いつか、きっと……
この小説をTK先生に捧げます。
世界がおよそ十五度、右にかたむいている――。
いや、かたむいているのは私の方だ。
街を歩くとき、いつも左側からまとわりついてくる由香がいないせいで、私の体は重心を失い少し左に傾いでしまっている。おかげで、どうにもまっすぐ歩くことができない。無意識のうちに体が、少しずつ、少しずつ、左の方へと寄ってしまうのだ。
どん――。
見知らぬ通行人とすれ違いざま肩がぶつかり、反動でよろめいた。
「あ、ごめんなさい……」
こうして、今日は何人のひとに頭を下げたことだろう。トレンチコートの襟を立て肩をいからせて歩くその男は、振り返りもせず、ちっと舌打ちして遠ざかっていった。
――もうやだ家に帰る。
急に投げやりな気持ちになり、私は通行の邪魔にならないよう脇へ寄ると、輸入雑貨店のショーウィンドウにどさりと背をあずけた。真っ白いため息が、底冷えする秋の風にさらわれてゆく。そっと目を伏せると、街路樹が散らした黄色い落ち葉が、からからと乾いた音を立ててアスファルトの上を転がってゆくのが見えた。
私は、トートバッグから携帯電話を取り出すと、池袋にある美容院へ予約のキャンセルを入れた。どうにもそんな気分じゃなくなってしまったのだ。申し訳ありませんを連発してからぱちんと電話機を閉じると、私の心は一気に萎れてしまった。意気揚々、ドレッサーから引っ張り出してきたお気に入りのレザージャケットも、なんだか今はとても重たく感じられる。
もう今日は家に帰って冬眠しよう。お菓子とインスタント食品を目一杯買い込んで、毛布にくるまったまま一日中ゲーム機にかじりついていよう……。
やっとの思いで身を起こし、ふらふらと歩き出したとき、雑貨店のショーウィンドウに飾られたアメコミヒーローのフィギュアが私の目に飛び込んできた。
ああ、これって……、由香がずっと欲しがってたやつだ。ヤフーのオークションで競り負けていらい、未練たらたら足を棒のようにして探し回った超レアなやつだ。こんな所にあったのか。教えてあげたら、由香、きっと大喜びするだろうなあ。
ぽっちゃりとした下ぶくれで、目尻の少したれ下がった愛嬌のある笑顔を思い浮かべ一瞬胸が熱くなったが、でもすぐに、私は力なく首を振った。
だめだめ、きっとあの子はもうこんな物になんて興味ない。
何だか切なくなり、そっと空を見上げる。ビルとビルの狭間から、額に入れられたみたいにせまい空がのぞいていた。その濡れた斐紙を貼り付けたような薄曇りの空から、氷のかけらみたいに冷たい雨粒がとんできて、私の頬に乱暴にキスした――。
由香とは、女子校時代に知り合った。鎌倉にある、中高一貫制で知られる名門お嬢様学校だ。
彼女は、多摩ニュータウンにある実家からわざわざJRで一時間半もかけてそこまで通っていた。第一印象は、とろい女……。でも驚いたことに、ジグソーパズルの隣り合ったピースのように、私たちはぴったりとウマが合った。好きな食べもの、お気に入りのアーティスト、マニアックな趣味、よく服を買いに行くお店、ちょっと斜にかまえた人生観……。たちまち意気投合した私と由香は、それいらい何をするにも一緒だった。
――ほーんと、いつも一緒。
毎朝、大船駅の西口で待ち合わせして、一緒のバスに乗り、一緒に校門をくぐり、一緒に持ち物検査を受けて、そして二人で、生活指導のオールドミス先生が今日もセンスの悪い高級ブランド品を身につけていることについて、ひそひそと話し合ったりした。休み時間のたびにお喋りして、もちろんお弁当も一緒に食べて、生理痛だと嘘をついて体育の授業をさぼって、ときには学校をエスケープして二人でレディース割引デーの映画を観にいったこともある。たばこの味も一緒におぼえたし、ピアスの穴だって二人同時にあけたんだ。
あんたたちってさあ……、ひょっとしてデキてる?
