35 末路/決意
明朝。
澄んだ空気を切り裂くように、一台の馬車が街道を駆けていた。その周りを数人の黒装束が守るように並走している。バース邸から脱出してきた、エイジムの一団である。
「クソ! クソ! あのジジイ!」
馬車の中でエイジムは地団太を踏む。彼は今、バース家から追われているのだ。アーリエに逃げられた後、エイジムは彼女たちを追うよう黒装束にわめくように指示していた。だがその最中にバース家護衛団に攻撃され、命からがら逃げ延びた。
理由は分からないが、拉致していたバース家の跡取りがいつの間にか救出されていたのだ。そうなればエイジムたちが報復対象になるのは当然ではあるが、それすら当のエイジムには理解できていなかった。彼はただ、どこかで歯車が狂った結果、理不尽な目にあっていると感じていた。
そもそも、アーリエが生まれてきた時から俺の不幸は続いているのだ。あの時から親父は俺のことを蔑んでくるようになった。組織と、ツヨシと知り合っていなければ、俺はまだあの視線に晒されていただろう。だが、親父が死んでこれから俺の天下だって時に、またアーリエがケチをつけやがった。
考えれば考えるほど、エイジムはアーリエへの怒りを貯めていた。次こそはそうはいかない、そう思っていた時だった。
ガタン!
不意に馬車が横転する。馬車から投げ出されたエイジムは、ゴロゴロと地面を転がった。
「グ……うう……この――」
全身の痛みにうめきながら無能な御者に怒鳴りつけようとしたエイジムであったが、次に目に入った状況に思わず言葉を失う。
黒装束とはまた違う、黒の奇妙なスーツを着た一団が行く手を塞いでいる。御者と馬車馬の脳天には矢が突き刺さっており、すでに息絶えていた。
投げ出されたエイジムを守るように、黒装束たちが前に出る。
「やあ、エイジム。元気そうで何よりだ」
大げさな声が響いた。その声に、エイジムは聞き覚えがあった。同じ黒いスーツを身にまとった、ひょろりとした男が一団を割って出てくる。
「ツヨシ……」
「久しぶりだな。貸したものを返してもらいに来た」
ドン・ツヨシ。エイジムが金を借り、そして金の代わりにアーリエを引き渡す契約をしていた組織のトップである。
「も、もう少し待ってくれツヨシ。私は貴人だ、約束は守る。それに、これまでも私は約束を守ってきただろう? それとも、貴人たる私の言葉を信じられないのか?」
その言葉は言外に貴族に対して何をしているんだという威圧が入っていた。だが、ツヨシは全く気にしない。
「ああ、約束は守るんだろう? なら、もう一つの約束を守ってもらおう」
「あ、あれは冗談というやつだろ? まあ、待ってくれ。きっとすぐに、アーリエを連れてくるさ」
そうは言いつつも、エイジムはまだどこか余裕があった。組織の長とはいえ所詮はゴロツキである。黒装束に指示をすれば、いつでも人質にとれるはずだ。
もともと、エイジムは目の前の男を心の底から軽蔑していた。確かに有能な男ではあった。だがそれは、下種の中で有能というだけであって、貴族と接するにはあまりにも格が足らないと思っていた。高圧的に接されるなど、もってのほかだ。
そもそも、なぜ貴人たる自分が、どこの馬の骨とも知れぬ優男に頭を下げねばならぬのだ。下種が貴人に金を貸したのだったら、それは献上したのと同じことのはずだ。それを取引だのなんだのと、小難しいことばかり言って、一体何様になったつもりなのだ。
だがそれも最後だ。
エイジムは踵をカツリと鳴らす。それを合図として、黒装束たちは一斉に、ツヨシに襲いかかった。
「馬鹿め! 前に出てきたのが運の尽きだ! 死ねぇ!!」
勝ち誇ったようにエイジムは叫ぶ。細いツヨシの体を、黒装束が埋め尽くした。
「フフ……ハハハ……ハァーハッハッハ――!?」
