5
本編「不器用lovers」の、光視点で描いた結衣との出会いから別れまでの物語。
秋晴れの心地良い陽気は、ここのところ平日もずっと続いていた。
赤坂にある高宮エステート本社の七階で、僕はある土地に建設するマンションの計画書に目を通していた。
僕の仕事は、建設する施設の企画とデザインが主だった。デザインというのは、絵を描くのではなく、目的に対する完成イメージを具体化することだ。例えば同じ都内のマンションでも、分譲なのか賃貸なのか。部屋数が欲しいのか、一部屋の広さが欲しいのか、 多岐に渡るニーズを土地に合わせて厳選する。 ――買い手がつかなければ、不動産などただの金のかかる償却材だ。確実に売れる不動産を提供して行く事が、会社の利益に繋がる。
ニーズを知るには土地柄を調べることは欠かせない。
産業、交通、人口……。
そんなことはいつも部下にやらせて、僕はまとまった資料で全てを決断する。それが企画部の全てを管理する責任者として、最も効率のいいやり方だ。
――歩いてみないと分からないよね――
急に彼女の言葉を思い出した。
(……彼女は僕の仕事の事など、知らないはずだ)
我に返って首を振り、見終わった計画書を閉じた。
それから事務社員を呼んで、
「これ、三十部カラーコピーしてくれる? 午後の会議で使うから」
と、頼んだ。
「はい、わかりました」
彼女は嬉しそうに微笑むと、その計画書を持ってすぐにコピールームに消えた。
「主任。大丈夫ですか、彼女。以前に配布資料のコピーミスをして、会議を遅らせた事がありますよ」
秘書の入江香子が僕に近づいて小声で言った。既に他の案件のデータを見ていた僕は、
「それなら、出来上がったコピー、君が確認しておいてくれないか」
と、彼女を一瞥してそう言った。
彼女は僕に一礼すると、自分のデスクに戻った。
午後の会議は問題なく終了し、僕はデスクに戻って息をついた。回転椅子を背後に回すと、澄んだ青空と低く差してくる陽射しが眩しかった。
(今頃、四限目の講義を終えて学校を出るところかな……)
ぼんやりと考えた。日曜が近づいている事が楽しみで、会議の疲れを忘れた。
「会議、お疲れ様でした」
入江が、デスクにコーヒーを置いた。
「ああ……、ありがとう」
と、僕は振り向いて、彼女を何となく眺めた。
入江は僕より数歳年上で、よく気が付く落ち着いた人柄だった。いつも華美でないスーツを着て、脚光を浴びないような仕事を進んで引き受けるタイプだ。
それからその奥の席にいる事務社員達に目をやった。社内勤務にしては過剰気味に飾り立てた服装に、明るいが若干の不真面目さを拭いきれない態度。
「……」
僕は視線を入江に戻した。
「……何か?」
それに気づいて、席へ戻ろうとしていた彼女は聞き返した。
「ちょっと聞くけど、休みの日ってどう過ごしてる?」
「えっ?」
仕事以外の質問で驚いたのか、やや狼狽して、
「そうですね……、映画鑑賞とか……」
と、考えながら答えた。
「ふうん。例えば、何ていう映画が観たいと思う?」
「は、はい、今でしたら――」
入江はいつになく明るい顔で、話題になっているという恋愛映画を挙げた。そんなに魅力的な話なのかと思い、
「なるほど、参考にするよ、ありがとう」
と、そのタイトルを頭に入れ、礼を言って話を終えた。
「あ、いえ……」
入江は急に静かになって返事をすると、うつむきがちにデスクに戻って行った。
日曜、早速僕は映画鑑賞に彼女を誘った。
「いいよ」
と、二つ返事で頷いた彼女は、劇場の入り口でその恋愛映画のポスターを見て、顔を曇らせた。
「これ?」
「……うん。――面白いらしいよ」
僕は控えめに説明した。正直、喜ばれる事しか想定していなかったから、彼女の反応に落胆してしまった。
「……恋愛ものって趣味じゃないけど、観たいなら、付き合うよ」
その言葉通り、彼女は何の感情の起伏も見せずにそれを観ていた。僕には普通に感動的な物語に感じられたし、話題作と呼ばれるのもそれなりに納得出来たのだが……。
「やっぱり、面白くなかった?」
僕が聞くと、彼女は困ったように弱く笑った。
「気にしなくていいよ、私のことは」
