12
二人のデートがそうして形を変えてしばらく経ち、暦は三月になっていた。
最近はもう当たり前のことのように、僕達はベッドで時を過ごした。終わった後も僕はしばらく裸のまま寄り添ってくだらない話をしたり、時にはまどろんで疲れを癒しながら、彼女との和やかな時間を楽しんだ。
彼女はそんな僕を咎めることはなかったが、以前よりも少し様子が変わった。溌剌とした表情や奔放な発言が減って、無理に笑顔を作っているように感じる時もあった。
僕はそれはこの籠の中にいるような環境のせいだと、彼女に申し訳ないような気持ちを感じつつも、無論、自分からこの関係を絶つことなど、考えられないのだった。
そして、彼女は順当に大学を卒業した。
「卒業おめでとう」
その日は都内のホテルレストランでお祝いをし、珍しく僕も彼女とシャンパンを飲んだ。
「ありがとう」
細いグラスを軽くぶつけると、チン、と繊細な音がして、中の気泡が煌きながら上って行った。
「もう、アルバイトも辞めるんだろ?」
その金色の甘い酒を一口含むと、控えめな炭酸は舌の上に余韻を残して儚く消えた。
「うん、居酒屋と配膳の仕事は、今月末までね」
「配膳って……ああ、あの――」
ホテルの給仕の事だと今更気付き、一度訪ねた事のある派遣会社を思い浮かべた。
「何だか、惜しいね」
僕は思ったままを口にした。知っている彼女が一つ減ってしまうような、残念な心持ちがした。
「それ、営業さんにも言われた」
結衣は可笑しそうに目を細めた。
「本業にすればいいのに、だって。こんなその場しのぎの技術で足突っ込んだら、プロでやってる人に怒られちゃうよ」
そしてグラスに口を付けて一口飲むと、
「私も、記者の仕事はそういう覚悟でやるから」
と、静かな意志の漲った瞳で言った。
「と言っても多分、まだ当面は雑用メインなんだろうけどね」
結衣は残念そうに肩を竦めたが、それでも、僕の目に彼女は希望に溢れていて、とても眩しかった。
食事の後、上の階に向かうエレベーターで、僕は隣にいる彼女を盗み見た。
こうして僕のテリトリーで過ごすことになってから、僕はいつも彼女に衣装を提供した。彼女は嫌がりも喜びもしないが、僕はその支度をした彼女を美しいと思った。城之内雪菜と並べても全く遜色ない――それどころか、その大人びた雰囲気が艶かしさを醸し出して、より魅力的だった。それに気付いてからは、
(もし僕が婚約者を選べたなら……)
などと、埒もない想像をして、内心溜息をつくのだった。
部屋に入ると僕は結衣を抱いて、一週間の中で最も満たされた時間を大切に味わった。彼女が曇りがちな表情で僕に応えてくれていることを、多分僕は意識的に無視していた。
この日、彼女はいつもより早くにベッドから抜け出した。さっきのドレスではなく、自分のいつものカジュアル服をクローゼットから出して、
「そろそろ、帰るね」
と言った。
「いつもより、だいぶ早いよ」
僕は上体を起こし急な決断を責めるように言った。
「……うん、やらないといけない事があったの、思い出した」
彼女は服を着ながら、無表情で呟くように答えた。
すぐに身支度を終えて、まだベッドの上の僕のところまで来ると、
「お祝いしてくれてありがとう。嬉しかった」
と、律儀にもう一度礼を口にした。
「そう思うなら、もう少しここにいてくれたらいいのに」
僕は正直な気持ちを言った。言っても本気にされないという逆説的な思いから、僕は本心を口にする事が多くなっていた。
しかし、今日の彼女は少し違っていた。どこか辛そうな、非難を込めた視線で僕を見返すと、
「そういう迷子の犬みたいな顔で、簡単に甘いこと言わないで」
とやはり非難するように言って――、
ベッドに近付いたと思うと、僕の首に腕を回して、自分からキスした。
それは間違いなく、初めてのことだった。
ついさっきも僕は、何度も彼女の唇を味わったというのに――、彼女の能動的なキスは全く別の味で、僕の心臓を直接鷲掴みにした。
僕は当然、酷く動揺してしまって、彼女が体を離して、
「じゃあね」
といなくなってしまうまで、ただ呆然とベッドに座っていたのだった。
その次の週末は、三月最後の週末だった。ホテルの一室で結衣を待っていた僕は、先週の少し様子の違った彼女を思い出すたび、悪くない胸の動揺を感じていた。
しかし、時間通りにドアのチャイムを鳴らして現れた彼女は、今までにない暗い顔をしていた。
「どうしたの、今日……」
心配して問いかけると、それを遮るように彼女は言った。
「もう、会うのやめよう」
大きな決意を秘めた真摯な瞳が、力強く僕を見ていた。
それはまさに、青天の霹靂だった。
僕が何も言えずに固まってしまうと、
「それだけ、言いに来たの」
悲しげに彼女は微笑んで、背を向けた。
「待って」
僕は迷わずに、その背中を抱きしめた。
「どうして急に、そんな事言うんだよ」
理由が知りたい訳じゃなかった。すがるように、彼女の髪に頬をすり寄せた。
「――だって――」
震えるような息遣いで、彼女は口を開いた。
「婚約者がいるお金持ちなんか、好きになったって仕方ないじゃない」
――それは僕がずっと諦めていた言葉だった。
もう、抑えられない。
彼女を抱く腕に力を込めた。
「そうかもしれない……だけど……」
常識も理性も皆無だった。感情のままに僕は言った。
「離せない。僕はとっくに、君を愛してる」
「……そんな言葉……」
結衣の息遣いに、はらはらと涙の音が混じった。
「聞きたくなかったよ……」
彼女は苦しそうに振り向いて、泣きながら僕の胸に飛び込んだ。
彼女の温もりを腕の中に感じながら、先のことなどどうでもいいと思った。
例え不謹慎だと言われても、僕はこの時、人生で最も満たされた瞬間を味わっていたのだ。
これまでの人生で、唯一、心底から求めたものを初めて手に入れることが出来たのだから。




