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2年越しの初対面

作者: 佐藤湊

 5時22分発の電車に乗ると、小川五十鈴(いすず)が目の前の長椅子の角に座っていた。

 なるべくそちらに目をやらないようにしながら、彼女と向かい側の椅子に座る。


 陸上部の小川五十鈴は、校内一の美少女だ。

 すらりとした伸びやかな四肢に、肩口まで伸びたさらさらな黒髪。

 そのうえ鼻梁の美しい端正な顔立ちとくれば、誰でも一度は彼女に注目してしまう。


 放課後の部活中など、とりわけ小川の注目度が証明される機会だ。

 ウチの高校ではサッカー部、野球部、陸上部がグラウンドを分け合っているんだけど、彼女以外が走っている時は、サッカー部の連中も野球部員も、各々自分の練習にしっかり集中している。


 ところが、ひとたび彼女がトラックのスタートラインに立つと。

 石灰で白線の引かれたしょぼいトラックが見る間に本格的な競技場のトラックへと様変わりし、運動部の連中は皆、磁石のN極に引きつけられるS極のように、ぎぎぎと彼女の方を振り向くのだ。


 小川には実力も備わっていた。

 その伸びやかな四肢を存分に活かしながら、空気をかき分けすいすい進み、見てる側が時間の感覚を狂わせるほどあっという間にゴールへ到達してしまう。


 つまり、彼女は1年生ながら陸上部のエースだった。

 対して俺は、彼女を取り巻く観衆の一人——野球部でベンチ入りすらままならない、下っ端の1年坊主——に過ぎない。


 そんな住む世界の違う俺たちにも、一つだけ共通点がある。

 それは、毎朝同じ時間の電車の、同じ車両に乗っていること。


 どちらが先に、この時間の電車に乗るようになったのかは分からない。

 5時22分発の電車に乗るようになってから何度目かの時に、人気のない車両をなんとなく見渡したら、英単語帳のページを繰る彼女がぽつりといたことは覚えている。


 見かけた時は、正直心臓が止まりそうになった。

 ちらちら見るのも向こうに悪いし、車両や時間をずらそうかとも思った。


 でも、どうせ意識してるのはこちらだけ。

 向こうは毛ほども気にかけてないと思うと、それはそれで勝負に負けたような気がして嫌だった。それで今も意地を張って、同じ時間の同じ車両に乗っている。


 俺たちがこんなに早い時間の電車に乗っているのは、朝練のためだ。

 と言っても、野球部の朝練が始まるのは7時から。

 陸上部の事情には詳しくないけど、多分似たようなものだろう。


 だから、この時間の電車で通学すると、朝練の開始時間よりずっと早くに着いてしまう。

 それなのに毎朝眠い目を擦り、バカ早い時間の電車に乗るのは、俺にセンスがなくて、少しでも人より練習しないと落ち着かないから。


 小川がわざわざ朝練に早出する理由は知らない。

 ただ、すでに抜きん出た存在にこれほど努力されたら、陸上部の連中もたまらないだろうなとは思う。


 電車を降りて学校に向かい、着いてすぐにグラウンドへ出る。

 いつも通り俺と小川が一番乗りで、部活時に自分の部が使っているグラウンドの所定の場所へ各々向かい、ひたすら汗を流す。


 彼女の方では俺のことなど、やっぱり意識の片隅にも置いていないだろう。

 そもそも同じクラスじゃないし、喋ったことすら一度もない。


 でも、それでいい。

 こうして毎日、空気の澄み切った静かなグラウンドの反対側で、自分以外の誰かが頑張っている。

 たったそれだけの事実が、自分をこんなにも奮い立たせてくれるのだから。


* * *


 あっという間に、一年が過ぎた。


 ずっと朝練に一番乗りしていたせいか、俺は自分でも分かるほど、めきめきと実力をつけた。

