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 高速は依然渋滞で、時計は一時に近づいて来ていた。

 予定ではもう少し先を目指していたが、僕は高速を降りて自由が丘付近でランチを取ることに決めた。


「もしもし、篠田。食事の手配を頼む」

 信号待ちで電話を掛けた。場所と状況を簡潔に伝え、手短に切ろうとして、ふと、

「急で、すまないね」

と付け加えた。


 篠田は一瞬間を置いて、

「いいえ、お安い御用でございます」

と、穏やかに言った。


 彼女はその間、ずっと外を向いていた。



 自由が丘駅付近のパーキングに車を入れ、篠田の手配したレストランに入店すると、眺めのいい窓際の席に通された。すぐに料理が来て、

「食べなよ。お腹すいたろ?」

と、僕が言うと、

「これってコース料理? いつも昼間からこんな大層なもの食べてるの」

 彼女は感嘆とも非難ともつかない口調で言った。

「大層? カジュアルイタリアンだよ。嫌いなら、下げさせるけど」

 僕が首を傾げながらそう言うと、不機嫌そうな視線を一度僕に投げ、

「そんなこと言ってない。――いただきます」

と手を合わせた。僕にはその妙な律儀さが面白かった。



「――この前の続きだけど」

 食事が進むと、僕は話し掛けた。

「君はアルバイトばかりしてるんだね」

「まあね」

 ショートパスタを口に運びながら、何でもないことのように彼女は答えた。

「今時、バイトしない学生なんていないわ」

「どうして」

「お金が要るからじゃない?」

 彼女は質問の答えを、故意的に一般論にすり替えているようだった。


「でも君は、僕からはもらわないって」

 僕は納得出来ずに、この前からの疑問を口にした。すると彼女はフォークを置いてナプキンで口元を拭き、一息ついてから言った。

「当たり前でしょ。 労働の対価以外のお金は、 災いの元って決まってるの。――下々の世界ではね」


 僕に対する完全な否定と軽蔑を込めた言葉に、ずっと寛容だった僕もさすがに不快になった。

「この前もそうだけど……、そうやって不要に攻撃するのは、単なるひがみじゃないのか。大体君は僕の何を知っていると言うんだ」


 だが彼女は動じずに答えた。

「知ってるよ。生まれた時からセレブリティなお育ちの高宮光さんでしょ。この前のパーティーで、その通りだって分かった」

「……」


 確かに、その通りだ。しかし、生まれる場所なんて、選べる人間がどこにいる?


 僕の胸中に虚しさが溢れた。

「それは、自由な君達から見た都合のいい幻想だ。その金や権力と引き換えに、僕が最初から与えられもしなかったものの存在を、君達は認めようともしない」


 僕は自分でも意識しないうちに、感情を口に出していた。もうずっと昔から胸の奥底に秘めていた、やり場のない思いを――ほとんど知りもしない彼女に。



 全てを吐き出すように言った後、僕は続く言葉を失って目を伏せた。

 やがて、カタン、という物音に気付いて前を見ると、彼女が席を立ち上がった音だった。

(……帰るのかな)

と、ぼんやり思っていると、

「出よう」

 彼女は僕の手を取った。


 操られるように立ち上がった僕に、彼女は初めて微笑みかけた。

 その笑顔は自信に溢れていて、こう言ってはなんだけど、とても頼もしかった。



 僕が会計を済ませていると、彼女は担当だったスタッフを見つけて声を掛けた。

「最後までいただかなくてすみません。とても美味しかったです。ごちそうさまでした」

 彼は嬉しそうに微笑んでお辞儀を返した。


(そう言えばあの日も、彼女はいちいち店員に礼を言っていたっけ)

