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輪廻

作者: ゆづる

暴力シーンがあります。苦手な方、不快に感じる方はご遠慮下さい。




 夜のドライブ。

 夜景が見たいと言った私の一言で、今日のデートは街を見下ろせる山の中腹まで行く事になった。

 恋人、佐武秀治の運転する車の中で、次々に現れる鬱蒼とした木々を見ていた。その暗闇には得体の知れないものが潜んでいる気がして寒気がする。一人では絶対に来れないなと思った。


「紗希、寒い?」


「ううん。大丈夫」


 そう言ったけれど彼は暖房の温度を二度上げてくれた。そういう優しい所が好きだな、と思った。

 私は付き合いたてのこの彼氏を今までで一番気に入っている。

 私達が働いている会社は大きくはないけれど、堅実に成果を上げる仕事ぶりで部長という要職に就いているし、真面目でかつユニークな性格は私のお気に入りだ。

 出来れば結婚に持ち込みたい。彼なら、浮気の心配もなさそうだし、少なくはない給料を毎月確実に納めてくれるだろう。何より、私ももうそんなに若くない。


 目に入る景色が、森の代わりにごつごつした岩肌になった頃、車の速度が徐々にゆっくりになった。


「あれ」


「どうしたの?」


 みるみる速度は落ちて、メーターを見ると針は10を差している。


「なんだろう。おかしいな」


 ゆっくりゆっくり進みながら、ちょうど少し開けた場所が見えたから、そこに停車した。すると、たちまちエンジン音がしなくなり、暗闇と静寂が私たちを包んだ。


「ちょっと、まじかよ」


 秀治がキーを回しても、さっきまで当たり前に働いていた熱機関が動く様子は無かった。


「故障したの?」


「そうかもしれない。保険会社に連絡して来てもらうしかないかもな。紗希、ごめんな」


 彼は車から降りて、ボンネットを開けた。私も車から降りて彼の隣にならんで、ボンネットを覗き込んだ。私が見たところで何も分からないんだけど。


「ごめん、俺こうゆうの全然ダメなんだ」


 いかにも反省してますといった眉の垂れた秀治の顔が、ちょっと良いな、と思った。


「しょうがないよ。保険やさんに電話しなよ」


「……ごめんな。そうする」


 秀治は、車内に戻ってしばらくしてから、再び車外に出てきた。携帯電話を睨んでいる。


「おかしいな。圏外だ。」


「私ので掛けてみる?」


 私は車のドアを開けて、助手席のバッグから携帯電話を取り出した。ディスプレイを見ると、圏外の文字。


「私のも圏外だ。街の反対側だから、電波が届かないみたいね」


 実際、ここからは夜景が見えない。


「ちょっと下った所に公衆電話あったよね?俺、行ってくるから、車で待ってて」


「うん。気をつけてね」




 歩いて行く秀治が見えなくなった頃、途端に心細くなる。やっぱり一緒に行けば良かった。

 車に戻ろうとドアに手をかけた時、後ろから妙な気配を感じた。

 さっきまでは何ともなかったのに、きっと一人になったから心細くなってしまったんだ。

 何気なく振り返る。

 あるのは一面の岩肌。暗闇の中聳え立つそれに、呑まれてしまいそうな微かな恐怖感を覚える。

 見上げた視線を下に戻すと、何か白い物が見えた。

 目が縫い付けられたように、その白い物から意識を反らせない。よく見ると幼い子供くらいの大きさの石があり、白く見えていたのは注連縄(しめなわ)のようだ。何かを祀るように石に注連縄が巻かれているのだ。

