10話 すってんころり
「照原?知らないな」
「相手はお前の事を知っていたぞ。錐野、お前有名人なの?」
「んー、気にした事なかったな」
自分の話に興味を示さない様子の錐野に、蓮は呆れてため息をつく。
学校から帰宅後、蓮は錐野の家に来ていた。今日から蓮が魔法使いになる為の特訓が始まる。蓮は魔法使いの修行用服を着て、既に準備は万端であった。
綺麗好きな錐野の部屋には必要最低限の物以外は一切置かれていない。読書好きな彼の本棚には、ぎっしりと推理小説が並んでいる。錐野は寝転がって本を読んでいたが、起き上がって言った。
「よし、じゃあ鏡界へ行くか」
「おう、よろしく頼む。やっぱり昨日の変なところに行くのか?人形が喋るあの…」
「繋ノ間な。そこに行って今日は別の場所に繋げてもらう。ところで蓮、お前さ」
「ん?」
「虫は得意か?」
何だその質問は、と思いながら蓮は首を傾げる。虫は嫌いでも好きでもない。見た目に不快感のない虫ならどうという事でもない。芋虫やムカデ、Gはさすがに嫌だが、別に虫が特段苦手という訳ではない。蓮は「大丈夫だと思う」と答えた。
錐野が鍵を取り出して昨日と同じように真っ暗な異空間を作り終えると、2人は鏡界へと向かった。
★
『ようこそ、繋ノ間へ。どこへ行かれますか』
昨日は気味が悪かった喋る人形も、2回目となると少しは慣れてくるものだ。慣れって怖いな、そう思いつつ、まだ恐怖感が拭えない蓮は隠れるようにして錐野の後ろへ回る。
「錬ノ間へ行きたい」
錐野が答えると、人形は3つの扉のうち、真ん中の扉の鍵を開けた。扉を開けると、星ノ間の時にはあった長い階段はなく、ドーム状の建物内に繋がっていた。
そこは大きな広場のような場所で、白いタイル状の床が敷かれている。そしてその床を覆いつくすかのように、僅かに黒く光る沢山の生き物が這うようにして動いていた。蓮が目を凝らしてその生き物をよく見てみると、それは虫の形をしていた。
「ひいっ。でかい虫が」
芋虫、蟻、ダンゴムシ等、様々な虫がいたが、どの虫も黒一色であった。問題はその大きさである。どれも通常の虫よりもはるかに大きい。蓮の足元をムカデがゆっくりと這っているが、全長2メートルはある。
「あれが影だ。お前にはあれらを退治してもらう」
「か、影って虫なのか?」
「いや、影の形は様々だ。獣みたいなのもいるし、人間にそっくりな奴もいる。目の前にいるのは影の中でも一番弱い部類だな」
「へえ…でも、どうやって退治するんだ?俺まだ魔法とか使えないんだけど」
錐野は壁に立てかけてあった木製の棒を手に取り、それを蓮に向かって投げて渡した。それを受け取った蓮は怪訝な顔をする。
「…木の棒にしか見えないが」
「ただの木の棒だ。これから、それに魔力を流す特訓をする。魔力は、魔法を使う為に必要なエネルギーの事だ」
蓮は試しに手に持った木の棒を軽く縦に振るが、特に何か起きる訳でもない。これであの得体の知れない生物達をどうやって倒すのか、全く見当もつかない。
「これで本当に魔法使いの特訓になるのか?」
「なるさ。その木の棒を使って、体内に流れる魔力の動きを操作する練習をするんだ。魔法を使えるようになるには、体に流れている魔力をコントロールする力が必要だからな」
「待て、俺の体にも魔力が流れているのか?」
「人間なら誰にでも流れている。ただ、使い方がわかならい人が多いだけで、誰にでも魔法使いになる素質はある」
「マジかよ…」
初めて知った事実に、蓮は驚きを隠せなかったが、いつまでも時間を食ってはいられない。自分の命がかかっているのだ。錐野も時間を割いて教えてくれているのだから、一秒たりとも時間を無駄にする事は出来ない。
蓮は決心して木の棒を構える。大丈夫だ、運動神経はいい方だし、こんな虫すぐに倒せるだろう…そう言い聞かせながら右端にいた芋虫に似た影へ向かって走る。
