小西6/翔英3
「カズくんはまだみたいだね」
存外あっさり発見できた「途中で止まってる防火シャッター」を潜ると、コンビニは目と鼻の先だった。
一部壁の代わりにシャッターが下りており、その上に大きな看板を掲げている。隣のシャッターの上にも控え目に看板が出ていたが、見覚えの無い店名からは業種を察する事は出来ない。
「案内図でも、コンビニは玄関から少し離れてたな」
大体の位置関係を覚えていても防火戸の影響で意味を成さなくなっているから困る。道が分かっている様子の一樹に迎えに来て貰えるのは非常に有り難かった。
「ねえ、変な音しない?」
フロア案内図を脳内で描いていると、裾を引いて美加が訴えてきた。その怯えた様子にまた何か起こっているのかと耳を澄ます。
すると、微かにキィ、キィ、と金属が擦れるような音が聞こえる。懐中電灯を廊下の暗闇に向けて音源を探すが、それらしき物は見当たらない。
キィ、キィ、と音が徐々に大きくなる。この音、此方に近付いて来てやしないか。
最大限に警戒し、金属音に対して身体を斜めにする。美加と二人、固唾を飲んで音源を待ち構えた。
悍ましげな予想を裏切って光の中に姿を現したのは、一樹だった。
「おっコニ、みっか!」
「……カズ?」
「車椅子、カズくんどうしたの!?」
思わずといった態で美加が掴んでいた裾から手を離し、数歩大きく踏み出す。
此方へと向かって来る一樹は、車椅子に乗っていた。金属音は車椅子が動く度に鳴り響く。恐らく車輪に油が足りないのだ。
「ああ、ちょっと色々あってな。足怪我したから立てねぇんだわ」
驚いて視線を移した脚は、長く垂れ下がる膝掛けのような布に隠れていて怪我の程度を確かめる事は出来ない。もしかしたら、見られない為に掛けているのかもしれない。
「えっそれって大丈夫なの?」
「車椅子乗ってるから問題ねぇよ」
美加は恐らくサッカーの事も含めて聞いたのだろうが、一樹はその意図は察せなかったようだ。
それ以上踏み込むのは憚られたのか、彼女は曖昧に頷く。
「まあそんで、一人じゃ厳しいから協力して欲しくて電話したんだ。頼み聞いてくれたら代わりに出口教えるからさ」
「う、ん」
一樹が交換条件を出してきた。その事に衝撃を受けて返事がぎこちなくなった。一樹はこれまでは何時も真っ向から意見や要望を言ってきていたというのに。その上出口までの道筋を人質に取るなど。
漂う違和感に、話すには些か遠い位置で車椅子を止めた一樹へと自分から距離を詰めようとは思えなかった。
そういえば、彼は明かりになる物を何も持っていない。
「コニ、みっか。一緒にマリンを探してくれ。今も一人で怖がってるかもしれないんだ。頼むよ」
一樹は真凛に対して此処まで盲目的だっただろうか。以前から彼女を中心に物事を考える傾向が強かったのは確かだ。しかし、彼の――翔英の名前が一樹の口から一度も出ないのは違和感しか無い。二人は自分と翔英より余程仲が良かった筈である。
「このカーディガンも会って返さなきゃなんねぇんだ」
そう言って一樹は、今まで自分が膝掛けだと認識していた布を摘まみ上げた。
次の瞬間、美加が圧し殺した悲鳴を挙げて後退り、脚が縺れたのか自分の隣で尻餅を突いたのが分かった。
「みっか? 急にどうしたんだ?」
きょとんとした顔を、広げて見せた布の横から覗かせる一樹の脛から下が、存在していなかった。半端に千切られたようになっているカーゴパンツの裾に隠れて切断面は見えないが、ソコから視線を逸らせない。
頭の妙に冷静な部分でああそうか、と納得した。膝掛けが真凛の着ていた上着だとすぐに気付けなかったのは、テロンとした軽そうな素材のストライプの上着が、今は布地が吸った血液が縞の枝に大輪の華を咲かせていて重そうに見えたからだ。
美加の荒く不安定な呼吸音とドクドクと鳴る自分の心音が耳の中で混ざる。
粘度の高い赤い液体がポタリ、とカーゴパンツの裾から落ちた。色彩の無い無機質な床に、鮮烈な彩りが加えられる。もう、血が殆ど出ていないのか。
「マジで大丈夫か? コニも黙ってどうしたよ?」
よく見れば有り得ない程に蒼白な顔を訝しげに歪めた一樹が上着を膝に置き直し、ハンドリムに手を掛けたのを見て我に返った。
逃げなければ。
「みっかっ」
彼女を力ずくで引き起こし、その手を取って踵を返す。