ときどき、そんなふうに訊いてくる子もいる。もちろん、私も、そしてたぶん由香だって、そういった種類の恋愛感情など持ち合わせてはいない。でも……、親友とか、そんな陳腐な言葉で私たちの関係を表現してほしくない。違うんだ――私と由香を結びつけているものは、そんなありきたりな友情なんかじゃない。
もっと別次元の……、そうほら、因縁とか宿命とかそういった感じの、なんて言うかな、前世からもう絶対に二人は出会う運命にあった、みたいな…………。
やがて一緒の短大を卒業し、職場こそ別々だったけれど、社会人になってからも由香とは毎日連絡を取り合った。そして、休日ともなれば揃って街へと繰り出し、インターネットや雑誌でゲットした様々な情報をもとに遊び回った。もう空気みたいに、横にいて当たりまえの存在。私の分身、体の一部。いつも自分の左肩の先へ目をやると、そこには彼女のぽっちゃりとした可愛らしい横顔があった……、それなのに。
小降りだった雨が、ワンルームマンションの安っぽいエントランスに駆け込んだとたん、石粒をばらまいたように激しくガラス戸を叩きはじめた。
間一髪ね、あそこで引き返して正解だったみたい。
私は、ほっと息をつきながら郵便受けにつっ込まれているダイレクトメールのたばを引き抜いた。そして、その中に一通の招待状がはさまっていることに気づく。差出人は、高校時代のクラスメイト。封を切ると、それは結婚披露宴への招待状だった。
やだあの子結婚するんだ、由香に知らせなきゃ。
私は、すぐにバッグから携帯電話を引っ張り出すと、わくわくしながら由香に電話した。式には何を着ていこうか? お祝いには何をあげよう? もちろん二次会には顔出すよね? 気が急いて、心のなかで由香にあれこれと語りかける。でも、電話機の呼び出し音は、何度かけ直してみても話し中のままだった。私は、とりあえず部屋に帰ってコーヒーを落としながらも根気よく数分おきにリダイヤルし、そして二十回目でとうとう諦めてベッドの上に電話機を放り投げた。
まーた、長電話してる……。
ふんと鼻息を荒くして、入れ立てのコーヒーをすする。ちょっと苦かった。そして、ふと想像してしまった。純白のウエディングドレスに身を包み、チャペルを満たす温い拍手に迎えられながらバージンロードを歩む由香の姿を……。
切なくて、胸が痛んだ。
恋人ができたと由香から打ち明けられたのは、今から一ヶ月前のことだ。
頬を桜色に染め、本当に嬉しそうにそのことを語る彼女に対し、しかし私は、ぎこちない笑顔でしか答えてやることができなかった。まさに、青天の霹靂というやつ。彼女の存在が、急に目の前からぐんと遠ざかったような気がした。
なぜ動揺するの、自分――?
由香の幸せは、私の幸せ……。本来ならば一緒になって喜んであげるべきはずなのに。でも私の心はこう叫んでいた。
――由香をとられた。
こういうとき、人という生き物は、なぜだか道化を演じるように出来ている。私は、現実を受け止められないまま、しかし滅多にひとには見せない満面の笑みをつくって、大げさにはしゃいで見せた。
「うわあ、由香ってば彼氏出来たんだ。よかったじゃなーい。くのやろー上手いことやりやがって、羨ましいんだからもう、このこのー」
あのとき私が見せた笑顔は、きっと、お姫様に毒りんごを食べさせようと企む悪い魔女みたいに醜く歪んでいたに違いない。うまく笑えるはずなんてないんだ。だって人間は、悲しいときには泣くように出来ているんだもの。
恋人と友だちは、どっちが大切?
