あの日の私へ
物心ついた頃から、ずっと“創作”に興味があった。
私には少し歳の離れたきょうだいがいて、良くも悪くも、たくさんの影響を受けて育った。身の回りにたくさんの漫画本があったのは、その影響のひとつとして数えていいことだと思う。私たちきょうだいは、幼い頃から漫画を愛していた。
美しい線の数々で構成されたイラスト、自分を現実から一時の間、切り離してくれるストーリー……毎日浴びるように漫画を読み、片面のみ印刷された折込チラシを見つけては、裏面のキャンバスに片っ端から絵を描いていた。
時間など、あってもあっても足りなかった。“何かを生み出すんだ”という欲で、私の心は常に満ち溢れていた。
その頃の私は、いずれ自分は漫画家になるのだろうと信じて疑わなかった。きっといつか、この素敵なコンテンツを、自分が生み出す側になるのだと。漫画雑誌の投稿欄を眺めながら、いつかここに自分の名前と絵が並ぶのだと、本気で信じていた。その夢を、終ぞ誰かに打ち明けることは、なかったけれど。
私は気がつくと、絵を描くことをやめていた。
いつの間にか、描くことに対して勝手に限界を感じるようになったのだ。
周りを見回せば、自分より絵の上手い子など、腐るほどいる。その中で心を折らずいられるほど、その頃の私は強くなかった。実に、ありふれた理由だ。
絵が満足のいくものではないなりに、漫画家への道を切り拓くことは不可能ではなかったはずだ。漫画を構成するのは、絵そのものだけではない。
しかし、単純にそこまでの意地がなかった。創作に対して譲れない執着心が存在しないという現実が、辛かった。所詮、私の“好き”はその程度だったのだ……そう、悲しみに暮れていた。
創作を続けたければ、自分と向き合うことを避けては通れない。そう考えていた私は、真面目過ぎたのかもしれない。長所や短所を客観的に分析したり、いい日も悪い日も“続ける”ことをキープしなければ、上手くはならない……無意識に、そう思ってしまっていた。他のやり方が、当時の私には思いつかなかった。
そして、私は逃げ出した。“下手な自分”と、正面から対峙するのが怖かったのだ。
誰の目にも触れることなく、私の夢はひっそりと終わった。
あれから多くの月日が流れ、私は今、小説を書いている。
媒体こそ漫画ではないものの、“創ること”ときちんと向き合っている自分を、時折、不思議に思うことがある。
結局、自分と向き合いながら進む以外の道は、見つからなかった。創作にあたって、やはり掻っ捌いて見つめる必要があった腹の中はもちろん痛いけれど、その傷を静かに受け止めながら、淡々と文章を紡いでいる。
結局、私は創作に対して、意地汚い執着を持っていたんだな……と思う。それは、長い年月をかけて、ようやくわかったことだ。描くことを辞めてから流れた時間は、たぶん、無駄ではなかったのだろう。
色々な言い訳によって覆い隠されてしまった、ただ、“創ることが楽しい”という気持ち。そして、ゼロからイチを生み出すことの高揚感……あの頃も絶対に存在していたはずのそれらが、今、力いっぱいに私を支えてくれている。
ねえ、あの日の私。
私は今、楽しく小説を書いているよ。