しかし、蓮は大事な事を忘れていた。自分が女の体になってからまだ日が経っていない。
体格が変化したばかりで体の勝手がいまいちわかっていなかった為、芋虫型の影に躓いて前のめりになって転んだ。錐野がそれを見て吹き出して笑ったので、蓮は睨みつける。
「笑うな錐野!マジで痛え…って、うわ!」
うつ伏せの状態から起き上がろうとした時、巨大なムカデのような形をした影が蓮の右足に巻き付いてきた。振り払おうと蓮は必死に足を動かすが、中々離れない。ムカデ型の影に苦戦していると、今度は左の腕に芋虫のような形をした影が這っていた。
いつの間にか、蓮の周りには影で取り囲まれていて、彼は身動きが全くとれない状態になっていた。蓮は錐野に助けを乞うに目線を送る。
「ひいっ。気持ち悪!錐野!どうすればいいんだ?」
「うーん、こんな事普通ないんだけどな。随分影に好かれているみたいだ。よかったな」
「嬉しくない!木の棒もどっかいったんだけど!うわっ、服引っ張んな!」
スカートに噛みついた蟻型の影を退けようと、蓮は足をじたばたさせるが、微動だにしない。武器になるはずの木の棒の上には影が乗っていて隠れてしまい、見つける事が困難な状態になっていた。
その有様を見て錐野は「世話の焼ける奴だ」と、まんざらではない顔つきで言った後、木の棒を影の中から探し出した。
「いいか?蓮。木の棒の力だけじゃコイツらは倒せない」
錐野は手本を見せるように、蓮の上に被さっていた複数の影を棒で振り払う。振り払われた影は虫の形が崩れていき、最後は黒い霧のようになって消えてしまった。
影から解放された蓮は、若干疲弊しながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「すげえ、影が一瞬で消えた。どうやんの?それ」
「自分の体に流れている魔力を木の棒に流すのさ。お前は今、木の棒で叩いて影を倒そうとしたが、それは意味がない。木の棒に魔力を流す事で、棒自体の攻撃力を高める必要がある。肝心なのはどうやって魔力をコントロールするかだ」
「魔力と言われてもなあ…」
魔力、というのがいまいち蓮にはピンとこなかった。そんなものが本当に自分にも流れているのか。血液と同じように体内を巡っているのだろうか。全く実態が掴めないものをコントロールしろと言われても、中々難しい。
「最初は魔力のイメージが難しいからな、お前が悩むのも無理はない。よし、蓮。一回木の棒を構えてみろ」
「お、おう」
蓮が木の棒を刀のように構えると、錐野は体を寄せながら、彼が構えている手の上に右手をそっと添えた。錐野は黒の皮手袋をしているからか、触れた手はひんやりと冷たい。
錐野が手を添えた瞬間、蓮の手にふわっとした感覚があった。それは、何か見えない力のようなものが手を通っていったかのような、不思議な感覚であった。
「今、なんか手がふわっとした」
「そのふわふわしたのが魔力だ。俺が今、お前の手を介して木の棒に魔力を流したんだ。何か見えるか?」
「何も見えないけど、錐野は見えるのか?」
「ああ、はっきりとな。修行を積めば、魔力の形も見えるようになる。大事なのはイメージだ。今のふわっとした感覚を覚えとけ」
錐野には、自分が流した魔力がはっきりと見えている。それは蝋燭についた火のように淡くゆらゆらと光を放っている。蓮にはまだ、それが見えていない。
「イメージかあ…今のふわっとしたのが体に巡っている感じ?」
「そうだ。この錬ノ間では、通常の空間と比べて魔力を引き出しやすいような造りになっているんだ。だから、イメージとコツさえ掴めば、いずれお前もコントロール出来るようになる。まずは、魔力を完全にコントロール出来るようになるまで、ここで特訓してもらう。いいか?」
「おう!頑張ってみるよ!命がかかってるしな!」
こうして、蓮の魔法使い修行は幕を開けた。




