28 豚
「なんで……」
カナデは思わず、疑問を口に出していた。いるはずのない人物が、そこにいたのだから。顔をしかめ、唇をかむ。
「お兄様」
アーリエが小さく呟くのが聞こえた。その声に、どんな感情が乗っていたかは測れなかった。
「やぁ我が愚妹よ。手こずらせやがって」
そこにいたのは、現ウルク家当主、エイジム・ウルクその人だった。
ここにくることがばれていた。そのこと自体は、無いとは言い切れない。逃げる先が隣国となれば、彼女の母の生家に逃げる、ということは真っ先に考えつくのかもしれない。だが、それにしたってバース家がしっかりと断ってくれるはずであった。
聞いていた話と違う。ナターシャ様の父であるデビットが、アーリエを匿う。これの了承を得ていたからこそ、彼女はここまで大胆な行動を起こしたのだ。それが、今になってはしごを外されるとは、まさに青天の霹靂だった。
「デビットさま! これはどういう――」
「端女が臭い口を開くなぁ!!」
「――ことですか!? あなたは自分の孫娘を、この豚に売り渡す気なのですか!?」
カナデの抗議を、エイジムは威圧的に遮ろうとした。もっとも、その程度の威圧でひるむカナデではなく、声を荒げてデビットに詰めよった。
その剣幕にデビットは、後ずさり、目をそらしながら答える。
「……状況が変わったのだ。しょうがなかったのだ」
苦し気なその返答に、奏はますます怒りをあらわにする。
「しょうがない!? いったいどんな“しょうがない”理由があれば、孫を売り渡せるのですか!?」
デビットはしかし、言ったきり、口を開かない。すると、エイジムが高らかに笑うかの如く、声を上げた。
「我がウルク家の情報収取能力を甘く見るなよ端女! 貴様らがこの家を目指すと聞いたときは半信半疑ではあったが、それさえ知ればできることなど山ほどある! 例えば、ヤツの息子を人質に取るとかなぁ!」
それを奏は振り返らず聞いていた。エイジムはともかくとしても、暗殺者集団を甘く見すぎていた。アーリエの話では、彼女たちに積極的にしかけてくることは少なかったという。つまり、その時点で、彼らはバース家を頼ることを見越していたのだろう。
この場をくぐり抜けるにはどうすればいいか。
「それにしても、期限間近で捕まえることができるとは、やはり私は素晴らしい! 貴き存在はやはり、運命に導かれているのだ!!」
べらべらと喋る、エイジムの偉そうな高説を背中に受けながら、奏は思案する。ちらりとアーリエを見れば、どこか達観したような表情で、それが彼女にはひどく悲壮に映った。
故に、腹はすぐに決まった。拳を握り、ぼそりとアーリエにささやく。
「お嬢様……。ご準備を……」
「え……?」
アーリエが聞き返すより前に、勢いよく奏は振り返り、だっと駆けだす。その腕には、いつの間にか鋼鉄の手甲がはめられていた。
「しょせん、下賤なものの考えることなど、貴きものには――は?」
喋るエイジムの顔が、驚愕に染まった。殺気を帯びた奏が躍りかかってくる様に、気がついたからだ。
空手仕込みの鋭い拳がエイジムに迫る、その瞬間。
「御免……」
一つの黒い影が、その間に割り込んでくる。影は奏の拳をいなすと、関節を極めながら背負い投げる。
「チッ!?」
奏は一つ舌打ちする。そして、自分から飛び、勢いで投げから逃れると、空中で体勢を整え着地した。
「……厄介な」
腕が折れていないか、痛めていないかを確認しつつ、彼女は現れた影を注視する。それは黒装束を纏った小柄な男に見えた。
「スカー! 出てくるのが遅いぞ! 怪我でもしたらどうするんだ!?」
「申し訳ありません」
「フン! 貴様はそればかりだな! もういい、その端女を殺してしまえ!」
「かしこまりました」
エイジムの癇癪に、スカーと呼ばれたその男はしわがれた声で答える。
そのやりとりの隙に、奏は仕掛けることができなかった。彼女は自分に武の才が無いと考えている。だが、それでも武道をかじったことがある身として、いわば達人というものぐらいはなんとなく分かる。
目の前の小柄な男はつまり、喋っている間でも一分の隙もない、そんな達人だということを彼女は肌で感じ取ったのである。
「これは、参りましたね……」
苦虫を噛み潰したような表情で、奏は呟いた。こちらから仕掛けるどころではない、むしろ隙を見せれば刈り取られてしまうだろう。張りつめた緊張の中で、奏は瞬き一つせず注目する。
と、スカーはスッと黒装束の中に手を入れると、素早く銃を取り出し、音もなく構える。
「!?」
この、一つ踏み出せばすぐにでも仕掛けられる距離で、まさか銃を取り出してくるとは。だが、予想外の行動ではあったが、奏は即座に対応する。
とっさに彼女が体をひねり、射線から外れるのと、引き金が引かれ弾丸が音もなく壁を抉るのは同時であった。
「シィッ!!」
背筋が凍りそうな感覚を覚えながらも、奏は果敢に仕掛けていく。
一息にダン! と踏み込み、敵の懐へと潜り込む。踏み込みの力を両足、腰、体を通じて拳へと乗せ、満身の一撃を繰り出す。
しかし、スカーはひらりとそれを避けると、すかさず防御の体勢に入る奏の手甲に、二発ほど拳を見舞った。
