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 この四月、学生だった結衣は社会人になった。ずっとなりたかったという雑誌の記者として、神保町の角英出版という会社に毎日通っている。アルバイトしていた情報マガジン部ではなく、メンズファッション誌の配属になったそうだ。

 僕は、相変わらず赤坂の高宮エステート本社で企画部主任をこなしながら、日曜日だけを我が身の救いにして生きている。


 とは言え、僕は――いや、僕達は、声を大にしては言えないものの、やっと本当の恋人同士になった。僕はそれが嬉しくて、日常や、仕事に対しても前向きな姿勢で取り組んだ。

「最近の光様は、とても生き生きしていらっしゃる」

 篠田は目を細めてそう言った。

 仕事の決断で迷った時にも、僕は彼女のことを考えた。それについては別にのぼせ上がっているわけではなく、彼女の視点はいつも的確に物事の本質を捉えていて、目を覚まされるからだ。二十六年間、僕が受動的ながらも高宮の英才教育で培って来た知識や技術に、経験で得た、一本の矢で穴を穿つような考え方で、僕に何度も衝撃を与えた。

 つまり、彼女は、どのような面からも、僕にはなくてはならない存在なのだ。



 陽気は穏やかな春そのもので、日中はもうスプリングコートも要らないくらいになっていた。しかし一応夜のことも考えて、僕は片手に薄手のトレンチコートを持ってガレージにやって来た。五月上旬の日曜、結衣に会いに出かけるところだった。

 乗る前に一度振り返り、庭のハクモクレンを眺めた。いつ頃からか、習慣的にそうしていた。

 その枝に今はもう花はなく、元気な葉が顔を出していた。

 僕はふっと息を吐き、乗り込んだ。


「――で、次回の取材からカメラも持つことになったの」

 表参道にあるカフェで食事をしながら、僕は結衣の話を楽しく聞いた。相変わらず個室で、人目を気にしながらではあったが、季節のせいもあってか、それ程悲観的な気分にもならずに時を過ごしていた。


「編集長、結構人使い荒いんだ。カメラマン使うとお金かかるから、物の写真くらい撮れるようになれって、撮影のノウハウ本三冊も渡されたんだよ」

「読書は君の得意分野だろ」

「まあ、そうだけど」

 彼女は、泣いて僕に飛び込んだ日以来、随分明るくなった。僕はそれが、僕同様に喜びから来るものだと誤解していた。――ちゃんと考えれば、決してそんなはずはないのに。


 ある時、待ち合わせた部屋を訪れた結衣は僕に、

「これ、着てみせて」

と、メンズカジュアルの服を広げた。

「何、どうしたの?」

 僕はその真新しい男物の服を訝しげに見た。彼女はその店のパンフレットも持ち出しながら、

「この前、このお店に会社の先輩と取材に行ったの。今度初めて東京にオープンする海外もののセレクトショップで、話題になってるんだ。撮影に使うから借りたんだけど、光さんいつもスーツだから……」

と、結衣は話を途中で切った。


「どうしたの?」

「何か、――楽しそうだね」

 僕は仏頂面で言った。仕事とは言え、彼女が他の男とデートのような外出をしているのは想像したくなかった。


「――仕事は、好きだから、楽しいけど」

 結衣は僕の不機嫌に気付いて、一言ずつ正確に言葉にした。

「僕は君を外に連れて行くことは出来ないしね」

 八つ当たり気味にそう言ってしまうと、自己嫌悪も湧いて、僕は彼女に背を向けた。


 沈黙が部屋の中に漂った。

 まだ会ったばかりなのに、彼女は帰ってしまうかも知れないと後悔し始めた時、

「私、光さんが好きだよ」

と、結衣は僕の背中に寄り添った。

「他の誰かを、好きになれたらいいのにーー。……って、思うくらいに」


 その時、僕はやっと気が付いた。

 この恋が、お互いに思えば思う程、苦しみを招くものだということに。お気楽に僕が舞い上がっている間にも、彼女はそれをいつも感じていたから、タイムリミットが来るまでの時間を楽しもうと明るく振舞っていたのだ。