「もうちっと優しく、っておい!?」
美加自身の意思でも足を動かしてくれている。
一樹を無視して、走りながらシャッターを再び潜った。
「まてまて、二人ともどこ行くんだよ!? おれを置いてくなよっ」
既に別モノになってしまっている癖に、何時もと同じように話し掛けられると心が苛まれる。足を、緩めたくなる。
「ああもうっ、こっちは車椅子だっつってんのに!」
直後、背後でキィィィ、と金属音が鳴り止まなくなった。最初に聞き付けた時の何倍もの速度で車椅子が追って来ているのだ。やはり、一樹はもう自分の知る一樹ではない。
「おーい、まてって!」
予想より近くで聞こえた声にギクリとした。このままでは追い付かれる。
目に付いた防火戸の潜り戸へと体当たりして開く。車椅子なら開けるのに苦労する筈。
「き、きてるっまだきてるよ!」
背後を確認してくれていたらしき美加が焦った声を挙げた。どうやら防火戸では大した足止めにはならないようだ。ならば、どうする。
走りながら目を必死で動かす。何か無いか。この状況を打開出来る、何か――。
「――っきゃあああ!」
悲鳴を挙げた美加の手がするりと右手から抜けた。慌ててブレーキを掛けて振り返る。
「あーやっと追い付いた」
車椅子に乗った一樹が、美加の腕を掴んでいた。彼女は懸命にその手を引き剥がそうとしている。
「や、いやっやだ! 離してっ」
「お前らなぁ、せっかく合流したのに置いてくとか酷すぎねぇか」
一樹は全力で抵抗されているのに歯牙にも掛けずに呆れた顔を此方へと向けている。此処に来ても彼の態度は普通だ。その事にゾクリとする。
「そんなにマリン探すのが、嫌か……?」
「いっ!? 痛い、離して! やだ、痛いぃ」
不意に顔を伏せた一樹の雰囲気が変わった。嫌な予感がする。彼の指が、美加の腕に食い込んでいる。
不味い、早く彼女を助けなければ。
――覚悟を、決めろ。
視界の端に転がる目を引く赤い円柱に素早く手を伸ばす。持ち上げると、想像以上に重量がある。これなら。
伏せた顔を上げようとする一樹の表情を見たくなくて、躊躇無くその側頭部へと消火器を振り下ろした。
「離せっ」
「ゴァッ?」
派手な音を立てて車椅子ごとソレが倒れる。持っていた消火器を投げ捨て、代わりに自由になった美加の手を再度握ると、逃走を再開した。これで倒せたとは思えない。
足の無いアレが追って来られない場所――階段へと急ぐ。正面玄関からは遠ざかるが、背に腹は変えられない。
美加は、恐怖の余り泣き出していた。
彼女の手をぎゅっと握り締める。手の震えが、彼女に伝わってしまわぬように。
――― ―――
必死で逃げ込んだ部屋の扉を無理矢理閉める。バンッと大きな音が鳴って、自分の失敗を悟った。
「ねェーショークん、そこニ何カアルの?」
この部屋に居るのがあのバケモノにバレている。
退路を探して小さな診察室と思われる部屋の奥にあったもう一つの扉に飛び付いた。
「っ嘘だろ!?」
施錠されている。ノブを激しく揺すっても、簡単に壊せる代物じゃない事が分かっただけだった。
「ナニしテンのー?」
――っどうする!? どうする!!
狭い診察室に、焦りで上滑りする目を走らせる。どこか隠れる場所はっ!?
「真凛サん、トウッジョー!」
勢い良く扉を開ける音に反射的に下げた足が丸椅子を蹴り、擦過音を立てた。
「ア、トなリダッたかー」
――自爆するなんて最悪だ!
扉の音は隣の部屋から聞こえて来たのに、過剰反応したせいで場所が完全にバレたようだ。
足音が近付いてくる。
シーツで被われた診察台の下、というやっと見付けた隠れ場所へと腹這いで滑り込んだ時には、足音は扉の前で止まっていた。
最悪は回避できそうだと安堵しかけて、手に持った明かりを見てハッとする。咄嗟に腹の下にスマホを置いて体で光を押し潰した瞬間、扉が開いた音がした。
「しョーークン! アレ?」
俺自身の呼吸が耳に入り、慌てて口を塞ぐ。
何も見えない暗闇にペチャ、ペチャ、と濡れた足音が移動していく。
「ドア開カナイヨねェ? どコイっタノカナー?」
奥の扉をガチャガチャ揺らす音が聞こえた後、部屋の中をあちこち歩き回る音がする。
「ドコかナー? ココカな?」
金属製のロッカーを開けるような音。
――見付かるな、見付かるなっ!