それは素早いものの、地に足のついていない、突きとしては不十分な代物であったはずだ。少なくとも奏にはそう見えていた。そして、それは思い違いだとすぐに分かった。
「ッ!?」
速度だけで力の乗っていないはずの拳は、右手甲にヒビを入れ、強烈な衝撃とともに奏を弾く。鋼鉄の中にあるはずの腕が、ビリビリと痺れ、受けたダメージは腕を伝って全身に響く。
ツッと口元から垂れる血を、彼女は忌々し気に拭った。
「ムゥ!? 硬いな……」
一方でスカーも、小首をかしげている。当てが外れた、というような様子であった。
それを眺めながら、奏は胸に去来した気持ちを拭いされなくなっていた。このまま戦い続ければ死ぬ、勝てない。
そっと、アーリエを見る。その態度こそ毅然としているが、こちらを見る彼女の瞳は、ほんの少しだけ不安に揺れているように見えた。
奏はそれを見て、少しだけ嬉しくなった。ウルク家別邸ではほとんど感情を見せることのなかったアーリエが、たった一か月半の旅の中でこうも成長してくれた。その過程を見ることができなかったのは残念だが、こうして結果が見れるだけでもありがたいことだ。
なればこそ、彼女の成長を奪ってしまう豚どもに、こんなところで捕まえられるわけにはいかない。勝てぬ戦いでも、勝たねばならぬのだ。
「フゥゥ……」
深く息を吐き、精神を集中させる。
手甲の残骸を捨て、左手甲を盾のように構える。古い友人が作ったこの手甲であれば、敵の攻撃を何とか受けることができる。盾で撃ち落とし、矛で撃ち貫く。カウンターの構えである。
イチかバチかの賭けではある。だが、やるしかない。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるのだ。
奏の闘気の高まりに呼応するかのように、スカーも構え、飛び込んでくる。彼ほどの達人ならば、カウンター狙いなど百も承知のはずだが、それでも攻めてくるのは自信の表れだろう。
必ず貫く。右拳をギュウと握りしめ、必勝の機を奏は待つ。素早く迫るスカーが、まるでスローモーションのように見える。
そして、彼の拳が繰り出されようというその瞬間。
間合いに躍り込む影があった。
「やめなさい!」
強烈な威圧感とともに放たれた言葉に、奏もスカーも動きを止める。
「!?」
「お嬢様!?」
アーリエであった。
「逃げなさいカナデ。私のために、あなたが死ぬ必要はないわ」
静かに彼女はそう言った。そのあとでスカーに振り返り、まるで彼の主のように命ずる。
「スカー。あなた方の狙いが私であるならば、彼女を殺す必要はないでしょう? 引きなさい」
口調は確かに静かであった。だが、その言葉の裏に秘められた強い意思に、スカーは苦渋するかのような動きを見せる。
「引きなさい」
もう一度、アーリエがそれを繰り返すと、スカーは完全に動きを止めた。
その光景に奏は、彼女がもはや、ただ庇護されるだけの少女で無いことを理解する。ピッタリと寄り添わなくとも、傷がつこうと立ち直れる強さを、彼女は身につけたのだ。
ほんのちょっぴり、奏はケースケに嫉妬する。そうして、すぐに思考を切り替えた。
助けるために手は尽くす。だが、そのためにも今は引くべき時だと、彼女は瞬間的に感じた。
「……アーリエお嬢様! 必ず、必ず助けに参ります!!」
そう叫ぶと、奏は全力で壁へと走り、そしてスキルを起動する。
目の前に迫る壁を通り抜けて外へ出ると、姿を隠したまま屋敷を脱出した。
・ ・ ・
「この無能が!! なぜ止まったぁ!!」
屋敷にエイジムの怒鳴り声が響く。
「申し訳ありません。追手は放っておりますので、吉報をお待ちください」
「そもそもあそこで貴様が殺していればよかっただろうが! たかが女一人にてこずりやがって!!」
そうしてひとしきり怒鳴った後で、「もういい!」と区切ると今度はアーリエへと振り返る。そして、ものも言わぬ彼女の前に、怒りの形相をあらわにしたまま立つ。
「よくも邪魔をしてくれたなぁ! 我が家に伝わる『音魔法』も使えぬ愚図が!!」
怒鳴りながらバシリと、彼女の頬を叩く。アーリエは思わず、倒れてしまう。
「御屋形様。顔は……」
スカーはエイジムを抑えるように言った。それを聞いて、エイジムはチッと舌打ちをする。
「クソ! あの下種どもとの話がなければ、その顔をズタズタに引き裂いてやるものを!!」
エイジムがグチグチといいながらイライラと歩き回っていると、倒れたアーリエが自身を見上げているのが見えた。怯えるでもひるむでもなく、ただ張り付けたような無表情であった。
とたん、激昂したように、エイジムはアーリエの春色の髪をグイとつかみ引き上げる。アーリエとエイジムの目が合った。
狂ったようにエイジムが叫ぶ。
「その眼! その眼が気に入らない!! 俺を見下す親父の眼を思い出して気分が悪い!!」
憎々し気にそう言い放つ。そして、もう一度アーリエを放り投げ、スカーに指示を出した。
「こいつをどこかへ閉じ込めておけ! そこのジジイも――」
突然の指名に、デビットはビクリと肩を震わせる。
「――愛しい息子を殺されたくなければ、下手なまねはするな!!」
エイジムの恫喝が、響くのだった。
遅くなりました、申し訳ありません。