 まあ、元が元なので、それだけ頑張ってこの間の春の大会でようやくベンチ入りできたくらい。

 とは言え、去年一度もベンチ入りできなかったことを考えれば大きな進歩だ。


 一方、噂に聞く限り、最近の小川は苦しんでいるようだった。

 元の能力が俺よりはるかに高い分、壁にぶつかることも多いのだろう。

 50点から30点伸ばすより、90点から10点伸ばす方が難しいなどとテストではよく言われるが、俺は前者で、彼女は後者というわけだ。


 その小川が、近々行われるインターハイ予選の南関東大会を目前にして、怪我をしてしまったという。

 あまりに根を詰めて練習したのが、良くなかったみたいだ。

 確かに、朝電車で見かける彼女の姿は、日に日に追い詰められているようだった。見ているこちらまで、胸が痛くなった。


 でも、俺が直接彼女に何かすることはできない。

 クラスが違うせいか話す機会などないし、そもそも向こうが俺を認識しているのかどうかすら未だに怪しいのだ。

 そんな状態で急に話しかけても、不審に思われるか引かれるかがオチだ。


 怪我で練習ができないのに、いつもと同じ早朝の電車に小川は乗っている。

 たぶん、習慣が抜けないのだろう。気持ちは俺にもよく分かる。


 そんな彼女が、朝練をせずに学校で何をしているのかは俺にも分からない。

 教室で勉強しているのかもしれないし、図書室にでもこもっているのかもしれない。

 

 ただ、彼女が何をしていようと。

 自分は変わらないというのを伝えたいがために、毎朝他に誰もいないグラウンドで、俺は一人汗を流している。


 もちろんこんなの自己満足で、伝わってなくても構わない。

 考えた末、俺にできるのはこれしかないと思ったから。


* * *


 それからまた少し経ち、夏の大会の背番号が発表された。

 俺は何とかベンチ入りすることができて、渡された背番号は20。

 夏の大会のベンチ入り人数は20人なので要するにギリギリだけど、嬉しいものは嬉しい。


 しかし、数日後。

 とある噂を偶然耳にした俺は、ベンチ入りの喜びが一瞬で吹き飛ぶほどのショックを受けた。


 その噂によると。

 隣のクラスの小川が、同じく隣のクラスの野球部エース、畑中純平と付き合っているらしい。


 噂を始めて耳にした時、心臓がキューッと縮まるような、そんな感覚を覚えた。


 自分が小川とどうこうなれるだなんて、期待していたつもりはない。

 ただ遠くから見ているだけでいい、そう思ってたはずだった。なのに、胸が苦しかった。


 小川との噂で名前が挙がった純平とは、帰り道が途中まで一緒で仲も良い。

 それも俺の悩みの種だった。

 噂を聞いた今、どんな顔でやつと一緒に帰ったらいいのか。

 他愛のないバカ話で、いつも通り笑えるだろうか。不自然な態度になってしまわないだろうか。


 そうこう悩んでいる間に部活は終わり、帰宅途中。

 他の部員たちと途中で別れた後、俺と純平は二人並んで歩いていた。


 純平の態度は、どう見てもいつも通り。

 それはそうだ。俺と話すのが気まずくなる理由など、向こうには1ミリもないのだから。


 一方の俺はと言うと、案外誤魔化せていそうで、やっぱりバレてそうで。

 それでも純平から直接指摘されることなく、なんとか別れ際まで漕ぎ着けた。


「じゃあな」


 こんなストレスを、これから先毎日味わなきゃいけないのかという不安。

 ともかく今日はこれでミッションクリアだという一安心。


 その2つがごちゃまぜになった気持ちを押し殺すようにして言うと、いつもはその場で「おう」とか何とか応じてあっさり別れるはずの純平が、「あ、ちょっと待った」と鞄をごそごそし始めた。