探る音がする度に跳ねそうになる身体を抑えると、どんどん息が上がっていく。激しい心臓の鼓動が体の外にまで聞こえるんじゃないかと恐くなる。
――マジで、お願いだから!
ふと、足音が止まった。
何も見えない、聞こえない恐怖になど耐えられない。少しでも情報を得られないかと一心に耳を澄ます。
直後、顔に生温い風が当たった。湿度を持った、生臭い、空気。
「みィツケタ」
恐怖が弾けた。
「っああああ、あいっうぁああ!!」
何を叫んだのかも分からないまま、顔に吹き掛けられた声から遠ざかろうと我武者羅に後退る。
すると急に視界が回復した。俺が上から退いた事で、スマホの画面の光がシーツを捲って床に蹲る真凛の顔を下から浮かび上がらせている。
「アレッコレあタシノ! ミツケテくレタンだ! サッスガ翔クン!」
バケモノの手が俺のスマホを大事そうに拾い上げた。
その反応の理由が分からず、チラッと画面を確認すると、そこに写っていたのはあの皮だった。そういえばライトのためにずっとカメラを起動していたんだった。何時撮影ボタンを押してしまっていたのかはさっぱり分からないが。
写す気もなかった気持ち悪い皮のお陰でバケモノの気が俺から逸れた。写真に夢中になっている今がチャンスだ。
出来る限り音を立てないようにそっと診察台の下から抜け出し、バケモノの後ろをゆっくりと通る。今にも恐怖で声が漏れそうだが、ここでバレたら終わる。そんな確信があった。
「イッシょニサガシテもラオウト思ッテタノニー、もーコウイウサプライズダイ好きダヨ!」
バケモノの歓声に肩が跳ねた。
――っ! あっぶね。
口から心臓が飛び出す程の驚きと恐怖を何とか飲み込む。
開けたままの扉から気付かれずに出る事に成功し、壁伝いに廊下を歩く。走って逃げ出したくとも真っ暗で出来ない。無茶してまた音で捕捉されたら今度こそ逃げ切れないだろう。
――俺は全く何も見えないのにあのバケモノはこっちが見えるとか、何の冗談だ!
とにかくバケモノから遠ざかる事だけを考えてジリジリ焦りを募らせながらも静かに廊下を歩いていたら、少しずつ落ちている物が見えるようになってきた。目を凝らせば、廊下の先に板張りされていない窓が月光を取り込んでいるのが見える。
期待に押されて景色を確かめに走り寄れば、外には鬱蒼と生える黒々とした木々。これは、踊り場から見えた景色と同じ――中庭のようだ。
大きな落胆と焦りがせめぎ合う。今の所アレが来ている様子は無いが、確実じゃない。
他に何か無いかと思考と視線を巡らせると、見覚えのある階段のピクトグラムに目が止まった。
――撒くには階を変えた方がいいかもな。
防火扉を潜る時には更に細心の注意を払って音を殺す。完全に扉が閉じたのを確認して、一目散に二階へと逃げ込んだ。
二階の廊下を小走りに進み、適当な扉を開けて中に飛び込む。扉を閉めて内鍵をかけた所で限界が来た。
「う゛っう゛ぉえ゛っ! ゲホッ」
扉の横で吐く。食道をせり上がってくる塊に生理的な涙が浮かび、鼻がツンと痛む。
「うっゴホッ、はあ、はあ」
ズルズルと手探りで部屋の隅を探す。角を探り当て、その壁にぴったりと背中を付けて膝を抱えて座り込んだ。
どれくらいそうしていただろうか。扉にある磨りガラスに招かれた淡い月光により、徐々に暗闇に慣れてきた目が物の輪郭を捉え始めた。
傍らの立看板のような物を虚ろに眺める。そこにかすかに見えるランドルト環に、ここは眼科か何かだったのか、とぼんやりと思った。
――もう嫌だ。ここから出たくない。俺にはもう無理だ。
自身の吐瀉物が放つ刺激臭も気にならない。あの生臭い異臭に比べたら何倍もマシだった。
――カズ、みっか、……コニ。
皆ならどうするだろう。
俺は、動けない。明かりも失って勇気など出せるはずもない。俺は――。
「――なら私がご案内しましょう」
背後から肩を掴んだ手は、優しかった。
完結まで、残り02話
※ハンドリム
車椅子の車輪の横にくっ付いている金属の輪の事。自力で車椅子動かす時に握って前後に動かすアレです。
※ランドルト環
視力検査でお馴染みの「c」の正式名称。