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 雪でも降りそうな、どんよりと冷えた日だった。背後からゆらゆらと漂う冷気を感じながら、僕はE市開発計画の修正案に目を通していた。


 十二月に再調整を依頼していた部分の対応を確認して、僕は頷いた。

「吉田さん。これで進めてもらえますか」

と、書類をプロジェクトリーダーのデスクに返しに行った。

「あ、ありがとうございます」

 彼は立ち上がってそれを受け取った。


 その時、たまたま彼のディスプレイにあったファイルが目に付いた。

「外苑前オフィスビル? そんな案件ありましたっけ」

 僕は首を傾げた。企画部の仕事は全て僕の管理下にあるはずだった。

「こ…これは、社長から直接依頼された件で……」

 吉田は気まずそうに言った。

「社長から?」

 僕は眉をひそめた。そんな事は過去に経験がなかった。

「どんな内容なんですか?」

 開かれたその書類を覗き込んだ。

「あ、あの……」

 彼はあまり気が進まないようだったが、強く止めることが出来ずに、僕を見守っていた。


「外苑前って、ここのごく近くじゃないですか。そんな所に新しくビルを建てるなんて……、なかなかの資金が動いてますよね。何という会社ですか?」

「いえ、それが、分からないんです」

「分からない、って……」

「私も教えていただけてないんです。ただ、規模とか細かい情報はあって、それに合わせたプランを幾つか上げることになっているんですけど」

 聞けば聞く程、妙だった。


「何を考えてるんだ……」

 今までずっと高宮の会社と家を独裁して来た父の事、何か考えがあるに違いない――。

 こういう類の僕の直感は、成長と共に鋭くなっていた。

 そんな嫌な予感を胸に抱きながらも、それに抗う術を自分が持たないことも承知し過ぎていた僕は、

「……いずれ、アナウンスがあるでしょう」

と、その件に関する思考を遮断して、吉田の席を辞した。




 二月半ばの日曜、僕は結衣をE市の駅ビルに誘った。まだグランドオープンは先だが、自分の仕事の方向性が間違っていないかを知りたかった。

「たまには、ドライブがてらどうかな」

「うん、いいよ」

 僕は特に理由を語らなかったが、彼女は二つ返事で同行した。


 高速を使って一時間程で、その駅ビルに着いた。

「広いね」

 車を降り、だだっ広い立体駐車場を見回して結衣は言った。それから建物への入口に立てられた『パーキングの利用方法』をまじまじと見ていた。


 多くの利用者を想定して十分に台数を確保したこの駐車場は、月極めでもショッピングのポイントで料金が割り引きされるシステムが特徴だった。日常的な利用者へのインセンティブと、経営側の収益性を同時に目指したものだ。

「へえー」

と感嘆するような声を発して、彼女は建物に足を向けた。


 中に入ると、ファッション系ショップだけでなくレジャー施設、スポーツジム、ヘアやネイルのサロンなど、多様な店舗が軒を連ねていた。

 まだプレオープン段階で営業している店は限られていたが、駅直結の強みでたくさんの人が行き交い、活気に溢れていた。


 僕達は、気ままにショッピングエリアを散策した。

 吹き抜けの中庭では、自由に開放されているカフェテーブルでカップルがテイクアウトしたドリンクやフードと共におしゃべりする姿や、子供連れの母親達が、滑らかに整備された通路でベビーカーを転がし楽しそうに歩いている姿が見られた。


「あら、落としましたよ」

 その母親たちとすれ違った初老の夫婦が、母親の一人に声を掛けた。母親は振り向いて、差し出された小さなスニーカーを見た。確認するように片手に抱いている我が子の足の靴下を見ると、

「やだ、いつの間にか脱げちゃって! すみません。ありがとうございました」

と、笑顔でそれを受け取った。初老の二人も嬉しそうに笑い、

「可愛いですね」

と言った。


 そんな平和な風景を目にしながら歩いて、結衣は僕に、

「新しいだけじゃなくて、住みやすそうないい所だね」

と微笑んだ。

 その一言だけで、僕にとっては十二分にここに来た意味があった。


 そんな充足された気分で歩いていると、

「あれっ、高宮じゃないか。こんな田舎で、君を見かけるとはね」

と、男が声をかけて来た。

「ああ…」

 学生時代の同級生だった。いつも僕に対してひがんだ物の言い方をする、感じの悪い男だった。


 僕は気まずい気分で小さく会釈して、すぐに立ち去ろうとした。しかし彼は興味深そうに結衣を見て、

「まさか、彼女? ……じゃないだろうな。キミ、気を付けなよ、この男はキミのような女性が本気で付き合える相手じゃないんだよ」

 口調だけは優しそうに、その実は悪戯に関係をこじらせようとする悪意をチラつかせて、彼は覗き込むように言った。

 表情だけは何とか平静を保ちながらも、僕は全身を強張らせた。


 しかし、それに対して彼女は即時に、驚くことを口にした。

「まさか。誤解なさってますね。私は出版社の記者です。この新しいE市の生活総合施設を取材させてもらっているんですよ。――こちらを高宮さんが手掛けたこと、ご存知ないんですか?」