 しばらく待っていると、取り出したものを「ほい」とこちらに投げてくる。

 すっかり日が沈んで視界が暗いとは言え、そこは俺も野球部員。

 危なげなくキャッチして、手の中のものを見てみた。


「これは……お守り?」

「そ。よくできてるだろ、それ」

「……うん、マジでよくできてる」


 受け取ったお守りを、改めてしげしげと眺める。

 2頭身くらいのデフォルメされた野球選手がバットを構え、そのユニフォームの背中には20の数字が踊っていた。手作り感が強いけど、それもまた味があって良い。


「そんなにジロジロ見るなよ、照れるから」

「……え? まさかこれ、純平が作ったの?」

「そうだよ、すげえだろ」


 腕を組んでドヤ顔をする純平。でも、不思議と嫌な気にはならなかった。


「いや、マジですごいよこれ……でも、なんで急に?」

「……毎日朝早くから頑張る(いつき)の姿が、励みになるんだとさ」


 顔を上げて尋ねると、やつはなぜか目を逸らしてそんなことを言った。

 微妙に他人事っぽい言い方が気にはなるけど、照れ臭さの裏返しということなんだろう。と言うか、こっちも普通に照れるし。


「……ま、せっかく作ったんだし、鞄の目立つとこに結んどけよな。その方が作り手も喜ぶから」

「作り手って、お前だろ」


 ツッコミながらも、お守りを鞄の持ち手に結びつける。

 さっきまでのモヤモヤが全部消えたわけではないけれど、心はどこかスッキリしていた。


 純平相手なら仕方がないか。そう思えた。


* * *


 翌日。いつもと同じ時間の電車に乗ると、向かって正面のいつもの場所に小川が座っていた。彼女はいつも通り英単語帳に目を通している。


 ただ、一つだけいつもと違うのは。小川が一瞬単語帳から、こちらに目をやったこと。えっ、と思った次の瞬間には、本に視線が戻っている。


 気のせいかな、とそれとなく小川を窺いながら、俺はいつもの座席に座った。

 そこでもう一つ、いつもと違うことに気づく。


 単語帳の奥に見える、彼女の口元に。

 かすかな微笑みが乗っているような、そんな気がしたのだ。


* * *

 

 さらに月日は過ぎ去り、気付けば俺も3年生。

 小川と純平との間に流れた噂はとうの昔に立ち消えになり、キャプテンなどという面倒くさい役職を俺が押し付けられてから、半年以上が経っていた。


 俺がキャプテンに指名された理由はただ一つ。

 毎朝誰よりも早くグラウンドに出るその姿が、部の模範となっているから、ということらしい。

 野球の上手さじゃなくて練習姿勢を評価されるのは、個人的にはちょっとフクザツ。いちいち気にしても仕方ないことではあるけど。


 ちなみに、小川も陸上部のキャプテン。

 各部活のキャプテンだけが集められる会議みたいなので見かけて知った。

 彼女の場合、純粋に選手としての実力を評価されたのだろう。

 ちょっと羨ましい。


 その小川とは、未だに一度も話していない。


 結局3年間で一度も同じクラスにならなかったうえ、俺も、そしてどうやら小川も人見知りする質。

 2年も同じ時間の電車の同じ車両に乗り合わせているうえ、お互いにキャプテンという目立たざるを得ない立場だから流石に認識はされているはずだけど、逆に言えばたったのそれだけ。