 僕は思い出しながらそれを眺めた。


 それから店を出ると、彼女は僕の隣に立って、

「ごちそうさま」

と笑顔を見せた。


 たったそれだけのことが、僕をとても温かい気持ちにさせた。

 なのに僕は、あの店員達のように笑顔を返すことが出来ずに、彼女をちらりと見て、ただ頷いた。




 レストランを出ると、店の前の小径から人の多い通りに移動した。

「少し歩こうよ」

と彼女は先を進んだ。

 そこにはファッションや雑貨のショップが賑やかに並び、若者やカップルなどたくさんの人々が楽し気に往来していた。僕達も同様に、目的もなく店先を眺めて歩いた。

 途中でジェラートを買ってベンチで休み、また当てもなく店舗を流し見した。

「これかわいい」

 時々彼女は立ち止まって楽し気に商品を手に取った。

「プレゼントするよ」

と言うと、

「ううん、いい」

 迷うまでもなく首を振り、すぐに棚に戻した。



 夕刻に近づいて、飲食店の並んだ通りを歩いていると中華風のいい匂いが漂って来て、僕は思わず、

「美味しそうな匂いがするね」

と彼女に声を掛けた。

「あそこのラーメン屋だよ。有名店だから、ほら、すごい行列」

 示された方を見ると、間口が四間程の狭い店に、彼女の言う通りの長い行列が出来ていた。


「ラーメン……。食べたことないや」

 話には聞くけれど、これまで食べる機会がなかった。きっとまた馬鹿にされるんだろう、と思って彼女を見ると、

「じゃ、並ぼう」

と、僕の手を引いた。


 中秋の夕刻はやや肌寒く、行列にいるのも決して楽ではなかった。

 待っている間、僕達はまた話をした。

「ねえ、ホールスタッフの仕事、減給になっちゃったんだって? ……悪かったね」

 そう僕が言うと、彼女は意地悪く笑った。

「――どうしたの、あなたは私から仕事を奪いたかったんじゃなかったっけ?」

「そんなの、本気じゃないさ」

 僕が真面目に反論すると、彼女はその表情を一転させて、

「冗談だよ。――気にしてないよ。失敗は失敗。会社は私を正当に評価しただけ。またスキル上げて昇格狙うから」

と、屈託なく笑った。



 三十分程で店内に入り、彼女は券売機で食券を二枚買った。

「え、前払い? 僕が払うよ」

 そのシステムに気付いてそう言うと、

「お昼ごちそうになったから」

と彼女は取り合わなかった。


 油が染み込んだようなやけに艶のある木のカウンターに座ると、ラーメンはすぐに目の前に置かれた。僕は不思議というより不気味に近い気分で、一口それを口にした。

「どう?」

と彼女は覗き込んだ。


「うん……。初めての味だね」

 それは決してまずくはないが、随分と主張の強い味だった。

 それを見て彼女は可笑しそうに笑い、

「この味がまた食べたくなるようなら、あなたも見込みあるかもね」

と、悪戯っぽい目を向けた。

「どういう意味?」

 何となく馬鹿にされたような気がして聞き返すと、彼女は「さあね」と楽しげに言った。


 つい数時間前までは、刃物のように攻撃的な瞳しか見せなかった彼女は、いつのまにか色々な表情で、気安く僕に話し掛けた。僕も気が付くと余計なことは何も考えずに、この時間を楽しんでいた。


 食べ終わって店を出ると、外は暗くなっていた。当たり前のように駐車場まで二人で戻った。

 当然乗るものと思っていた彼女は車の前で、

「じゃ、私帰るね」

と言った。


 僕はとても驚いて、

「なら、送るよ」と言ったが、

「いいよ、反対方面だし。ありがとう、楽しかったよ」

 彼女はあっさりとそう言って、身を翻した。



 一瞬僕は呆然として、その背中を見送りかけた。

 二週間前の、あの日のように。


「ーー待って!」

 僕は急いで呼び止めた。

 彼女が振り返ると、走って目の前まで行って、向かい合った。

「また――会いたい。連絡先教えて」


 脳よりも先に、身体が動いた。うまい理由などなくたって、それが必要だと僕の心が主張した。

「……」

 彼女は少し警戒心の混じった目つきで僕を見返したが、やがて、

「ヘンな人」

と、呆れたように、だが満更でもないように微笑んだ。




 その二週間後の日曜、僕は再び彼女を迎えにY大学の正門前に来た。

 暦は十一月半ばになって、だいぶ冬の気配が色濃くなって来ていた。


 彼女はマスタード色のカジュアルなカットソーの上に、フード付きのボーイッシュなブルゾン、ボトムは細めのワークパンツ――という、どちらかと言うと中性的なファッションだった。

 僕はというと、普段向きではあるが黒地にシルバーのピンストライプが見え隠れするスーツスタイルだった。


 先日同様、お互いに普段のスタイルで現れたというだけの事だが、

「――対照的ね」

 顔を合わせて、第一声で彼女は笑った。

「まあ、確かに」

 僕も止むを得ず同意すると、

「別に気にしないけどね」

と、軽く言って彼女は助手席に乗った。


「今日、どこに行く?」

 僕が聞くと、

「悪いんだけど、渋谷に行きたいんだ」

とのことだった。



 渋谷で、彼女は大型書店に行き、注文していたらしい本を数冊受け取った。ハードカバーの、固そうなタイトルの付いた分厚い本が目に付いて、

「それ、何? 講義の参考書?」

と聞いてみると、

「ううん。読みたかった本だよ」

 彼女は気楽に答えた。


 後で知ったことだが、彼女は大変な読書家で、部屋の中はおよそ若い女性らしからぬおびただしい量の本に支配されていた。

 だから、曲がりなりにもデートらしい約束の日に、特におしゃれもせず、いきなり本屋に付き合わせたのも、らしいと言えばらしい行動だったのだ。



 その後は、先日と同じように街を散策した。彼女はやはり余計なものは一切欲しがらなかった。

「ねえ、別に遠慮しなくていいよ。僕が呼び出したんだし……」

と言ってみると、

「なんで? 欲しくないものを、買う必要ないでしょ」

「でも、さっきだって『これ可愛い』って手に取ってたじゃないか」

「可愛いから可愛いって言っただけだよ。そんなのいちいち買ってたら、大変なことになっちゃうよ」

「大変?」

「そうだよ。金銭感覚も、部屋の中もね」


 僕は考えてみた。無駄な物を買っているつもりはないが、確かに『何かを買う』という行動について深く考えたことはなかった。

「何でもそうだよ。食べ物でも。たくさん買ってたくさん食べたら、不健康になるし。人には、ちょうどいい暮らしっていうものがあるの」


 そんな風に話しながら駅構内を歩いていると、無表情でティッシュをひたすら配っている人や、何もせずにただ座り込んでいる若者、本物の浮浪者たちがあちこちで見られた。いつも車で通り過ぎる街の現実の姿を、初めて認識した気がした。


「お兄さん、ちょっと」

 ぼうっとそういった景色を眺めながら歩いていると、中性的なハスキーボイスが僕の耳に入った。

(僕のことかな?)

