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 その二週間程後、ある水曜の午後、僕は会社を抜け出して横浜にやって来た。国立Y大学の正門前で車を停めると、降りて構内から出てくる学生達を一人一人注意深く見送った。


 彼らは場違いな僕にチラチラと好奇の視線を送りながら通り過ぎて行った。居心地はあまりいいとは言えなかったが、僕は辛抱強く待った。


 やがて、やっと目当ての人物が出て来てた。

「ねえ、君」

 僕はホッと胸をなで下ろすと、小走りしてすぐに声を掛けた。何故なら彼女はとても早足で、そうしないとうっかり見失ってしまいそうだったからだ。


 彼女は立ち止まって振り向いた。

 複数で連れ立って歩いて行く学生が多い中、彼女は一人だった。


 それは僕には好都合だった。

「学生だったとは思わなかったよ。仕事熱心だったから」

 彼女は何も答えず、驚いた顔で僕を凝視した。


 あまりに長い沈黙に、

(もしかして、分からないのかな?)

と、軽い落胆を感じていると、彼女は周囲からの好奇の視線を難しい顔でぐるりと見返し、僕の腕を取って道の端に寄った。

「わざわざ調べたんですか。いったい何の用で……」

 彼女は鋭い顔でいきなり僕を非難した。


 アイボリーのコットンシャツにジーンズという、シンプルカジュアルな服を着て、肩ほどの長さの髪もナチュラルに下ろした彼女は、 ホテルで給仕をしていた時とは随分印象が違っていた。ーーその攻撃的な視線以外は。


「そんな怖い顔するなよ。咎めに来たわけじゃない。ただ、君ともう少し……話がしてみたいと思って」

 笑顔で迎えられるとは思っていなかったものの、先日同様のとげとげしい様子に、僕は頼りなく笑った。


 彼女はしばらく警戒心に満ちた眼差しで、僕を品定めするように見つめていたが、やがて口を開いた。

「今日はこれからバイトなんです。話している暇はありません」

「いつなら空いてるの」

と聞くと、

「日曜の午後だけです」

と素っ気ない返事が返って来た。


 僕はじれったい気分になった。今日だってわざわざ都内から、無理に仕事の都合を付けて来ているのだ。

「ーーやっぱり今日じゃダメかな。そのアルバイト代、僕が払うから」

 大した悪気もなくそう提案すると、彼女は今度は激怒した。


「ふざけるのもいい加減にして。バイト代は、仕事の責任を果たした上で、正当な相手からもらう。金額が同じならそれでいいって事じゃありません!」

 完全なる嫌悪のこもった瞳で僕を強く睨みつけると、

「あなたみたいな人が、一番頭に来る」

と、さっさと歩き始めた。


 何がそんなに頭に来たのかうまく理解出来ずに、僕はまた呆然とした。

 そして我に返ると、

「ちょっと、話終わってないよ」

 小走りで彼女を追いかけた。

「ついて来ないで」

「アルバイトって、この前のホテル?」

「違う所」

「そんなにいくつもアルバイトしてるの」

「……」


 僕は突き放されても、まだ何故か諦める気になれなかった。

「――分かったよ」

 仕方なく、僕は息をついた。

「日曜の午後に、また来るよ。それならいいだろ」

 彼女は前を向いたまま、やっと足を止めた。


 僕はホッとして、

「じゃ、十二時半にまた正門のところで待ってる」

と、その後ろ姿に言うと、置いて来た車の方へ戻って行った。




 日曜、僕は午前十一時に広尾の邸宅を出た。

 愛車の黒いポルシェに乗って、いつになく明るい気分で都内を横浜方面に走った。


 十分に余裕を持って待ち合わせに向かったつもりが、予想以上の渋滞に遭ってしまい、第三京浜を降りた時には約束の時間に差し掛かっていた。

(間に合わなかったら……怒って帰ってしまうかな)

 不安になりながら、五分程遅刻して到着すると、彼女は閉じた正門に凭れて待っていた。


「ごめん、思ったより道が混んでて……」

 僕は急いで車から降りて謝った。


 また機嫌を損ねてしまったとばかり思っていたら、

「本当に来たんだ」

 彼女は遅刻のことはそっちのけで、感心したように言った。

 僕は初めて褒められたような気がして、笑った。

「乗って。お昼まだだろ? 何か食べに行こう」

 彼女を助手席に乗せると、僕は折り返すように第三京浜を都内方面へと走った。反対側も、やはり道は混んでいた。


「――どうしてそんなに私なんかにこだわるの?」

 それまで無言だった彼女は、高速道路の壁を眺めることに飽きたように、静かに口を開いた。

「女の子に怒られたの初めてだったから、……かな」

 あえて冗談のように、軽い口調で僕は言った。


 ――実際は、女の子に限らずほとんど誰からもあんな風に言われた事はなかった。僕の周囲はいつも、夢見がちな羨望の視線か、ひがみから来る言われのない中傷ばかりだった。

 そのどちらでもない、それも叱咤の言葉は初めてで、衝撃だった。


 だが彼女は、先日の別れ際の出来事を思い出したようで、やや表情を硬くした。僕はいまだに、何故アルバイト代を代わりに払う事が彼女の気に障ったのかが理解出来ていなかった。


