110話 ある少女の日記(6)
目を開けて最初に視界に入ったのは、白い天井でした。どうやら回夢が終わったようです。ここは夢の中ではない、現実の世界。毛布を退けてベッドから出ると、椅子を前後逆にして座っているアルゥが私をじっと見ていました。
「どうだった?回夢は」
「疲れた。それよりまだ蓮君が…」
「焦る気持ちはわかるが、回夢は連続で使いすぎると体に負担がかかるぞ。少し休めよ」
それはそうかもしれませんが、あんな未来を視てしまったら休む気にもなれません。
あの公園での不可解な出来事―――蓮君が何者かに乗っ取られているように見えました。紫夜さんの体から出てきたあの黒い霧が、蓮君の体を乗っとろうとした?あの黒い霧は、影を倒した時に出るものに似ている。まさかあれは、影?
「お前は赤崎錐野に頼んで二人の影から来条蓮を守るようにお願いした。それ自体は間違っていない。だが、せっかく助けてもその後、来条蓮は影に体を乗っ取られて死ぬ」
「やっぱりあれは影なのね。でも、どうして蓮君が」
「んー。理由まではまだ教えられないなあ。釣り合わない」
「釣り合わないって?」
「未来視の魔法ってのはな、加減が難しいんだよ。あまりお前に未来を教えすぎると、今以上の代償が必要になってしまう。だから、今払っている代償に見合う程度の情報量、それを俺が考えて調節してんの。未来視ってのはそれだけ強力で扱いが難しい魔法なんだ。わかる?」
それは知りませんでした。つまり、アルゥが時々説明なしで詳しいことを教えてくれないのは別にいじわるしているのではなく、代償と力のバランスを考えていたからだと。
「じゃあ、蓮君が乗っ取られた理由は私自身が探さなきゃいけないってことね。回夢を使って」
「ん、いや。今回は回夢じゃない」
「え?どういうこと?」
「ヒントは外にある。だから外に行け、智花」
「え、でも……」
私は今、人前に姿を出せない。そう言おうとした時、部屋の扉をノックする音が聞こえました。そして私の名前を呼ぶ声が。母です。
扉を開けると、人が一人入るくらいの大きな袋を背負っている母が立っていました。部屋に入ってきた母は、壁に立てかけるようにしてその袋を置いて中身のものを取り出すと、見覚えのある人形が姿を現しました。
薄桃色のはねた髪が特徴的な少女の人形。それは、回夢で見た私の分身となる人形でした。母は、人形をそっと持ち上げて近くにあった椅子に座らせました。
「糸形さんに注文してた人形よ。これから外に出る時は……」
「知ってる。私自身はこの部屋にいたままで、この人形に自分の意識だけ入れて動かすんでしょ」
母は一瞬驚いた顔をしましたが、すぐに表情を戻して言いました。
「そうよ。それと今後、智花が外へ出る時は偽名が必要になるの。それでね、母さん考えてきたんだけど…花城夢乃、なんてどうかしら。気に入らなかったら変えていいんだけど…」
少し照れくさそうに笑う母。なるほど、最初に偽名を聞いた時に悪くないなと思ったのは、母が考えた名前だったからか。
「うん、可愛くて良い名前だね。ありがとうお母さん」
「智花……」
私は感謝の言葉を述べたはずですが、母の顔は悲しそうで、その声は震えていました。
「ごめんね、智花。母さん、智花が加藍にならなくてもすむように、影が出続ける現状をなんとかしようと頑張ってたのに、こんなことになるなんて。本当にごめんね。辛いよね」
「母さん……」
攻撃特化の特殊魔法を持つ母は以前、Sランクチームに所属していた魔法使いでした。今は引退していますが、現役時代は多くの影を倒したとか。
そんな母は今、影が出現する理由について研究しています。未だ解明されていない影が発生する仕組み。影を退治し続けていても、大本の原因がわからなければ現状は変わらないままですから、とても大事な研究です。
私は母を尊敬しています。だから、悲しまないでほしい。私は母に大丈夫だと伝え、人形を使って外へ出てみることにしました。
★
現界はいつもと変わらない平和な雰囲気に包まれていました。澄み渡った青空に白い雲がゆっくりと流れています。午前十時、もう蓮君は学校に行っている時間です。
人形に自分の意識のみを移すことは、思ったより違和感がありませんでした。もちろん、自分の肉体ではないので最初は不思議な感覚がありましたがそれもすぐに無くなり、すんなりと人形の操作ができました。糸形家の作る人形は人間の肉体に似せて作られていますから、そのおかげでしょうか。
この人形を作ってくれた糸形迷さんの人形師としての腕に感心しつつ、私はかつて蓮君たちと遊んだ公園へ向かいました。
公園へ着くと、休日の賑わいが嘘かのように静かでした。ブランコに座っている女性一人だけがいて、他は誰もいません。アルゥは外に行けと言っていたけど、それは外に何かヒントがあるということ。とりあえず公園に来てみたけど、ここには手がかりはなさそう…そう思って踵を返したその時、ブランコに乗っていた女性の視線を背中に感じました。
振り返ると、女性はにっこりと笑って手を振りました。
「ねえ君!私が必要なんじゃない?」
「……え?」
突然声をかけられてまともな返答ができないでいると、女性はブランコから降りてこちらに近付いてきました。綺麗な若緑色の髪を持ったその女性は、どこか浮世離れしている、不思議な雰囲気を持った人でした。
「やあ、初めましてお嬢さん。何かお困りごとがあるんじゃないの?力になるよ」
「え、それは……えっと、貴方は?」
「んー。影、と言ったら通じる人かな?君は」
影、彼女は確かにそう言いました。スカートのポケットから魔視石を取り出して彼女にかざすと、青色に光りました。この人は何か知っているみたいです。とりあえず話を聞いてみることにしました。
「貴方は青色の影……どうして、私が困っていると?」
「私はね、私の魔法を必要としている人が直観的にわかるの。私の魔法を必要としている人がいる。そう思ってね。ここにいたら会える気がしたからブランコで暇つぶしてたの。ああ、名前言ってなかったね。私はエリナ。貴方は?」
「えっと……夢乃です。花城夢乃」
「夢乃ちゃんね。で、どう?悩みを聞かせてくれない?」
エリナと名乗るその影は上背があるその体をかがめ、私と視線を合わせました。嘘偽りのない、そしてどこか期待を含んだその瞳を見ていると、彼女が善意で私と接していることが伝わってきます。この人なら相談に乗ってくれる。そんな気がしました。
「私、助けたい友達がいるんです。でも、その子がその……影に乗っ取られるかもしれないんです。どうしてそうなるのかはわからないのですが、助けたくて……どうしたら友達を助けられると思いますか?」
こんなこと急に聞いても困るだろうなとは思いつつ話をすると、意外にも彼女は何かに納得したような顔をしていました。
「なるほど、そういうことね。じゃあ、私の魔法が役に立つかもしれないね。私の魔法、転性変化の力が」
エリナさんは私の方を見て、任せてと言わんばかりの目で自信たっぷりに笑いました。