と、振り返ると、僕よりも長身のやたらにごつごつした女性が笑いかけていた。

「ちょっといいかしら?」

「……はい?」


と、捕まりかけると、

「ごめんなさい、先を急ぐので」

と横にいた彼女が割って入り、僕は手を引かれてバタバタとその場を後にした。


「今の……何?」

 僕が聞くと、彼女は呆れたように肩を竦めた。

「何って、知らないよ。そもそも知らない人について行っちゃいけないって、小さい頃教わらなかった?」

 僕はポカンとして、

「あ、うん、それもそうだね」

と頷いた。


 すると彼女は吹き出して、おかしくてたまらない、というようにしばらく声を上げて笑った。

 僕は何だか恥ずかしく、でも少し嬉しいような気持ちでそれを見ていた。


 やがて笑いが収まると、

「世間知らずね。あなたみたいな人に、こんな所絶対一人で歩かせちゃダメだね」

と、彼女は涙を拭いた。



 夕方になって、僕は彼女の帰宅時間が気になり出した。

 夕日の色が薄闇に負け始めて、ビルや店先に明かりが灯った。

「お願いしまーす」

 道際で若い女性がチラシを配っていた。何の気なしに僕が受け取ったチラシを彼女は覗き込んで、

「焼肉食べ放題だって」

と、僕を見上げた。

「ご飯ここにしようよ」

 僕は全く異論はなかったが、

「食べ過ぎは不健康なんじゃなかったの?」

と、一言意見した。

「それはそれ、これはこれ」

 彼女は僕の言葉を明るく一蹴して、

「行こう。混んじゃう前に」

と、軽い足取りで前に進んだ。



 食べ終わって駐車場に戻ると、夜の九時だった。

「じゃ、気を付けてね」

 この前同様車の前で、彼女は別れの言葉を口にした。

「今日は、送るよ」

 名残惜しさに、僕は言った。明日が月曜でも、急いで帰宅するにはまだ早い時刻だ。


 彼女は少し迷っていたが、

「じゃあ……そう言ってくれるなら」

と、僕に従って助手席に収まった。


 聞けば彼女の自宅は、大学よりもずっと都内寄りだった。国道246号線を下って、川崎方面に向かった。

「往復させちゃってごめんね」

 それでも彼女は申し訳なさそうに言った。

「普通、女の子は家まで送ってもらうものだろ」

 過去の経験からも周囲の常識的にも、僕はそう思っていた。

「その責任がある相手には、そうかもね」

 彼女はクールな目つきで、僕を肯定するように微笑んだ。

 だが、それが全てではないよ、とその目は同時に告げていた。



 元住吉にある彼女のマンションには、三十分で到着した。

 道路ぎわにハザードを焚いて車を一時停止させると、

「送ってくれてありがとう。じゃ、気を付けて帰ってね」

 彼女はさっぱりと挨拶し、すぐにドアノブに手を掛けた。

「あ、――」

 思わず僕は運転席から身を起こして、彼女の腕を掴んだ。

「何?」

 その腕を引きながら、僕はもう少し乗り出して、振り向いた彼女を真っ直ぐに見つめた。

「……」

 彼女も僕の目を見て動きを止めた。


 僕は自然の摂理のように、彼女に口付けた。

 唇を味わうような少し長めのキスに、彼女は特に抵抗しなかった。

 ただ、唇が離れると、

「いつも、二・三回会っただけでこういうことするの」

と、まるで名前を聞くかのように冷静に言った。


 僕は逆に少し気恥ずかしくなって彼女から目線を外し、

「しない」と答えた。

「嘘ばっかり」

 彼女は軽い口調で笑ったが、本当に、僕にとっては――、

「……求められてすることはあったけど、自分からは――初めてだ」

 口に出すと自分でも不思議で、それを言ってこれからどうしたいのか、順序立った思考が出来なかった。


 その時――きっと彼女は僕を誤解したのだろうが、

「いいよ、別に。あなたのその気まぐれに、しばらく付き合ってあげるよ」

と、掛けてくれた言葉が、経験した事のない不安から僕を解き放ってくれた。




 こうして、今全く別世界の住人だった僕たちは、そんな軽い間柄になった。他愛もない決断の積み重ねで、暇つぶしに似た時間を共有する事になっただけの事だった。

 しかし、人はそんな決断を繰り返し、いつしか戻れなくなって、その過去の重みを知るのだという事を、僕はまだ知らなかった……。



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