エイジムの高笑いは、信じられない光景を前に絶句へと変わる。黒装束が文字通り、ゴミクズのように宙を舞った。
「まったく。服が汚れてしまった」
パッパと、何事も無かったかのようにツヨシは服を払った。だが、その体は一回りほど膨張しているように、エイジムには見えた。
「お、おま、おまおまえ……」
「さて、つまらんことをしてくれたが……予定に変わりはない」
スッとツヨシが手を上げると、黒スーツたちはエイジムへと迫る。
「ま、待ってくれ!」
エイジムは必死に懇願する。この時、この瞬間になって、彼はようやく恐怖を覚えた。自らの命がもはや風前の灯火であると、いまさら気がついたのだ。
「ど、どうか私の命だけは……。そ、そうだ! 私には他に兄弟がいる! それを担保に、もう少しだけ待ってくれないか!?」
もはやなりふり構っていられない。全身から汗を流し、心の底から命乞いをしている。自らの命のためならば、実の兄弟の命などどうでもいいのだ。
そんな彼のもとへそっとツヨシは近づき、ささやく。
「契約書はちゃんと読むべきだ。そいつらはもう利子として貰うようになっている。それに――」
ツヨシはあくどく笑った。
「もう大量の注文が入っているんだ。“音魔法”の魔導具は人気でね。これ以上、顧客を待たせるわけにもいかない」
エイジムの顔が凍りついた。そんな彼に、にこやかにツヨシは肩を叩く。
「大丈夫だ。これまでの人生、君は誰からも愛されなかったかもしれないが、これからは違う。君はこれから大陸中に広がって、多くの人に愛されるようになる。誰も嫌う人はいないさ」
「待て、待ってくれ……」
「心優しい顧客もいてね。なんとセットで購入希望だから、兄弟と離れることもない。そんなに悲観することはないさ」
「あ、あ、ああ……」
エイジムの顔が絶望に染まった。これから自分がたどる未来が、はっきりと想像できてしまったのだ。それは文字通り、身を削る地獄だ。いやきっと、地獄のほうが楽だろう。
だが、そこまで予想が出来ても、もう抗う精神すらエイジムには残っていなかった。恐怖という感情が、彼の心をポッキリとへし折っていた。
顔を上げたツヨシはパチリと指を鳴らす。
「連れていけ」
「かしこまりました」
指示を受けた黒スーツたちは、呆然とするエイジムの両脇を掴んで立たせ、そのまま連れていった。
そんなツヨシの前に、一人の黒スーツが声をかける。
「ドン・ツヨシ。ご報告いたします」
「なんだ?」
「申し訳ございません。アーリエ嬢、およびケースケは足取りをたどることが出来ず、その、取り逃がしました」
全身に冷や汗をかきながら、黒スーツは報告した。機嫌を損ねれば殺される。さりとて、これが彼の仕事なわけで、それを果たさねばやはり殺される。ならば、殺されない可能性に賭けるしかない。それでも、死の恐怖というのは全身を震わせるのだ。
そんな黒スーツの恐怖など、一切歯牙にかけることもなく、ツヨシは少し思案したのち指示を出した。
「今日は最低限の目的は果たした。下部の連中には、引き続き奴らを探すよう伝達しろ。絶対に殺すなと、再度、厳に伝えておけ」
「か、かしこまりました」
黒スーツは露骨にホッとしながら、その場を離れた。それを見送ったツヨシは、ポツリと呟く。
「ふん。亡霊、掴むことかなわじ……なんてな。だが、俺は諦めんぞ」
そう言った後で、ニヤリと笑った。
・ ・ ・
時は少し遡る。
ある街道を、ケースケたちは警戒しつつものんびりと歩いていた。町はすでに遠く離れており、夜明け前の暗闇ではギラギラと光るバース邸だけが浮かんで見える程度であった。
彼らの行く先はすでに決まっている。奏の伝手で、十五年前のクラスメイトを頼りに行くのだ。そのクラスメイトは、いくつかの災厄を他のクラスメイトと一緒に退け英雄となったのち、現在では身寄りのない子供たちや魔法使いたちのための学校を開いているのだという。そのニュースはケースケも知ってはいたが、奏とつながりがあることは知らなかった。