 存在を認識したところで、人気のない電車内という、ただでさえ話すきっかけの生まれにくい空間。そこで話しかけるなんて、とてもじゃないが俺にはできない。


 ただ、話したことはなくても、噂は耳に入ってくる。

 俺が特別ゴシップ好きだからとか、そういう訳じゃない。

 彼女は校内一の有名人だから、皆が至るところで話題にしているのだ。


 そうして、勝手に人伝に流れてきた、彼女に関する噂をまとめると。


 小川にはこの2年と少し、純平との噂があった以外にその手の話はないらしい。

 ずっと陸上一筋で、短距離種目でのインターハイ出場を目標に据え、日々練習に励んでいる。


 しかし、1年の時は南関東大会で敗れ、2年の時は怪我で断念。

 今年こそがラストチャンスだと、鬼気迫る様子で練習に取り組んでいる、とのことらしい。


 ……ウチの野球部は甲子園なんて狙える位置にいないし、俺個人のレベルも中の上がいいところだ。

 なので、遥か高みにいる小川に対してこんなことを思うのは、少々おこがましいかもしれない。


 でも、それを承知の上であえて言わせてもらうと。

 最後の大会に賭ける彼女の想いには、どこか共感できてしまう。


 だから、週に一度だけ部活のない月曜日の帰り道に。

 たまたま通りかかった雑貨屋で、どこか小川に似た猫のキーホルダーを見かけた時。俺はあることを思いついた。


* * *


「……本庄。今、ちょっといいか」


 カラッと空の晴れ渡った、5月下旬の休み時間。

 一つ前の席でクラスの女子二人と喋っていた本庄亜美に声をかけると、「どしたー?」と彼女がこちらを振り向く。


 ……正直な話、用件が用件だから、本当は彼女の周りに誰もいない時間帯を狙いたかった。

 でも、本庄は誰とでも分け隔てなく話すタイプだからそんな時間などなかったし、かと言って彼女の他に、条件に合うヤツがいるわけでもない。


 だから、強行突破することにした。


「ちょっと、話があるんだけど。その、ここじゃ話せないことで」


 教室の外を指差すと、本庄は一瞬目を見開いた後、「え、まさかそういう感じですか?」となぜか敬語で言った。

 そういう感じとは? と思いながらもひとまず頷くと、本庄本人ではなく、彼女と話していた女子二人がきゃあっと黄色い悲鳴を上げる。


「……何、どういうこと?」

「……あ、そういう感じじゃないのね。ビビったー」


 本庄はにへらと笑って、いいよ、と頷いた。

 そういう感じ、が何なのかは最後まで分からなかった。


* * *


「で、話って?」


 廊下の端の、人気のない場所で。

 単刀直入に尋ねてくる本庄に「……本庄って、陸上部だったよな?」と確認すると、


「もちろん。てか、いつもグラウンドで見かけてるじゃん」


 彼女は肘でこちらの脇を突いてくる。


「や、そうなんだけどさ。……その、小川と仲良いよな、確か」


 俺が小川と口にした瞬間、本庄は何かを察したように笑った。


「……あー、そっち系の話ね。たぶんスズは断ってって言うと思うけど、イッツンはいいヤツだから、特別に聞くだけなら聞いてあげるよ。はい、どうぞ!」


 よく分からないけど、とりあえずは聞いてくれるんだな。

 なら駄目で元々と、ポケットからあるキーホルダーを取り出す。

 前に通りがかった雑貨屋で見かけた、小川に似た猫のやつだ。


「……その、できればで良いんだけど。これ、小川に渡しておいてくれないか。本庄からだって言って」


 フックのところを摘むようにして持ちながら、本庄の方にそれを押し出した。

 照れ臭すぎて、相手の顔が見れない。


「へえ……この猫、ちょっとスズに似てるね」

「……だからつい、買っちゃったんだよ」

「や、センスは良いと思いますよ、マジで。カワイイし、こういうのスズは気に入ると思う」

「ほ、ほんとか!?」


 思わず本庄に顔を寄せると、「近い近い!」と彼女は顔の前で手を振った。

 我に返った俺が悪い、と離れたら、「ったく、急に距離感バグらせないでよねー」と咳払いしてから、


「……えーっと、一個確認していい?」


 右手の人差し指を立てた。頷くと、その人差し指を顎にやる。


「よく分かんないけど、これ、ほんとに私からってことで良いの?」

「……うん、それでいい。というか、渡すなら絶対そうしてくれ。喋ったこともない相手からプレゼントを贈られるなんて小川も気味悪いだろうし、本庄みたいな仲良いやつから貰う方が、絶対嬉しいと思うから」