「ごめん……、わがまま言って」

 僕は彼女に向き直って、謝った。


「……」

 少し黙って俯いていた彼女は、顔を上げた時には、笑顔だった。

「いいよ。そういう子供っぽいところが、光さんのいいところだもんね」

 彼女がわざとおどけて軽い口を叩くのを、

「何だよ、またそうやって……」

と、僕も笑って受けた。


 その後、彼女の要望通りにカジュアルな服を着て見せると、

「何だ、普通に似合っててつまらない」

と、彼女は僕を失笑させた。

「君は僕をバカにする事しか考えてないだろ?」

 そう言う僕に、ペロリと舌を出して逃げようとする彼女を捕まえて、僕は愛しいキスをしたのだった。



 そんなささやかな時間さえもすぐに脅かされると知る事になるのに、そう時間はかからなかった。


 六月も後半の、しょうしょうと雨の降る水曜の夜、高宮家の人間はダイニングルームに集まった。グループ企業の役職をいくつも兼任する多忙な父が家族との時間を持つため、週に一度、水曜だけは全員がここに集い食事をする事になっている。

 もっとも、家族の時間と言えど、大体は会社の話になり、団らんなどという雰囲気からはだいぶ遠かったのだが。


「今日は、ひとつ大事な報告がある」

 全員が食卓に着くと、父は、口を開いた。

「来春稼働を目指して、新会社を設立する事にした」

 それを聞いて、姉は目を光らせ、僕は、背筋に冷たいものを感じた。

「それは、どんな会社ですの?」

 姉が油断ならない目つきで聞くと、父は隙のない厳格な口調で、

「今の企画部門を拡大し、分社化するものだ」

「えっ、じゃあ――」

 姉は屈辱的な表情で、隣の椅子に座る僕を見た。


 僕は……無言だった。

「光。お前に、社長を任せる」

 父が僕を見て言った。

 少し前に感じていた僕の、悪い予感はとうとう現実のものとなった。

「――あんまりだわ、お父さん」

 それでも僕はまだ返事をする覚悟すら出来ずに沈黙していて、先に姉が、こらえられずに非難の声を上げた。

「どうして光なの? 順当に行って、私じゃないんですか?」

「企画部を分社化すると言ったはずだ。現在その責任者である光が、その任にふさわしい」

「その役職も昔お父さんがお決めになったのじゃなかったかしら。結局お父さんは、光が男だから贔屓していらっしゃるんじゃありませんか」


 姉はまだ納得できずに言った。僕の三歳上の彼女は、父の性質をそっくり受け継いだ、根っからのビジネスウーマンだった。野心も人一倍あり、女に生まれた事を常日頃から恨んでいるほどだった。

「お前は本社で重職についているではないか。余計な事は考えるな」

 父はそう言うと、硬い表情で何も発言しない僕に、その威圧的な視線を向けた。

「お前も、いいな、光」

「……はい」

 僕はそう頷くだけで、精一杯だった。


 更に父は、蚊帳の外の母と妹を含めた全員の顔を見回し、話し始めた。

「あらゆる都市は今、耐久性と利便性を見直す時期に差し掛かっている。東京都内も既に主要駅周辺の開発が進んでいる地区も多い。我が高宮グループも無論、その開発事業に力を入れて行く計画だ」

 今は姉も、真剣な顔で話を聞いていた。僕は、吉田の席で見た外苑前オフィスビルの正体はこれだったのだと、諦めのような不快感が体の中に広がるのを、静かに、懸命になだめた。


「特に先だってのE市再開発も成功し、既に私のところには次の案件の話も来ている。それらに応えるのは――、お前なら、出来るだろうな?」

 震えそうな唇を、僕は奥歯を噛み締めてこらえた。


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