 それに気づいた途端、その存在感は大きくなり、意識の全てはその石に支配される。


 目が合った。


 見ているのは只の石なのに、そう、感じた。背中を百足が這い回っているような、生理的な不快感。

 それでも、視線は離せない。


 背中を伝う汗。纏わり付くような焦燥感。愛しい、感覚。


 頭に靄がかかったような、浮遊感を感じた。ダメだ。思考は激しく警鐘を鳴らすのに、それすらぼんやりと感じた。

 女の顔。石に女の顔が浮かんだように見えた。蒼白な、のっぺりとした、表情が、にたりと笑う。

 ゆっくり近づいてくる。不吉な顔が迫って、現れた腕は地面を這う。


 心臓の鼓動を感じる。生きた体温。生命の流れる血管。生きた肉。私の物だ。


 女の死んだ目と見つめ合ったまま、体は動かせない。視界が闇に包まれる中、女の姿をリアルに感じた。意識が冷える。

 いつしか女の二本の脚が現れ、ゆっくりと立ち上がる。その痩躯がゆらりゆらりと、蜃気楼のように揺らめきながら確実に私を捉えているのが分かる。

 ダメだ。捕まる。いつの間にか、手を伸ばせば触れる距離に女がいる。ぽっかりと空いた、暗闇の瞳。その暗闇が私を闇へ落とす。


 首が動いた。拳を握る。まばたきをする。眼前に在る、忌々しい石。

 心が歓喜に震えた。


 ぼんやりと見える、赤。その向こうには白。遥か向こうに、小さな小さな緑の光。空虚な私の心。


 視線を巡らす。首を回すと、変化する景色。ついに、この時がやってきたのだ。もういいだろう。繋がりを断った。


 赤い服の女がいる。その向こうに、白い車。遥か遠くに見えるのは、公衆電話だ。秀治が出てくるのが、何故か手に取るように分かった。彼がこちらに向かって歩く姿が、大きな岩肌に隠れた。

 赤い服の女が動く。その赤いコートは、今年の初売りで買った物だ。

 白い車は、私が先ほどまで乗っていた秀治の物。

 赤い服の女はだれ?



 ……私。



 私だ。




 秀治が戻って来た。

 声を掛けようとしても、声にならない。

 彼に駆け寄りたい。

 顔を見たい。


 どうして。


 『私』が秀治の方を向いて、笑いかけたのが分かった。秀治が微笑む。


 秀治、それは私じゃない。声に出そうにも、叶わなかった。 二人は話をしている。女が何かを秀治に言った。車が治った。そう言ったのが何故か分かった。

 女は携帯電話を取り出した。

 画面を彼に見せる。彼はそれを見て、自分の携帯電話を取り出して見た。

 電話を掛ける秀治。

 我が物顔で車の助手席に乗り込む女。

 運転席に向かう秀治。


 ダメ。


 行かないで。


 私は、ここに居るのに。




 秀治は車に乗って、いとも簡単にエンジン音が響いた。 二人が笑っている。


 車が動き出して、下山する方向へ向かった。すぐに見えなくなる。

 遠くの公衆電話を見ていると、秀治の白い車が再び現れて、またいなくなった。思えばここに来る時、あの辺りから車が減速しだしたように思う。



 私は、置き去りにされて、悟った。






 私は体躯を奪われたのだ。


 あの、死んだ目の女に。




 注連縄のされた石。それが今の私だ。



 どうしようもない絶望感。

 秀治は何故、気付かないのか。黒い感情が渦巻く。


 悔しい。


 憎い。


 悲しい。


 悲しい?


 切ない。


 切ない?