 早口でそう伝える最中、去年純平から貰ったお守りのことを思い出した。

 あのお守りは、今も俺の鞄の持ち手に結んである。

 親友から思いのこもったものをもらうのは、中々嬉しいものだ。

 ご利益があるかは怪しいけど。


 本庄はそっか、分かったと頷いてから、


「渡してあげる代わりに、もう一個聞いても良いかな?」


 と尋ねてきた。俺が頷くと、ニンマリ笑って先を続ける。


「話したこともない相手に、なんでこれを送ろうと思ったのかな? ずばり、顔でしょうか?」

「……どうだろ。顔もちょっとはあるかもしれないけど、でも、それだけって訳でもなくて——」


 頭を掻きつつ、ここ2年と少しの間のことを、大雑把に本庄に説明する。

 まあ、基本は電車内とグラウンドで毎日見かけたってだけで、派手な出来事など何もない。説明はすぐに終わった。


「——だからこう、謎の同志感? みたいなのを、勝手に俺が感じてるんだよ」


 説明を終えた俺が口を閉じると、本庄はなぜか俯いてぷるぷる震えていた。

 何? と思った次の瞬間、


「尊い……尊すぎる!」


 がばりと顔を上げ、目をキラキラと光らせて、こちらをじっと見つめてくる。


「……や、マジでそんな良いもんじゃないから。だって、一言も会話したことないんだぞ? 向こうはたぶん何も思ってないだろうし、一歩間違えればストーカーみたいな——」

「そんな風に卑下することないよ! なんかこう、凄くいいと思う! 何なら、私がイッツンに惚れちゃいそう!」

「それは脈絡がなさ過ぎるだろ」


 そうツッコむと、本庄はそれなー、と笑ってから、額にビシッと手を当てた。

 敬礼ってやつだ。


「ではでは、わたくし本庄亜美、イッツンの思いをしっかり受け取りましたから! ちゃんとスズに、伝えておくから!」

「や、だから伝えなくていいんだって」

「うん、分かった!」


 本庄は敬礼のポーズを崩さないまま、教室の方へ駆けて戻って行った。

 途中で先生に見つかって、「本庄ォ! 廊下は走るなァ!」と怒られている。


「……本当に分かってんのかな、あいつ」


 俺は頭を掻きながら苦笑した。


* * *


 単語帳のページを繰っていると、小林樹が視界の隅のドアから車内へ入ってきた。

 なるべくそちらに目をやらないようにしながら、彼が目の前の長椅子の角に座るのを、それとなく見守る。


 野球部の小林樹は、校内一の努力家だ。

 この時間の電車に乗っていたのは、彼の方が先だから。

 私の方が先だったら、大手を振って私が一番だと言えたけど。


 毎日同じ時間の電車に乗って、毎日二人だけのグラウンドで汗を流すうちに。

 私はなんとなく、彼を目で追うようになってしまった。


 別にイケメンではないし派手さもない。

 同じクラスの野球部のやつに聞いた限りでは、特別野球のセンスがあるわけでもない。それなのに、なぜか気になってしまう。

 その「気になる」感じは、日が経つにつれてますます強くなっていった。

 