――そんなの恋人に決まっている。
それ以来、由香は彼氏とべったりで、私とはあまり行動を共にしなくなった。たまに一緒に食事なんかしても、恋人から頻繁に送られてくるメールへ返信を打つのにもう夢中。私たちが共有していたあのマニアックな世界での熱い語らいの時間は、もう遠い過去のものとなってしまっていた。
由香が、彼氏専用に設定した着信メロディ、絢香が歌う『おかえり』。
彼女が大好きだったドラマの主題歌だという。でも、私はその曲が大嫌いになった。あのスローテンポなバラードが彼女のシャンパンゴールドの携帯から流れるたびに、私たちの会話は中断され、そして二人の間に『KEEP OUT』と書かれた黄色いテープがはりめぐらされる。
「ごめんねー、ちょっと用事が出来ちゃった」
そう言って席を立とうとする彼女に対し、私は何一つ引き止めるすべを持たなかった。いつだって力なく手を振り、寂しそうに見送ることしか出来なかったのだ。
そして、その頃からだろうか。世界が少しずつ傾きはじめたのは……。
ベッドの上に放置していた携帯電話が着信音とともに輝きだしたのは、私が苦いコーヒーをすべて飲み終えたときだった。
――由香だ。
ベッドに向かってダイブした。
「あ、由香? あのね、裕美がね、ほら高校のとき一緒だった裕美だよ。あの子がね、来月結婚する……」
なんだか変だ。
「……もしもし、由香? もしもし?」
電話口の向こうで、彼女がすすり泣いていた。タイミングを合わせたように雨足が強まり、窓ガラスを叩く雨粒が幾筋ものでたらめな軌跡をえがいては流れ落ちる。私には、それが何だか由香の涙に見えて、胸が騒いだ。
「ねえ、由香ったら、一体どうしちゃったのよ? ねえってば、何かあったの?」
しばしの沈黙……。雨音の強弱が、まるで波を打つように聞こえる。やがて、蚊の鳴くようなか細い声で、由香が言った。
「…………あのね……あのね、唐沢君がね…………もう私のこと嫌いになったって」
最後のほうはよく聞き取れなかった。でも、彼女が何か恋人とトラブルになっていることだけは分かる。しかも、この様子ではかなり深刻なようだ。
「彼とけんかでもしたの?」
「……ううん、さっき突然電話で言われたの……もう別れようって、――ねえ、どうしよう? わたしどうしたらいいの? まだ付き合ってひと月しか経ってないし、それに彼のことすっごく好きだから別れるだなんて絶対にいやなの」
恋愛の相談なんてまるっきりガラじゃない。でも私は、なぜだかとたんに饒舌になった。「大丈夫よ」とか「すぐに仲直りできるって」とか、てんで根拠のない気休め的なセリフが次から次と口をついて出る。
あれ、なんだろう? 私なんだかウキウキしてる。
自分でそう感じながらも彼女には悟られないよう親身になって話を聞き、そして熱心にアドバイスしてやる。やがて納得したのかそれとも諦めたのか、彼女は力なく「うん……ありがとう」とつぶやいて電話を切った。
ふうと息を継いで、私はベッドの上にごろんと寝返りをうった。ぼんやりと天井を眺める。なんだか一仕事やり終えたような、そんな不思議な気分だ。強風を孕んだ雨粒が、ざあざあと波しぶきのように窓ガラスを洗っている。
雷が鳴った。
――と同時に、私の心の中でも稲妻が閃いた。
やった、由香が私の元へ帰ってくる――。
翌日、同僚と会議室でお弁当を食べたあと、私は化粧室へ行くついでに由香に電話してみた。いくらなんでも、昨日の今日じゃちょっと気まずいかな? そう思いながら呼び出し音を一つ、二つと数えたが、二十を超えても彼女が電話に出ることはなかった。魚の骨が喉の奥に引っかかるみたいに、私の心に妙なわだかまりが残った。何だか釈然としない、嫌な気分だ。会社がひけて、ターミナルでバスを待つあいだ、もう一度電話してみる。やはり繋がらなかった。帰宅してシャワーを浴び、夕食をとったあと気を取り直して再度電話をかけてみた。けれど何度コールしても、私の電話機は、延々とあの気だるい呼び出し音を鳴らし続けるだけだった。
――どうしちゃったんだろう? やっぱり落ち込んでいるのかな…………。いや、あの子のことだから、案外けろっとして彼と仲直りしてるかもしれないぞ。