何でも、奏の鋼鉄の手甲も、そのクラスメイトによって強化された特別製なのだそうだ。
行動は早いうちがいい。そう判断し、バース邸脱出すぐに、その学校へと彼らは進路をとったのだった。
「奏」
疲労のためか、アーリエはすでにケースケの背中で寝静まっている。そこからは無言で行動していたのだが、ここにきてケースケは奏を呼び止めた。
「なに?」
ゆっくりと、されど歩みを止めずに奏は聞き返す。だが、続くケースケの言葉に、彼女は思わず足を止める。
「アーリエを、頼めないか?」
「……私の耳がおかしくなったのかしら? それはどういうこと?」
明らかな怒気を含んで、奏はケースケに詰め寄る。だが、ケースケは目をそらさず、ただ首を振った。
「俺には、まだ因縁がある。それはアーリエ……娘を必ず狙ってくるだろう。だから、けじめをつけてくる」
静かに、だが決意のこもったケースケの言葉に、しかし奏は一歩も引かない。
「それはこの子をまた置いていくということ!? やっと子供らしい幸せを掴めたこの子を、京助くんはまたどん底に落とすってわけ!? ありえない、それはありえないわ!」
奏の呆れすら入った怒りを、ケースケは淡々と受け止める。彼だって、それくらいは理解している。だが、結果としてアーリエのためになるのはこの選択なのだ。
「その因縁ってなに!? あの豚のこと!? だったら殺しておけばよかったのよ!」
奏の言うことはもっともだ。だからケースケは、己の因縁を彼女に告げる。
「エイジムの心配はない。奴は恐らく、早ければ数日中にでも自分の行いのツケを払うことになる。あいつなら必ずそうする」
「あいつ?」
「……この世界に来たとき、俺を見捨て置いていった三人。小川大地、葛西祥子、そして|田中剛《たなか
つよし》。どうにも、奴らはこの世界で犯罪組織をつくったらしい。ウルク家に金を貸していたのも奴らの組織だ。そして、アーリエを狙っている」
「……そんな」
まさか元クラスメイトがそんなことをしているとは、奏は思わなかったのだろう。目を丸くして絶句している。
「そのうち大地は俺が始末をつけ、祥子は状況的にスカーに殺された。残るは剛だけだ」
そして、さらりとケースケが元クラスメイトを殺したと告げられ、より奏は言葉を出せなくなる。
「剛は……元の世界ではおとなしかったが、その実抜け目のないやつだ。大地、祥子が現場に出ている以上、奴が組織のトップだろうということは薄々察しが付く」
ちらりと、ケースケは背中に眠る少女の寝顔を見る。
「これは俺の因縁だ。俺が決着をつけなければいけない。奏、確かに俺は、この子と君のおかげで前に進めた。だが、前に進んだ以上、これは避けては通れないんだ」
「……殺すの?」
あえぐように、奏は言った。
「……ああ」
一言、決意をにじませた顔でケースケは頷いた。
夜明け前の暗闇よりも重い沈黙が、場を包んだ。そうして、少しの時間が経った。
奏は目をつぶり、ふぅとため息をつく。そして懐から紙を取り出すと、さらさらと何かを書き、ケースケに手渡す。
「これは……?」
「私たちが行く場所。必ず、必ず帰ってきなさいよ」
「すまない」
ケースケはそれを懐に大事にしまうと、奏に、アーリエを起こさないよう慎重に渡す。
「じゃあな。まあ、きっとすぐに行くさ」
「ええ、ちゃんとお帰りなさいって言ってあげる」
そっと二人は挨拶を交わす。そして奏はまた街道を歩きだした。
街道を一筋の風が吹き渡った。それは季節の移り変わりを感じさせる、冷たい風であった。
「ねぇ、京助くん――」
ふと、奏は振り返る。だが、そこにはすでにケースケの姿は無かった。




