65話 白髪の少女再び(1)
蓮は今、人生最大の危機に直面していた。
スイーツバイキングへ行った後、瑠依達と別れて家に帰ってきた蓮が玄関で靴を脱いでいると、目の前でやなぎが息子を待ち構えるようにして立っていた。片手には白色のブラジャーが握られている。
「このブラジャー、アンタの部屋にあったんだけど…どういう事?」
「あ…そ、それは…」
母の手に握られているそれは間違いなく蓮の所有物だった。
女の体になってからしばらくは、胸の周りにサラシを巻いてなんとかやり過ごしていた蓮だったが、ある日瑠依にその事がバレた時、「ブラジャー買うまで任務禁止!」と言われて以降、渋々ブラジャーを買うようになった。最初は慣れなかったが、段々付けていくうちに慣れてきたその矢先にこれだ。
親がいない時にこっそり手洗いをして、自分の部屋の見つかりづらいところでこっそり乾かしていたのだが、どうやらそれも水泡に帰したようだ。
やなぎは蓮がまだ女の体のままである事を知らない。蓮は親の前ではチョーカーを必ず付けるようにしているので、やなぎの目には蓮が元の男の姿として映っている。つまり、やなぎからすれば、男の蓮の部屋から女物のブラジャーが出てきたという冷や汗の出るような話なのだ。しかし、冷や汗が出るのはやなぎだけではない。蓮も同じだった。どう説明すればこの状況を乗り越えられるのだろうか。やなぎは射貫くような目つきで蓮を見ている。
「蓮、ちょっとこれ…結構大きいサイズじゃない…?」
気にするところはそこなのだろうか。
「あ、あの。違うんだ母さん。それはその…」
まだ言い訳が思いつかないまま、焦りのあまり蓮は目をぐるぐるとさせる。このままでは変な誤解が生まれる―――そう思ったが、次にやなぎから出た言葉は意外なものだった。
「もしかして、前に女の子の体になった事と関係あったりするの?」
蓮は驚いて目を見開いた。いつも天然気味の母親にしては妙に察しが良い。しかし本当の事を言うわけにもいかず、どう答えようか迷っているところに、やなぎはため息をついて言った。
「母さんには言えないような事なのね。やっぱり魔法が関係しているのかしら」
「前から思ってたけど、何で母さんは頑なに魔法を信じているの?普通は信じないと思うけど…」
「そりゃあ…私は実際に見たからね。魔法」
「え、それは一体どういう…」
「ちょうどいいわね。ちょっと来なさい」
やなぎは戸惑っている蓮の腕を掴み、ぐいと引っ張ってダイニングルームへ連れて行った。
☆
蓮とやなぎはダイニングテーブルに向かい合って座った。一体何を聞かされるのだと、蓮は心が落ち着かない様子でいると、コップに注いだ麦茶を蓮の前に置いたやなぎは、静かに話し始めた。
「…母さんね、一度死にかけた事があるの」
「げほっげほっ…え?」
やなぎの唐突な切り出し方に、麦茶を飲んでいた蓮は咳き込んだ。
「蓮がまだ五歳くらいの時だったかな…買い物帰りの途中、近道をしようと思って、裏通りの狭い道を歩いていたら…後ろから刺されたの。刃物で。後ろを振り返ったら男がいたわ。帽子を被っていたから顔は見えなかったけど…多分三十代前後って感じかしら」
「え…それでどうしたの」
「助けを呼ぼうとしたけど、周りには誰もいなかった。人通りの少ない道だったのよ。携帯を出そうとしたけど先に男に取られてた。うつ伏せの状態で倒れて、とにかく痛くて…その様子を男はずっと見ていた。しばらくしたら、その男は一言『コイツも違うか』とかなんとか言ってその場を去ったわ。私の携帯はちょっと離れたところに捨てられていたけど、もうそこまで歩けるほどの力はもうなかった。ああ、私はここで死ぬんだなって思った瞬間、気がかりだったのはアンタたち二人の事だった。まだ小さいのにこんなところで私が死んだら、きっとこの先苦労する。それは嫌だな…そう思ったの。そしたら、一人の白髪の女の子が私の顔をじっと覗くように見ていた。本当に前触れもなく急に出てきたから、びっくりしたのよ?女の子は一言『嫌なの?』って聞いてきた。そりゃ勿論死にたくないから私は頷いたわ。そうしたら女の子の姿は消えて―――気付いたら私は無傷の状態に戻っていた。刃物に刺された事がまるでなかったかのように、綺麗さっぱり何もかも、流れた血も消えていたの。夢を見ているような気分だった。こんな事あり得る?でも実際に起きた事なの。あれはもう魔法としか、そうとしか思えない。きっと、女の子が魔法で治してくれたのよ。その日から、私は魔法を信じるようになった…って、聞いてる?蓮」
蓮はやなぎの話を終始呆然とした顔つきで聞いていた。母の話は、あまりにも衝撃的だった。母の前に現れた少女は、おそらく蓮の前に現れた少女と同一人物だろう。特殊魔法は親から受け継ぐ。自分は母の特殊魔法の能力を受け継いだのだと、今の話を聞いてそう確信した。しかしそれが特殊魔法だと言うわけにもいかず、蓮は少し話を逸らすために質問をした。
「そんな話初めて聞いたよ。てか、犯人捕まえないとじゃん。母さん刺したんだろ?」
「そう思ったけど…でも私、無傷の状態に戻っちゃったのよ?刺されましたって言っても信じてもらえないと思ったの。それに、当時は混乱してて、あれは実は夢だったかもしれない、なんて思ったりもしたの。この話をした事自体、蓮が初めてなのよ。他の人に言っても信じてもらえないもの。蓮も信じてないかもしれないけど」
「…俺は信じるよ。その後、白髪の女の子と会う事ってあった?」
「いいえ。それっきりよ。次に会ったらお礼を言いたいわね」
「そっか。ありがとう。母さん」
蓮は母に一言礼を言って席を立ち、自分の部屋へと向かった。
母の過去を聞かされ、頭の中でその話がぐるぐると回っている中、蓮は部屋の扉を開けると、ある事に気付いた。
ベッドの真ん中の部分が少し盛り上がっている。まるでそこに、誰かが隠れているような。恐る恐る掛け布団を捲ってベッドの中を覗いてみると、白髪の少女―――錐野が死にかけている時に現れた少女がひょっこりと顔を出した。