 意識の中に、私のものではない、仄暗い感情がある気がした。

 さっきも感じた感覚だ。あの女と目が合いながら、肉体への執着心を感じた。


 そうだ。


 私とあの女の一部が混ざり合っているのかもしれない。こうなってしまってはどうでもいい事だろうけど。


 だけど、私の一部は私の身体に留まって、きっとあの女を苦しめるに違いない。根拠もなくそう思った。



 意識だけになってしまった私は、視線を巡らす事も出来ずに、無愛想な静止画をただ眺めるだけだった。


 それは気が遠くなる程、長い長い時間。







 長い間。


 ずっと長い間、ここに留まっている。


 夜の夜景も見えない。 昼の快活さも感じられない。


 景色は気が遠くなる程緩慢に、のろのろと移ろう光と闇を繰り返すだけだ。


 小さな動物が時に視界に入ってはフレームアウトする。目で追うことも叶わない。


 夜には、ここに来た日の彼と私のように、夜景を見に行く車が時折通り過ぎた。




 思考する時間は潤沢に在る。

 それ程考えなくても結論はすぐに出たけれど。

 身体を、奪い返したい。


 自分の身体に戻りたいけれど、あの女がここに戻って来るとは思えない。

 この際、誰の体躯でもいい。私の物にできれば。



 私は訓練を始めた。


 車を止める。


 自分の存在感を増幅させ、注意を惹きつける。


 人の思考に入り込む。


 人の人格を追い出す。


 長い、長い時間をかけて出来るようになった。車を止め、注意を喚起し、意識を繋げる。

 だが、ターゲットの気が逸れると忽ち切れてしまう。一人きりになってもらわなければ。


 二人連れなら、私の時のように携帯電話を使えなくして、一人を公衆電話へ誘導すれば良い。


 長い、長い時間をかけて機会を待った。




 あれから二、三年経過したように思う。


 絶好の機会に恵まれた。


 闇に溶ける漆黒の車の男女。


 逃してはならない。


 車が停車して男女が出てくる。男がボンネットを見ている。


 無駄な事を。逃さない。

 携帯電話を見つめる二人。


 繋がらないに決まってる。絶対に逃さない。男が去り、女が残り、女を乗っ取る。私の人生が再生する筈だ。


 男が女を突き放す。紙切れを渡す。女は頼りない足取りで去った。


 男が残る。


 私は迷った。ターゲットは女に絞っていたのに、残ったのは男だ。


 どうする。


 どうする。


 私は欲求に従う事にした。男でも、女でも構うものか。身体を、手に入れたい。

 一刻も早く、この場所から離れたいのだ。


 意識を集中させると、男がこちらを見た。目が合う。戦慄に震える黒眼。

 私は舌なめずりをする。実際に舌はないのだけれど、これから手に入るのだ。


 じっくり、焦らず、確実に。


 律動する心臓。流動する赤い血。


 もうすぐ、手に入る。


 男の恐怖心、戸惑いが分かる。それらは要らない。追い出す。


 声帯が震えた。眼球を動かすと景色が変わる。愛しい、愛しい感覚。


 目の前には忌々しい石が見えた。

 もう充分だ。


 この見知らぬ男を、断ち切った。




 しばらくして、男と一緒に居た女が戻って来た。息を切らしている。


「裕二、ごめんなさい。賢治くん、ケータイ出なくて……あの……」


 女があからさまに怯えながら話し掛けてきた。賢治という友人をここに呼べと、この女に言いつけた記憶が頭に浮かんだ。

 私は裕二。この女の名前は涼子だ。裕二は21歳、涼子は23歳。

 『裕二』の記憶はいとも簡単に取り出せるようだ。そして、裕二がとるべき行動も。


「馬鹿。とれぇんだよ。帰るぞ」


「で、でも車、動かないんじゃ……」


 涼子は恐る恐る私を見た。メイクしてない顔は一見地味に見えるが、良く見るとバランスの取れた顔立ちをしている。


「ハナから壊れてねぇよ。お前を走らせてみたかったんだよ。それに、賢治が公衆電話からの怪しい電話なんか取る訳ねぇだろ」


 私は涼子の頭を叩いた。彼女は傷付いた顔をしてよろめく。


「大袈裟にふらついてんじゃねぇよ。殴られてぇのか」


 自動的に吐いて出る、罵倒。身体に染み付いた、男の行動パターン。


 私の一番嫌いなタイプの男だ。


 でも、体は自分の思い通りに動かせる。問題はない。


「帰るぞ、涼子」


 私と涼子は車に乗る。運転するのは彼女だ。



 ちらりと注連縄の石を見ると、男の倒錯した感情がそこに在るのを感じた。




 私は、あなたに成り変わります。



 さようなら。







 私が山で身体を盗られてから、実は半年程しか経っていなかった。

 男の身体を奪ってもう三か月。


 私は涼子と同棲している。正しくは裕二と同棲していたのだけど。2LKのアパート。

 何故か、秀治の元に行こうとは思わなかった。どういう訳か、涼子を手放したくないのだ。彼女から離れられない。