僕は当てが外れて、残念でならなかった。入江の情報を恨みたいような気もしたが、冷静に思い返しても、劇場は若い女性やカップルで満席だった。クライマックスではすすり泣きの声があちこちから聞こえたし、選択としては間違ってなかったはずだった。
やはり彼女の趣味が違っていた事だけが、この残念な結末の原因なのだろう……。
と、冴えない気持ちで劇場を出ると、
「あ、結衣。――」
目の前を通り過ぎた男が、彼女を認めて立ち止まった。
「片山さん。今日は、早番ですか」
「ああ、うん」
と、その男は怪訝な顔で彼女と、その隣の僕を見た。僕はその目つきに、一瞬で不快感を覚えた。
「お前、日曜はいつも休みだっけ」
「ええ、そうです」
彼のやけに馴れ馴れしい口調は、僕をとても苛立たせたが、わざわざ話に入ることもし難くて僕は立ち尽くしていた。
すると、彼女がいきなり僕の左腕に抱きついて身体を寄せた。
「日曜は毎週、彼とデートなんです」
僕が驚きに目を見張って彼女を見ると、彼女は下から悪戯っぽく笑い、その男に見せつけるように僕の肩に頬を寄せた。
「あ、そうなんだ……。じゃ、俺行くわ」
男は所在なさそうな笑みを返すと、去って行った。
それを見送ると、彼女はスッと僕から離れた。
「使っちゃってごめんね」
冷静にそんなことを言われても、いつもの二割は早くなってしまった鼓動を、僕はそう簡単には収められなかった。
「さっきの彼、アルバイト先の人?」
暗くなって様々な照明の灯った街並みを歩きながら、僕は聞いた。
「うん」
「言い寄られてたの?」
彼女の行動は往々にして突然で、しばしば僕を動揺させる。それが何となく癪で、いつもはポーカーフェイスを崩さないのだが、今日は聞かずにはいられなかった。
彼女は一度僕に視線を向けて、また前を向いた。
「ううん、そうは言われてないけど。そうなったら面倒だなって」
「面倒……」
僕が小さく繰り返すと、彼女は更に説明を加えた。
「働きにくくなるのが嫌なだけ。別に必要なかったかも知れないけど、ちょうど隣にあなたがいたから」
それを聞いて、僕が嫉妬とはまた別の手痛い傷を負ったことは、言うまでもなかった。
翌週、会社の給湯室で、事務の女子社員が数人で話しているのを、たまたま通りかかった僕は耳にした。
「この前の入江さん、ちょっと笑えたね」
「あー、完全に勘違いしてたよね、主任に誘われてるって」
僕は、先週入江に映画の話を聞いたことを思い出した。そんな風に勘違いさせていたとは気づきもしなかった。映画を喜んでもらえず落胆した自分に似ているような気がして、
(悪いことをしたかな)
と思っていると、
「主任が誘うわけないよねー、婚約者いるのに」
話が入江から僕の方に逸れた。
「ていうか、それってカタチだけでしょ? 相手はすごい箱入り娘だって噂だよ」
「そうなんだぁ、じゃあ玉の輿、狙えば狙えるってこと?」
「バカ、ムリに決まってるよ。例え愛されたって愛人止まりだよ。結婚相手じゃ銀行頭取の娘に勝てるわけないでしょ」
「それに、あの外見だよ。愛人だって既に何人もいるんじゃない? 超レベル高いのがさ」
「だよねぇ。やっぱり別世界の人かぁ」
「入江さんも、いい加減諦めた方がいいのにねー」
キャハハ、と軽い笑い声が耳に響いた。
――そう、もちろん忘れてはいない。
デスクに引き返しながら、頭の中で呟いた。
『この方がお前の婚約者だ。今秋、披露パーティを設ける予定だ』
春、父は僕に城之内頭取の令嬢を相手に決めたと告げた。
『――わかりました』
互いのビジネスの利益のために、親同士で勝手に決めた婚約。あの時、その決定に抵抗するつもりなど、微塵もなかった。最初から、僕の人生に選択肢など一つもないのだから――。
と、デスクに着いて椅子に深く腰掛けると、卓上型のカレンダーがこちらを向いていた。
もうすぐ終わる十一月。十月の出会いからまだたった二ヶ月程なのに、毎週一日彼女に会えるだけで、僕には全てが初めて色付いたような日々だった。
――愛人――
彼女をそんな言葉で呼びたくはなかった。だって僕が必要としているのは、婚約者・城之内雪菜ではなく、彼女の方なのだ。
もしも金や権力で手に入るものなら――、僕は迷わず全てを投じて、彼女を手に入れただろう。
お読みいただき、ありがとうございました。