 2年の時、大きな大会を目前にして、怪我をしたことがあった。

 正直、心が折れそうになった。泣きそうにもなった。

 でも、泣かなかった。

 泣いたら今の悔しさが全部、晴れてしまいそうな気がしたから。


 当時の私は、同じクラスの畑中から、小林のことをそれとなく聞き出していた。

 彼との接触が増えたせいで、一時期あらぬ噂が立てられたらしいことは、最近亜美から聞いたけど。


 ともかくその畑中の見立てだと、小林はベンチ入りメンバーの当落線上にいるらしい。そう聞いた時、私はなんとなくこう思った。


 1年近く、スタンドから他の部員を応援していた小林がもしベンチ入りできたのなら、私にだって、やれないことはない。私だって、この怪我から復活できるはずだ、と。


 だから、心の中でこっそり彼を応援した。

 奇妙な話だけど、彼のベンチ入りにこれからの私がかかっていると、半分本気で信じていたから。

 まあ、願掛けのようなものだ。

 当時はメンタルがおかしかったので、そのくらいは許して欲しい。


 毎日、私のいなくなったグラウンドに一人出て、一人汗を流す小林。

 その光景を教室からずっと見てて、その後彼がベンチ入りを果たしたと聞いた時。


 私は初めて気付いた。

 自分の中に、願掛けとは最早関係ないところで、純粋に彼の勝利を喜ぶ自分がいたことに。


 でも、ベンチ入りしたらしたで。

 今度は小林が試合で活躍できるのかとか、そもそも試合に出られるのかとか、そんな不安が湧いてきた。

 おかしな話だ。彼本人とは、一度も喋ったことがないのに。


 それで、お守りを作った。

 試合で活躍できますように、試合に出られますように。

 そんな思いを込めて、作った。


 できたお守りは、畑中経由で渡してもらった。

 私本人から彼に渡すなんて、とてもじゃないけど無理だったから。


「私の名前は、出さないで。畑中が作ったってことにして」


 とも条件を付けた。

 だって、たぶん彼は、私のことなどそんなに気にしていないはず。

 話したこともない女子から急に手作りのものを貰ったところで、重いと思われるだけだろう。


 畑中は気にし過ぎだと思うけどな、と言ってくれたけど、そこだけは頑として譲らなかった。

 結局、彼は折れてくれた。目立つところに結んどけって言っとくよ、と笑っていた。


 翌日、電車に乗ってくる彼の鞄に、私の作ったお守りが結ばれているのを見つけた時。言いようもない幸福感を覚えた。

 にやけが止まらず、英単語帳で必死に口元を隠した。

 でも、もしかしたら小林には、バレていたかもしれない。


 迎えた最終学年。

 昨年の反省を踏まえ、私は怪我しない程度に自分を追い込むよう、細心の注意を払って練習した。記録会ではいつになく良いタイムを出すなど、調子は最高。

 今年こそインターハイに行ける、いや、行くんだと心の底から思い込んでいた、そんな矢先。


 隣のクラスの小林と亜美が、付き合っているという噂を耳にした。

 亜美と小林は席が前後で、二人がよく話しているところを見かけるらしい。


 まあ、亜美は誰とでも「よく話す」から、それだけじゃ根拠としては弱い。

 私と畑中の間に立てられた噂だって外れてたんだから、そもそも噂なんて当てにならない。そんな風に必死に言い聞かせてみても、不安は拭えない。


 そこまできてようやく私は、ある一つの事実にはたと気が付いた。

 話したこともない男の子に、私は恋をしているのだと。


* * *


 朝練を終え、授業を終え、放課後の部活を終えた後の帰り道。

 亜美と二人すっかり暗くなった道を歩いていると、彼女が不意に、


「そういや、スズにあげたいものがあるんだった」


 と鞄をごそごそし始めた。

 急に何? と思いつつも、私は彼女を無言で見守った。

 しばらくして、亜美が取り出したものを右手に掲げる。


「じゃじゃーん! こちらのキーホルダーです!」

「……猫」

「そう、猫! ちょっとスズに似てるような気がして、買っちゃいましたァ」

「……私に?」


 亜美の掲げたそれをしげしげと眺めた。

 確かに、こういうのは嫌いじゃないけど……。


「この猫、ちょっとブサイクじゃない?」

「ええ!? そんなことないでしょ! カワイイよ、だってスズに似てるんだよ!?」

「私に似てるからって、カワイイとは限らないと思うけど」


 言いながら受け取って、もう一度じっと見つめる。

 やっぱり、ちょっとだけブサイクだ。

 でも、妙にクセになるような形をしているのも事実。


——そうか、あいつに似てるのか。


 そこに思い至ると、急にその猫が愛おしく思えてきた。

 もちろん、あいつは別にブサイクじゃないし、なんならこの2年で随分凛々しくなったような気がするけど、そういうことじゃなくて、このクセになってしまう感じがちょっと似ている。