 彼女には沢山の痣や切り傷がある。私の中の、裕二がやったのだ。

 白い肌に浮き出た醜い痣が、裕二の独占欲を満たしているのが分かった。


「おせぇよ。どこ行ってた」


 骨太の左手が、涼子の髪を鷲掴みにする。繊細な造形の顔がくにゃりと歪む。

 汚い言葉が喉まで出て、堪える。

 右手で彼女の鳩尾を殴りそうになるのを、堪える。

 男の衝動は堪えれば堪える程、膨れ上がってどうしようもなくなる。私は必死に堪える。彼女を殴った後、どうしようもない後悔と懺悔の思いで押し潰されそうになるからだ。


「さっさと飯作れ」


 乱暴に涼子を解放すると、彼女は少し目を丸くしてから急いで料理に取りかかった。

 以前に比べて暴力が減ったのだろう。私が殴るのを我慢すると、彼女は少し驚いた顔をする。

 前殴った時に、怪我の治療をしてやったら、その時もかなり驚いていた。

 以前の裕二なら、ぼろぼろになった彼女を置き去りにして部屋を出てしまうからだ。


「あっ」


 皿の割れる音。

 涼子が皿を割ったのだ。

 ばか。

 みるみるうちに腹の底から怒りが込み上げる。とても抑えられそうにない。

 涼子の酷く怯えた表情。それを見ると殴らずにいられない。


 胸倉を掴んだ。目の前に顔を引き寄せる。

 彼女の目にはっきり浮かんだ、恐怖、怯え、絶望。

 駄目。

 殴っちゃ駄目だ。

 痛いほどに拳を握りしめ、なんとか堪える。


「くそ。こっち来い」


 涼子を引き摺って寝室へ行き、乱暴にベッドへ投げる。

 そして、自己中心的に、嗜虐的に、彼女を抱いた。彼女はただただ目を瞑って、行為が終わるのを待つ。貝のように、しっかり口を閉じて。


 私が彼女を解放すると、のろのろと割れた皿を片付けに行った。私になって、彼女を抱いたのは3回目だ。こういう時、裕二の存在をはっきり感じる。心は冷えているのに、男性の機能はしっかり果たしているからだ。私は、この性交渉が嫌で嫌で堪らない。

 涼子が別室にいるのをいいことに、声を殺して泣いた。




 数日後のある日、叩きつけるような激しい雨の中で仕事を終えた、ずぶ濡れの私が帰った時、涼子は部屋にいなかった。

 ずぶ濡れのまま部屋に上がり、すぐに彼女の持ち物が無くなっていないか確認する。服も通帳もあるから、出て行った訳ではなさそうだ。


 ほっとすると共に、酷い憤りが私を支配する。もう随分彼女を殴っていないから、日頃から、薄くなった痣を見る度に訳もなく焦燥感に襲われていたのだ。

 今日は堪えられそうもない。涼子と顔を合わせると、絶対に殴ってしまうだろう。


 部屋から出て行こうと扉を開けると、ちょうど赤い傘を差した涼子が立っていた。


 なんで居るんだ。


 私は絶望しながら、彼女を罵る汚い自分の声を聞いた。


「どこの男に体を売ってたんだ」


「いくらで売った?」


「お前は汚ねえメス豚だな」


 やめて。


 涼子の悲しげな表情。


「なんだその顔」


 もう、言いたくない。傷付けたくない。


「余程殴って欲しいみたいだな」


 殴りたくない。


 涼子の諦めた表情。


 彼女を部屋に引っ張り込む。開いたままの赤い傘が外に置き去りになった。

「望み通りにしてやるよ」


 いや、殴りたくない。傷付けたく、ない。


 勢いをつけて、彼女の頬に拳を叩きつける。歯が折れる、感触。水滴が飛び散る。

 台風に煽られたダンボールみたいに、一瞬空を舞って体が吹き飛んだ。


 痛い。


 酷い顔の涼子。

 口から血がでて、涙にまみれた顔を歪めている。


 痛い。


 私の中には変わらず暴力に捕らわれた心が渦巻いているのが分かる。


 涼子に近づく。

 足を上げる。

 彼女は体をダンゴムシみたいに丸めた。


 思い切り、踏みつける。


 痛い。もう、止めて。


 か細い肩を、痣の残る腕を、華奢な腰を、枝のような足を、何度も何度も踏みつける。


 心が痛い。

 彼女を傷付ける度、私も傷付く。

 彼女をぼろぼろにする程、私もぼろぼろになる。


 何回か、骨が折れた感触が伝わってきた。あばらや腕が折れた。


 頭には血が上ってしまっているが、どこか冷静に考えている。

 決して殺してしまわないように。


 生殺しにする。


 最低。


 最悪の男だ。



 長い間、涼子を殴って、蹴って、踏みつけて、彼女がぼろぼろの雑巾みたいになった頃、恍惚とした甘い気持ちが体を満たす。


 愛情と呼ぶにはあまりに醜い、執着心。


 動かなくなってしまった涼子を見て、やっと満ち足りた気持ちになった。


 同時に感じる嫌悪感。

 自分に対する、裕二に対する、憎しみ。


 どうして傷付けるの。

 どうして我慢できないの。

 どうして満足するの。

 どうして嬉しいの。


 私には理解できない筈なのに、感情が湧き上がる。


 私の感情?