仕方なく私は、留守電に「また電話するね」とだけメッセージを残し、電話を切った。
ところが、翌日も、そのまた次の日も、彼女と電話が繋がることはなかった。心の隅っこの滅多に日の当たらない部分に、薄ぼんやりとした不安がゆっくりとその影を落とした……。
由香と連絡が取れなくなってから五日が過ぎた。さすがに心配になった私は、多摩ニュータウンにある彼女の実家へ直接電話をかけてみることにした。由香は、両親と三人でそこに暮らしている。少し緊張したが、電話に出た由香の母親は、嬉しそうに声を弾ませた。
「まあ、萄子ちゃん、お久しぶりね」
「ごぶさたしてます。……それで、あの」
「由香でしょう? ごめんなさいね、あの子ったら頭が痛いだなんて言ってもう五日も会社を休んでいるのよ。そりゃまあ、何があったのかは知ってるんですけどね。あら、萄子ちゃんもご存知でした? そうなのよ、部屋に閉じこもったまま、ほとんど顔も見せないの。もう本当に困った子。このままだと、会社クビになっちゃうかもしれないわね」
どうやら由香は、失恋のショックで寝込んでいるらしい。私は、ちらと横目でカレンダーを睨み、そして静かにうなずいた。よし、明日は会社も休みだし、ここはひとつ由香を盛大に元気づけてあげよう。思い立ったが吉日、私はさっそく母親に、明日お見舞いにうかがう旨を告げた。すると彼女は、まるで肩の荷が下りたように大きく安堵の息を漏らした。
「助かるわあ。じゃあ、申し訳ないけど萄子ちゃん、あの子のことお願いね。なにせお医者様にも治せない病気だもの」
「わかりました。それでは明日……」
電話を切ってから、私は小躍りした。
――さあて、明日は由香をどこへ連れ出そう。
私は、クローゼットの扉を開け、中に掛けてある洋服をあれこれ物色しながら思案を巡らせた。
まずジャックモールで軽くウィンドウショッピングして、ついでにゲーセンを荒らし回ろう。それから赤レンガ倉庫のオープンテラスでランチして、えーと、お次は……、あ、そうそう、パシフィコ横浜でポケモンフェスタをやるって聞いたわ、確か先着百名様にシェイミをかたどった特製携帯ストラップが配られるとかラジオで言ってたのよ。何はともあれ、まずそれをゲットしなくちゃね。で、その後は……、ちょっと遠いけど八景島あたりまで足をのばして、シーパラダイスのアクアミュージアムでも観ようかな。いやいや、由香の頭から失恋の二文字を消し去るには、もっと刺激的なイベントが必要ね。そうだ、たしか横浜BLITZでロックフェスティバルがあるはずよ。由香の好きな、嘘つきバービーとかも出演するし、よーし明日はなんとしても当日券をゲットして由香とライブを観にいこう。服はどれを着ていくかな……、少し寒いけど、ミニスカにニーハイのブーツできめてやろうかな。いや、ライブを観にいくんなら、もっと過激なファッションをチョイスしなきゃ。ええい面倒だ、いっそコスプレして行くかー。
明日のことをあれこれ想像しているだけで、夢がどんどん膨らんでいった。失った由香との時間が、一気に取り戻せるような、そんな気がした…………。
翌朝、携帯電話ではなく、部屋の壁に掛けてあるコードレスフォンが鳴った。朝っぱらから部屋の電話が鳴るときは、どうせろくな報せじゃない。
――その通りだった。
「えっ、由香が…………自殺未遂ですって」
ぼやけた意識が、一気に覚醒した。
昨日、電話で談笑したばかりの彼女の母親が、涙声で説明してくれた。
由香は昨夜遅く、通信販売で購入した大量の睡眠薬を飲んで昏倒し、意識不明のまま病院にかつぎ込まれた。さいわい発見が早かったことと、彼女が無意識のうちに薬の大半を吐き出していたことにより、一命はとりとめたという。でも今朝になっても意識はもどらず、病院のベッドでこんこんと眠り続けているらしかった。
「ごめんなさいね。萄子ちゃんがお見舞いに来てくださるって伝えたら、あの子とっても喜んでいたのよ。だから、まさかこんなことになるだなんて……」
電話を切ったあと、私はベッドの上にへたり込んだ。
どうしよう、きっと私のせいだ。私が無責任な慰めかたをしたから、あの子ますます傷ついて……。