「……ありがと。嬉しい」


 自然と顔が綻ぶ私を優しげな目で見つめていた亜美は、


「ちゃんと、鞄の目立つところに付けとくんだぞー。親友の愛は重いからなー?」


 と冗談っぽく私を肘で突いてきた。

 やめてよ、と笑いながら、言われた通り、そのキーホルダーを鞄の持ち手に付ける。


 噂を聞いた時の不安が晴れたわけではないけれど、心はどこかスッキリしていた。


 亜美相手なら仕方がないか。そう思えた。


* * *


 本庄に頼み事をした翌日。

 いつもと同じ時間の電車に乗ると、向かって正面のいつもの場所に小川が座っていた。彼女はいつも通り英単語帳に目を通している。


 ただ、一つだけいつもと違うのは。

 彼女の鞄の持ち手に、猫のキーホルダーが付いていたこと。


「あっ……」


 驚きと嬉しさからか、思わず声を上げてしまった。

 目の前の小川にも、その声は届いていたようだ。

 彼女は単語帳から顔を上げ、形のいい眉を軽くひそめるようにして、じっとこちらを窺っている。


 ばっちりと、目が合った。

 この2年間で一度も生まれなかったきっかけが、予期せぬ形で生まれた。


 やばい、何か言わなきゃいけない。

 未だかつてないこの状況に、脳みそをフル回転させて言葉を絞り出す。


「えっと、その……小川、だよな? C組の」

「……そっちは確か、小林だったよね? B組の」

「うん、そう……というか、よく知ってるね、俺の苗字」

「まあ、野球部のキャプテンだし……電車でも、ちょくちょく見かけるから」

「そ、そうか」


 そこで一度、会話は途切れた。気まずい沈黙が、その場を覆う。

 何か、何か話題を捻り出さないと。

 こちらが焦り始めたその時、 小川の方から口を開いた。


「……座る? 隣」

「え? ……でも、いいのか? その、俺なんかが隣に——」

「私は別に、構わないけど」


 つい出そうになる卑下の言葉を聞きたくないというように遮って、小川が言う。

 彼女の声は、心なしか震えているような気がした。


 もしかしたら、緊張しているのかしれない。

 それでも彼女は、勇気を出してこちらに一歩踏み込んでくれた。

 なら、俺もそれに応えないと。そう思うと、不思議と勇気が湧いた。


「……じゃ、遠慮なく」


 小川の身体に触れないよう、肩を精一杯窄めて座った。

 その距離まで近づかないと分からなかった、彼女の匂いがフワッとこちらまで漂ってくる。何が何だか分からなくて、やっぱり俺は何も言えなくて——。


 ふと、例のキーホルダーが視界に入った。

 そうだ、こうなったそもそもの原因もこいつだった、と思い出し、その場しのぎの話題にとそれを指差す。


「……その、キーホルダー」

「……ああ、これ? 友達から貰った。本庄亜美って子。B組だから、小林も絡みあるかも」

「うん。というか、前の席」

「そっか。……どう、亜美?」

「どうって、まあ、普通にいいやつだと思うけど……」


 小川は探るような目でこちらをじっと見つめた後、ふっと息を吐いた。

 それから、キーホルダーの猫を撫で、軽く微笑む。


「……ちょっとブサイクだよね、こいつ」

「そ、そうか? そんなことないと思うけどな」

「同じこと、亜美も言ってた」

「……へえ、そうだったのか」

「……何、今の間。なんか怪しい」

「え? いや、怪しいことなんかないって。フツーだよフツー」

「ほんとかな?」

「ほんとだって」

「……」


 再びこちらをじっと見つめる小川相手に、冷や汗を流しながらも沈黙を保つ。

 すると、小川がくすりと笑った。

 冗談、と彼女は言い、なんだ、と俺はほっと一息つく。


 それからまた少しの間、その場に沈黙が舞い降りた。

 でも、さっきよりは居心地がいい。

 不覚にもキーホルダーが、1年分くらいの距離を縮めてくれたみたいだ。

 もう1年分は、自分で頑張るしかないけど。


 そんなことを考えていると、今度は小川の方が「……それ」と何かを指差した。

 その指の先を目で追うと、そこにあったのは昨年純平から貰ったお守り。

 俺がこれ? とお守りに触れると、彼女はこくりと頷く。


「……そっちと同じで、友達から貰ったんだよ。畑中純平ってやつ。って、ウチのエースだし、小川も知ってると思うけど」

「うん、去年同じクラスだった」

「そっか……まあ、なんだかんだで気に入って、ずっと付けてるんだ。ご利益があるかどうか、ちょっと微妙だけど」

「……私はあると思うけど、ご利益」


 その時の小川の声に、ほんの少し不満げなものを俺は感じた。

 隣を窺うと、そっぽを向いて軽く口を尖らせる彼女が見える。拗ねているみたいだ。


 その顔を見ていると、なんだかたまらなく彼女が愛おしく感じた。

 野球とは全く関係ないけど、確かに今のこの状況は、ご利益があると言えるかもしれない。そう思った。


「……やっぱりあるかも、ご利益」

「でしょ?」


 俺が意見を翻すと、小川はなぜか勝ち誇ったように笑う。


* * *


 電車が学校の最寄り駅に着いた。

 それまでの時間は、あっという間のようにも、永遠のようにも感じられた。

 不思議な時間だった。まるで魔法がかかってたみたいだ。


 鞄を肩にかけて立ち上がると、隣で小川も同じようにしている。

 自然と二人、並んでドアから出る格好になった。


 なんとなく顔を見合わせてから、同時に駅のホームへ一歩踏み出す。

 朝日の眩しさに目を細め、改札口へ向かおうとしたその時——。


 彼女の右肩にかかっている鞄に付いたキーホルダーと、俺の左肩にかかっている鞄についたお守り。

 二つが持ち主の動きで揺れて、そっと触れ合うのが視界の端に見えた。


 魔法はまだ解けてない。そんな気がした。

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[一言] てぇてぇを運ぶ爽やかな風が四方八方からやってきて押し潰されそうです
[一言] 尊い… 部活を引退した後の2人の行く末もきっと尊いんだろうなぁ…
[一言] てぇてぇ… 浄化されてきえてしまふ…
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