 裕二の感情?


 きっと、二人の感情だ。


 私も彼も、暴力に喜びを感じて、同時に憎んでもいる。


 どうしようもない。

 自分では。




 涼子は骨折しているので、仕方なく救急車を呼ぶ事にした。

 土砂降りの雨の中、近くの路地まで彼女の身体を引きずって運んだ。ぼろぼろの身体を道路に寝かせ、携帯電話の119を押した。


 救急車を待ちながら思った。本当に最悪な人間だ、私は。


 叩きつける雨粒を涼子の傷付いた身体が受け止めている。雨は誰にも平等に、私の罪悪感や悔悟を、激しく叩いた。




 二日後、涼子が目を覚ました。病院には、通り魔の犯行だと言ってある。


「裕二」


 彼女の、今にも消えてしまいそうなか細い声を聞いて、心が震えた。彼女が死んでしまわないか、気が気じゃなかったのだ。

 全く自分勝手で嫌になる。


 彼女は黒く濡れた瞳で私を見た。どきりとする。その目は、あまりに無垢で、あまりに優しい。


「ごめんね」


 何を言われたのか、分からなかった。


「裕二、ごめん」


「……何が」


 我ながら、蚊の鳴くような小さな声に飽きれる。


 涼子は一つ、まばたきをした。一粒、宝石みたいな涙が零れた。

 その涙があまりに美しくて、泣きたくなった。手の届かない、彫像みたいな美しさだ。


「私、あなたから離れるべきだった」


 涼子は静かに語る。


「あなたがとても苦しんでるの、知ってた」


 違う。そう言いたくても、言葉が出ない。


 傷付いたのは涼子で、苦しんだのも、耐えたのも彼女だ。


「でも、離れられなかった」


 綺麗な眉が歪んで、彼女は暴行を受けている最中よりも痛そうな顔をする。


「あなたが、壊れてしまいそうで」


 また、白い頬に涙が流れた。


「あなたに、酷い女だって思われたくなかったの。あなたを、受け入れたかった。放って置けなかった」


 その言葉が、刺さる。血が滲みそうに、痛い。自分は彼女を殴った拳以外、かすり傷一つ負っていないのに。


「でもそんな事、言い訳に過ぎない。二人の関係を、ダメにしたのは私。私たち、お互いに傷付け合ってたね」


 違う。私が、裕二が、一方的に。

 苦しい。胸が悲鳴を上げる。


「ごめんなさい」


 伏せた目の濡れた睫を見ながら、理解した。涙に濡れた頬を見て、思った。


 もう、繰り返す訳にはいかない。執着心は、彼女を傷付けるだけだ。


 別れの時が来たんだ。




 回診の医者がやって来た時、私は意を決した。早く彼女の元を去らなければ、きっと同じ事を繰り返してしまう。


「先生、彼女を暴行したのは、この怪我を負わせたのは俺です。すぐに警察を、呼んでもらえますか」


 涼子は大きな瞳を丸くして、私を見た。

 私は、彼女に呟くように言う。


「ごめんな」


 最初で最後の、あまりに軽すぎる謝罪。




 ふと、山に置き去りにした裕二を思った。

 あの変化のない、苦痛な満ちた日々。それでも、彼女を殴った日々に比べれば、何の苦痛もないだろう。

 私はいつの間にか秀治の事も、自分の紗希という名も忘れてしまったのだ。

 今思えば、ずっとあのまま、あの何もない山に居れば良かった。


 きっと、裕二は心安らかにあの場所に居るに違いない。

 私は無責任に、そう思った。







 涼子……俺になりすまして、涼子を奪って行ったあの女が憎い。


 取り返さなくては。


 俺の、涼子を。




 どうすればいい。



 そうだ、身体が必要だ。

 身体が、欲しい。




初投稿で、読みにくい点があったと思います。評価や意見を頂ければ幸いに思います。

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― 新着の感想 ―
[一言]  ご依頼ありがとうございます。それでは評価のほうをしていきたいと思います。  いつも私が評価するときにみる点を、すべてクリアした素晴らしい作品であったと思われます。トリックは予想外の展開で…
[一言]  どうもHarry英仁と申します。  ご依頼ありがとうございます。返事が遅くなり大変失礼致しました。  作品を拝見致しました。評価と感想を書かせて頂きます。  文章についてですが、一人称視…
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