由香は、この五日間ショックのために寝込んでいたわけではなかったのだ。そう、ただじっと暗い部屋の中で…………注文した睡眠薬が届くのを待っていたんだ。最初から死ぬつもりで。たぶん、泣きながら私に電話をかけてきたとき、もう半分くらいは死ぬつもりでいたのかもしれない。そして私にそれを止めて欲しかったのかもしれない。あのとき、どうして私はすぐに由香のもとへ飛んでいってあげなかったのだろう。どうしてあの子のことをぎゅっと抱きしめてやらなかったのだろう。そのことが悔やまれて、もう悔やまれて、私は歯を食いしばって涙をこらえた。
とにかく由香に会いに行かなくちゃ。
ろくに化粧もせず、私は履き古したジーンズの上から薄いレザーコート一枚をはおって部屋を飛び出した。エントランスの重たい扉を押し開けると、まぶしいほどの朝陽が澄み渡った秋の冷気を斜めにつらぬいていた。吐く息が白い。そして、休日の朝が垣間見せる見慣れた街のたたずまいは、なんだか泣きたいくらいに平和で、間抜けだった……。
由香が担ぎこまれた病院は、彼女の実家からほど近い高台の上にあった。六階建ての大きな市立病院だ。南多摩駅で下車した私は、そのまま病院をめざし、秋晴れの川崎街道を夢遊病者のようにふらふらと歩いた。お弁当の入ったバスケットと、犬と、ビデオカメラを詰め込んだファミリーカーが、次々と後から追い越してゆく。近くに大きな公園があるのだ。交叉点に設置された案内標識に見覚えがある。高校生のとき、由香と二人で、サンドイッチとバトミントンのラケットを提げて何度か来たことがあった。景色は、あのときのまま少しも変わっていない。信号待ちをするワゴン車の窓から、小さな女の子がこちらに向かって手を振った。そのあどけない笑い顔が、由香のぽっちゃりとした面影と重なった……。
由香――。
私は横断歩道を渡りながら、知らないうちに涙をこぼしていた。
由香、由香、ごめんね由香。あなたがそんなに思いつめていたなんて私ぜんぜん知らなくって……。またあなたとずっと一緒に過ごせるだなんて喜んだりして……。
涙でぼやけた秋晴れの空に、やがて大きな市立病院の看板がそびえ立った。
病院という空間は、いつだって訪れるものを威圧する。建物が、実際の容積よりも巨大に見えてしまう。同じ敷地面積であっても、例えばそれがスーパーマーケットや遊興施設であれば、案内図を一瞥しただけでおおよその構造やフロアの配置などが頭に入ってしまう。でも、病院は違う。殺風景な病室の扉や、奇っ怪な医療機器の詰め込まれた診察室の並ぶ総合病院の内部は、まるで底なしの迷宮みたいに無限に入りくんで見える。中に入るのに、ちょっとだけ勇気がいる。でも私は、ぐっと拳を握りしめ気力を奮い立たせた。この中に由香がいる。きっと魔物に囚われたお姫様みたいに、心細く肩を震わせているに違いないんだ。
――待っててね、由香、今行くから。
私は、自動扉をくぐり大股に中へと踏み込んだ。澄み切った秋の冷気が、消毒液のにおいで淀んだ生温かい空気と入れ替わる。
休日だというのに、市立病院のだだっ広いエントランスホールには人が溢れていた。噎せかえるような人いきれの中、赤ん坊の泣き声や、こんこんと咳き込む患者の声が絶えずどこからか聞こえてくる。ぐっと気を張っていないと、こちらの心がしだいに萎れてしまう気がする。
警備員室で面会許可証を受け取った私は、教えられた病室へと急いだ。由香のいる部屋は、五階の端から三番目のところにあった。
彼女の病室が近づくにつれ、私はしだいに自分の胸が高鳴るのを感じた。どんな顔で彼女に会えばいいんだろう。この薄情な親友のことを怨みに思っているだろうか。ちゃんと会ってくれるかな? 「帰ってよ!」とか言われたらどうしよう。
ゆっくりと深呼吸した。
何でもいいや、一目あの子の顔を見て安心したら、そしたら、もうそれでいい……。
途中、少し迷子になって別棟へ出そうになったけど、行き合った看護師さんに訊いたりしてなんとか由香の病室までたどり着いた。でも『有坂由香』と名札の貼られたドアの前で、私は思わず立ちすくんでしまった。
え、面会謝絶?
