしてお金が必要なら、……僕に、払わせてよ」


「――急に、何?」

 彼女は眉をひそめて聞き返した。そんな反応を予想出来ていた僕は、

「労働の対価でなきゃならないのなら、例えば、こうして僕と会う時間に対して払うっていうのはどうかな? だって君といると楽しいし、僕にとっては十分価値があるんだ」

と、提案した。そう悪い案じゃないように自分では思った。


 彼女はじっと神妙な様子で僕を見つめて、黙っていた。


 僕は彼女が頷いてくれると思い込んでじっと待っていたのだが、やがて彼女は、幻滅したような深い溜息をつくと、言った。

「なら、時給一万円で契約する? ――何でも言うこと聞くよ。それが仕事なら」


 僕は沈黙した。

 思ってもみない発想だった。確かにそうなれば、彼女なら喜んで言いなりになるだろう。

 ――ただし、労働として。


「そんな――つもりじゃ」

 それが虚しいことだと僕が気づくと同時に、彼女は悲しげに言った。

「でも、そういうことだよ」


 それから、諭すように穏やかな口調で続けた。

「悪気がないってもう分かってるけど、あまり簡単に考えないで。お金って、大切だよ。人は皆、自分の責任で決断し、労働して相応の対価を得て、相応の消費をする。その価値観を見失ったら、私たちに待ってるのは破綻だけ。――あなたが今無意識に手にしているお金も、そういうたくさんの人の誇りある決断で成り立ってるんだよ」


 彼女の言葉は、いつも胸に響いた。僕は無力な自分が悔しくて、目を伏せた。

「――そうだね。軽々しいこと言ったよ」

 そんな僕に、彼女は優しく微笑んだ。

「驚かせてゴメンね。これからは、もう少しちゃんと自己管理するから」




 高宮エステート本社ビル十階の会議室では、首都近郊都市・再開発計画の経過報告が行われていた。

 会議室にグルリと置かれた机の上手に座って、僕はプロジェクターで映し出された画面を眺めていた。

 神奈川県E市の主要駅ビルの大掛かりな再開発は順調で、若者中心に人気のファッションデパートと映画館を誘致、グルメエリアもやや贅沢寄りの店舗中心に構成されていた。都市部になかなか足を運べない若い子育て世代を主なターゲットに、この企画部が総力を注いで形にして来たプロジェクトだった。


 年上だが部下に当たるプロジェクトリーダーの吉田が、スクリーン前で説明を述べた。

「この秋から、少しずつ新規店舗がオープンとなっていますが、評判は上々で、先立って建設中の分譲マンションもほぼ完売となっております。この流れで、現在保有している土地にも同様のマンションを計画中です」

 スクリーンに、デザイン性の高いモデルルームが映された。間取りや予定販売価格の計画は、ハイセンス志向の若い世代向けだ。

 僕は資料をめくりながら聞いていた。ここにいる数十人の社員達が数年前から固めて来た計画は、確かにテーマ最優先でぶれる事無く進行している。その責任者たる僕もその通り、『稼げる』ための不動産をこれまで目指して来たのだが……。


 駅周辺の地図を見ると、高宮系のマンションの他にも幾つも住居となる建物がある。

「この辺りの住居は、駅の再開発前からあるものですね?」

 僕は吉田に聞いた。

「あ、はい。……おそらく」

 彼は小声で不確定な返事を濁した。


「ターゲットに忠実なのはいいのですが、前から住んでいる人にとってはどうだろうか。資料には、E市の人口の内四割が六十歳以上とある。便利な駅周辺にその世代が多く住んでいる可能性は十分あると思います。――現地の視察はしてますか?」

「は、はい、何度か……」

と、彼は思い返すように頭を巡らせた。

「確かに、リタイア世代や高齢者も見かけました」

「ならば、その世代にも配慮出来ているのか確認して下さい。的を絞りすぎて、排他的になるのでは本末転倒です。駅ビルはまだ誘致の決まってないテナントもあるし、次のマンション計画もこれからだ。僕も今度また、現地に行ってみることにします」

「はい、わかりました」

 そして、経過報告会議は終了した。



 その晩、夕食の時に姉の桜がその件を持ち出した。

「会議の報告聞いたわよ。今更計画に水を差すような発言するなんてどういうつもり? 大体光は甘過ぎるわ。現住民にも配慮するなんて受動的なやり方はコスト的にも非効率だし、開発のビジョンがぼやけてしまう。美しいモデルをこちらで示して、外からの人口を集めないと成功にはつなげられないわよ」

取締役を務める彼女は、姉であると同時に上司だった。しかし、僕はそれを受け流した。


「住民の満足を得ることは成功の大前提です。お姉さんのような力技では、今いる住民が逃げ出してしまいますよ」

「屈することは高宮のブランド力を下げるのと同じことよ」

「このプロジェクトはマンションひとつを売るのとは訳が違います。屈するという言葉が出る時点で、都市開発の意味を取り違えていると思います」

「何ですって? 私に意見する気?」

 姉は怒って頬を紅潮させた。


 そこへ、

「まあいい、二人とも」

と、今まで黙って聞いていた父が割って入った。高宮グループ統括者の登場に、僕も姉も黙った。

「光。この案件はお前が責任者だ。好きにやれ」

「ありがとうございます」

 僕は素直に礼を言った。不満気に口を噤んだ姉を威圧的な目で一瞥して、父は僕に意味ありげに頷いた。


 そして、

「この件の成功は、お前にとって大きな意義を持つことになるだろう」

と、予言めいたことを述べた。

「……? はい」

 僕は意味がよくわからずに、相槌程度、返事をした。



 彼のこの言葉の意味を僕が身をもって知るのは、あと数ヶ月先のことだった。

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