 そこには何の動揺も感じられず、完璧な事実に聞こえた。


 彼は急に気恥ずかしくなったようで、

「あーいや……それは、邪魔してすみませんね」

と、そそくさと去って行った。


「……嫌なヤツ」

 彼が全く見えなくなると、結衣はボソリと毒づいた。それから同情するように僕を見上げて、

「じゃ、行こうか」

と、微笑んで先に進んだ。

 僕は神妙な顔で頷き、彼女について行った。


「……知ってたの」

 少しして、静かな口調で僕は言った。

 彼女は決まり悪そうに笑い、

「知ってた、っていうか……、ここを高宮グループが開発してるのは常識的な事実だし、あなたがわざわざ足を運ぶってことは……そうなのかな、って」

と、僕に言い訳するように言った。

「……敵わないな」

 僕は沈んだ口調で、弱く微笑んだ。


 その足で二人は結局車に乗った。

 エンジンをかけたものの、どこに向かうか決めかねて、僕は浮かない顔で彼女を見た。

「え…と、どこに行きたい?」

 結衣はその問いに答えず、

「さっきのこと、気にしてるね」

と、穏やかに言った。


 僕は首を振りかけたが、

「ごめんなさい」

 先に結衣が謝った。

「ちょっと自由に行動し過ぎたよね。私……あなたが、守るべき立場を持った人だってこと、忘れかけてた。不注意だったよ」

 僕は驚いた。

「ち……違うよ、僕は……」

 続かない言葉の代わりに、カレラの重厚なアイドリング音が、コンクリートの立体駐車場に響いていた。


「まさか私が恋人と誤解されるとも思ってなかったんだけどね」

 明るく自虐的なことを言って、彼女は笑った。それで僕はもっと笑顔に戻れなくなった。

「じゃ、とりあえず、ウチに向かってもらおうかな」

 励ますように道を示す彼女に、僕は冴えない顔で頷いて、車を出発させた。



 元住吉は、庶民的な街だった。着いた頃には、少しは長くなった昼間の陽射しも、薄紫の幕を降ろすように消えかけていた。

 時間が経つに連れて大分気持ちが落ち着いて来た僕は、コインパーキングに車を入れて、

「まだ、いいかな」

と、一緒に結衣の部屋について行った。


「はい、コーヒー」

 結衣はマグカップを二つテーブルに置くと、座って飲んだ。僕もそれに続いた。

「――美味しい。淹れるの上手いんだね」

 ホッと息をついて僕は言った。

「嘘。もっと美味しいのをいくらでも飲んでるでしょ。きっと、ちょうど今飲みたい気分だったんだよ」

 結衣は笑って首を振った。

 このコーヒーと一緒に、彼女の飾らない態度が体中に沁み渡るようだった。


「……僕の知り合いが、君に失礼なこと言ってごめん」

 僕はやっと、言いたかった事を口にした。

「なのに、君を擁護すら出来なくて……」

 悔しさと情けなさで顔を曇らせた僕をじっと見つめて、やがて彼女は温かい声で言った。

「優しいんだね」

「……え」

 僕は驚いて顔を上げた。『優しい』などと形容されたのは初めてだった。


「平気だよ。私、自分の事くらい自分で守れる。今までもそうして来たし、これからも、多分」

 凛と前を見る瞳は、まるで恒星のように力強かった。僕が守ろうとするなんてこと自体、おこがましいと思うほどに。


「それにね」

 結衣はそんな僕の様子には気付かずに、今度は悪戯っぽく目を細めた。

「あれ、あながち嘘でもなくて。私、四月から角英出版に入社するの。今もバイトで週二回、行ってるんだけどね。ずっと、記者になりたかったんだ。だからちょっと楽しかったよ、プロのフリするの。今はまだ、雑用しかしてないから」


 マグカップを両手で持って時々揺らしながら、含み笑いをした。そして一口飲んでそれをテーブルに置くと、僕の方を向いた。

「でも、ありがとう。そんな風に思ってくれて。嬉しかった」

 膝を抱えて、僕を慰めるように覗き込みながら言った。


 そのとき、僕の胸に耐えがたい苦しみが芽生えてーー、

「君はどうして、僕に何も求めないの」

 それを吐露するように聞いた。今まで、僕に近付く女性はいつもあれこれと勝手なことを求めては、やがて満たされないとなるとすぐに姿を消して行った。

 ――なのに……。


 彼女の笑顔に、一瞬翳りが出来た。

「……求める事が辛い事だ、って、最初から知ってるからじゃないかな」

 そしてひと呼吸置いて言った。

「あなたもそうでしょ? ――光さん」

 多分それが、彼女が僕の名を呼んだ最初だった。



 それ以来、僕達は軽々しい外出を劇的に減らした。移動のほとんどに車を使い、くつろぎたい時はホテルに部屋を取った。食事も僕の馴染みのレストランの個室を用意し、そこに入るために結衣にドレスを買って着せたりした。

 そのことで彼女は特段喜びはしなかった。

「素敵だよ」

と褒めても、困ったようにただ微笑むだけだった。


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