赤い文字でそう書かれていた。額に嫌な汗がにじんで、喉がからからに渇いた。どうしよう……。ここまで来て引き返すのは嫌だった。どうしても由香の顔を一目見たい。一目見て安心したい。由香はちゃんと、ここにこうして生きている。そう自分を納得させたい。納得して現実を受け入れて、そして彼女との関係をこれからどうやって修復していけばいいか、考えたかった。
私は、暗い廊下を注意深く見渡した。家族の見舞いにでも来たのだろう、小さな子供が二人スリッパをぱたぱた鳴らしながら私の背後を駆け抜けていった。その他には誰もいない。私のことを見ているものは誰もいなかった。意を決し、私は素早く由香の病室へともぐり込んだ。
真っ白い部屋の、真っ白いベッドの上に、由香は寝かされていた。パジャマを捲り上げた腕に、点滴のチューブが刺さっている。彼女は、微動だにせず眠っていた。病室の中は、なんだか時間が止まっているみたいに静かだった。時折、白いレーヨンのカーテンがエアコンの風にふわりと揺れる。あとは、まるで絵画の中の風景ででもあるかのように確固たる静寂が空間を支配していた。そっと由香に近づいてみる。息をしているように見えない。私は何だか心配になり、彼女の唇に恐る恐る顔を近づけてみた。
ゆっくり、ゆっくり、由香は呼吸していた。なんだか薬くさいような甘ったるい息だ。間近で見ると、睫毛の長い目のその下にうっすらと隈が出来ているのが分かる。それを見たとたん、私の目から再び涙がこぼれ落ちた。
由香……。
少し痩せたように見える彼女の頬に私の涙が当たり、まるで流れ星みたいに白い枕カバーへと伝い落ちた。
「由香、ごめんね。私、他に何にも言えない。何にも言葉が思いつかない。これしか言えないの。ごめんね、ごめんね。本当にごめんね――」
由香の手を握りしめ、指先で髪に触れて、そして私はしばらくそこで声を殺して泣いた。今日はもう、朝から泣きっぱなしだ。こんなに泣いたのは何年ぶりだろう。きっと子供の頃、両親が離婚したとき以来だ。
やがてドアの向こうからお昼を告げる院内放送が流れてきた。その声で我に返った私は、ようやく病室を後にする決心をした。
「……私、もう行くね」
静かに立ち上がり、後ろ髪を引かれる思いで病室を出ようとしたとき、背後から囁くようなか細い声が聞こえた。
「とう……こ?」
驚いて振り向く。由香の目が、真っ直ぐ私を見ていた。
「ゆ、由香、気が付いたの?」
「わあ、萄子……久しぶりだね。何年ぶりだろう……」
「え?」
「ほんと懐かしいなあ……、どう、元気にしてた?」
彼女は、どうやら記憶に混乱をきたしているようだった。私を見て、懐かしそうに目を細めている。とっさに何と声をかけたらいいのか分からなくって、とりあえずぎこちない笑みを作り手を振ってみせた。
「このまえ萄子と遊んだのは……いつだっけ? えーと、そう、東京ビッグサイトで……コミックシティが開かれたとき。……あのときは面白かったね、トイレで着替えてさ、あたしがヴァンパイアハンターで、萄子がメデューサ……」
「……そうだね」
ゆっくりと由香のもとへ歩み寄る。
「あたし、萄子と一緒にいるときが一番楽しい。一番幸せ。だからさ……だから、ずっと、ずっと、いつまでも……いつまでも…………」
そこで由香は、再び眠りについた。気紛れな眠り姫。私のことをこんなに悩ませて……。
「私だって、由香と一緒にいるときが一番楽しいよ……」
昼食を乗せたワゴンが、ガラガラと音を立てて各病室を回っている。私は、由香の額に軽くキスしてから、タイミングを見計らって部屋を抜け出た。
「……バイバイ、由香」
あれから由香とは話をしていない。
彼女が無事退院したことも、勤めていた会社を辞めたことも、すべて人づてに聞いた。私は、何度も彼女に電話しようとして断念した。メールを打つことさえ出来なかった。彼女のアドレスが表示された電話機のディスプレイを睨んだまま、どうしても送信ボタンを押すことが出来なかったのだ。何度、ため息をついて電話機を閉じたことか……。
世界がおよそ十五度、右にかたむいている。
いや、すでに二十度くらいには、なっているだろうか。背の高い私が、まるでピサの斜塔みたいに傾いて歩く姿は、道ゆく人たちの目にさぞかし滑稽なものとして映っているに違いない。
ふん、笑いたければ、笑えばいいさ……。
仕事が終わり、私はいつものように寄り道をせず真っ直ぐ部屋に帰った。最近は、どこへ行っても、何をしていても、ちっとも楽しくないのだ。私は、食料の入ったコンビニ袋をぶら下げたまま、のっそりと玄関ドアの前に立った。
「……あれ?」
誰もいないはずの部屋の中から物音がする。慌てて確認すると、ドアは施錠されていなかった。今朝、ぼんやりして鍵を掛け忘れたのだろうか? それとも、まさか……泥棒?