 車内に緊張が漂い、さっきより重たい沈黙が出来た。

「ええと――古屋、結衣……さん」

 急に名前を呼ばれて、彼女は驚いたように僕に顔を向けた。

「……って言うんだよね。これから、名前で呼んでもいいかな」

「さすが、調べが行き届いてますね」

 彼女は返事の代わりに嫌味を言った。

 僕はその言われ様が心外で、ムキになって反論した。

「でも、それだけさ。ホテルの支配人に聞いたら、信用に関わる事だからって簡単に教えてくれないんだ。チーフに頼み込んで派遣元を教えてもらって……、結構大変だったんだよ」


 彼女は目を丸くして僕を眺めた。

 視線を前に戻して想像するように少し考え、ふっと笑みをもらした。

 ずっと怒った顔しか見せなかった彼女の笑顔に、僕は驚いて、

「へえ」

と、思わず声を上げた。

「何?」

とこちらを向いた彼女に、

「別に。そうやって笑うんだ、と思っただけ」

と思ったままの事を口にすると、彼女はまた無表情を作って、外を向いた。




 そもそものきっかけは、ドレスだった。

 あのパーティーから一週間後、僕にホテルの支配人から忘れ物が届けられた。


 執事の篠田から受け取って中を確認すると、その白い箱には、あの日彼女に買って着せたドレスが入っていた。きちんとクリーニングされ、買ったばかりのように美しく収まっていた。


 ――ドレスはお返しします――


 その言葉通りに約束を果たした彼女。

 僕は半分は軽い興味で、もう半分は、何か……まるで強い力に引き寄せられるように、支配人に会いに行った。


「いくら高宮様でも、それはいたしかねます」

 彼女の連絡先が知りたいと言うと、彼はにべもなくそう言った。

「僕も、彼女に忘れ物を返したいだけなんだ。別に怪しいことに使うわけじゃないんだし……」

と、食い下がったが、

「ホテルの信用に関わりますので、申し訳ございません。お忘れ物なら、よろしければ、私の方で預からせていただきますよ」

 支配人は手強かった。


 それなら、と僕はホールスタッフの控え室を探した。ここで働いているなら、見つけられるかも知れない。

「高宮様、いかがなされましたか」

 チーフが裏方に顔を出した僕を見留めて、話しかけて来た。

「いや、実は……、この前僕にドリンクをかけた彼女を探しているんだけど」

 ややバツの悪い思いで聞いてみると、

「その節は大変失礼致しました! その後まだ何か問題が……?」

と、チーフが早合点して青ざめたので、僕は急いで彼をなだめた。


「違うんだ、その子にちょっと、他の用があって。今、いるの?」

 すると、彼は困ったような顔つきになり、

「いえ、今日は……不在で」

と、歯切れの悪い返事をした。


「休みなんだ? いつならいるの?」

 そう聞いても、チーフはなかなか答えようとしなかった。僕は不安になって、

「まさか、あれくらいでクビになったりしないよね?」

と、背の低い彼に上から顔を近づけた。


「いいえ! まさか」

 彼は驚いたように首を振り、やがて観念したように言った。

「彼女は、臨時の派遣スタッフなのです。あのように大きなパーティーなどの時には、正規の社員だけでは回らなくなりますので……」

「そうなんだ」

 僕はやっと納得して頷いた。

「じゃあさ、その派遣会社を教えてくれない?」


「そ、それは……」

 チーフはまた渋ったので、

「社員以外のホールスタッフ使ってたこと、父には内緒にしてあげるから」

と、暗に脅すと、彼は苦汁を飲むように要求に応じた。


 そして彼の紹介でその派遣会社の営業担当に会いに行った。それにしてもたらい回しで、予想外の労力に僕は辟易した。

(調べるのって大変なんだな)

と、執事の篠田の事を思い浮かべた。

 彼は僕が頼めば、調査であれ物の調達であれ、いつも涼しい顔で素早く結果を出して来るけど……。



「この度は、うちの古屋がご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 三十代半ばに見えるその男性は、僕に会うなり頭を下げた。

「彼女には相応の対応を致しましたので、どうか今後もご贔屓に……」

「――相応の対応って?」

「ランクを落とし、減給しました。今後はあのホテルの給仕から外します」


「それは……随分厳しいんですね」

「完全実力主義が弊社の方針ですから。その代わり、規準に合格したり、派遣先から評価されれば、仕事も増えますし給料も上がります。学歴も年齢もほとんど関係ありません。だから学生の彼女でも、あの様な一流ホテルの給仕として仕事を受けることが出来たんです」


「が…学生なんですか、彼女?」

 僕が驚愕すると、彼は失言したとばかりに目を泳がせた。

「いや、彼女は……特別ですがね。並ならない熱心さで、短期間でレベルアップしたごく稀な例ですよ」


 僕はわざと丁寧に、彼を認めるように頷いた。

「なるほど。実力主義なら、僕も御社の方針には同意出来ます。ところで、その古屋さん――、どちらの学生さんなんですか?」

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