管理人室の前に貼られている『空き巣に注意』と書かれたポスターを思い出し、私は思わずぞっとした。それでも部屋に入らないわけにはいかず、恐る恐るドアを開けてみた。誰かいる。居間の真ん中にぺたんと座り込んで、ゲームをしている。
――由香!
「あ、お帰りー」
そう言って彼女がこちらを振り向いた。とたんにテレビスクリーンに映し出されていた戦闘機のアニメーションが爆発炎上して『GAME OVER』の文字が浮かび上がった。「あーあ」とため息をついてゲーム機のコントローラーを置き、そして彼女は私に向かって、えへへと笑いかけた。
「ゆ、由香……、あんた、こんなところで何してるの?」
「ごめーん、留守だったから、合い鍵使って勝手に入っちゃった」
いったい私は、今どんな顔をしているだろう? 泣き笑いとは、まさにこんな顔を指して言うのだろうか。
由香がいる。私の大切な大切な由香がここにいる。嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。嬉しさを通り越して、もう切ない。なんだかよく分からないけど、もの凄く切ない。こんなときって泣いたらいいの? それとも笑えばいいの? 一人でのほほんとしてないで教えろよ、由香!
「ねえ萄子、悪いんだけどしばらくここに置いてくれない? なんだか家にいると息苦しくってさー。ほら、あんなことがあったでしょう。だからパパもママもあたしのこと腫れ物に触るみたいに扱うんだもん。なんて言うんだっけ、こういうの? 針の筵だっけ? とにかく、もう居たたまれなくってさ、萄子んとこに泊まりに行くからーって言って、家飛び出して来ちゃった」
笑おうとしたが、やっぱり泣いてしまった。
「――由香、私ね」
いつか……、そう、いつかきっと彼女は誰かのお嫁さんになってしまうだろう。――ううん、私が先に結婚するのかもしれない。でも、そのとき……、
由香の結婚式で友人代表としてスピーチをするとき、私は心の底からおめでとうを言ってあげられるだろうか? 逆に、由香は、私のために心からおめでとうを言ってくれるのだろうか?
涙でぼやけてゆく視界の真ん中に彼女の顔をしっかりと捉えながら、しかし私は固く心に誓った。
だいじょうぶ、今度こそ私は言ってみせる。心の底から、本当に本当の気持ちで、おめでとう、幸せになってね、って。由香だって、きっとそう言ってくれるに違いない。だって、私たちは親友以上の、そう、出会うべくして出会った本当にかけがえのない存在だもの。お互いが、お互いのこと、何よりも大切だって思っているもの。
今は、まだ無理かもしれないけど――、でも、いつか。
いつか、きっと……。
だけどそれまでは。
「よーし、由香。じゃあ今日からわたしの嫁になるかあ?」
彼女は「いいよ」と言って八重歯を見せ、あどけない笑顔をつくった。私もつられて笑った。また涙が出てきた。
なんだか久しぶりに心の底から笑えた。
――そして、その瞬間、かたむいていた世界が再び平衡を取り戻した。
ボクの作品にお付き合い下さり、ありがとうございました。
当初は五千文字以内で収めようと思っていたのですが、やはりというか、一万文字を越えてしまいました。相変わらずのグダグダです。もう少し無駄な文章を削ってシンプルに書けたらいいのにな……。
ちなみにタイトルに意味はないです。『イツ花、黄川人』にひっかけました。
まあ何はともあれ、TK先生、十七歳のお誕生日おめでとうございます(笑)