23 独りの夜
窓から射す光がオレンジになり、夕闇をはさんで柔らかな月光へと変わっても、ケースケはソファにもたれ、酒を飲んでいた。すでに二つ、酒瓶が空いている。
しばらくぶりの、独りの夜だ。その時間を、しかしケースケはひどく寂寥感を覚えながら過ごしていた。
チロチロと揺れるランプの火をぼんやりと眺めながら、時折グラスを傾け、胃の腑を焼く。それを長い間、ケースケは繰り返す。何かを思案しているようで、その実何も考えてなどいない。ただ、漠然とした焦燥や諦観を紛らすために、アルコールを体に入れているだけだ。
身体が熱くなる感覚はあったが、その一方で、全てを忘れて酔うことは出来てはいなかった。だから、グラスが空くたびに、隙間を埋めるように琥珀色の液体を注ぐのだ。
その時、コンコンコン、とノックが三回なった。
こんな夜に、いったい誰だ。今は誰とも会いたい気分ではない。ケースケは一瞬意識を向けただけで、ノックには何も応えず、またグラスを傾ける。
すると、少しして、ガチャリとドアが開いた。
鍵をかけてなかったのは失策だったか。そんなことをぼんやりと思いながら、ケースケはゆっくりと、入ってくるであろうものに視線を向ける。そして、見定めるようにすっと目を細めた。
「ケースケ……いいかしら……?」
「……アーリエ……」
それは、予想もしていなかった来訪者であった。いつもの見慣れた旅服とは違った、質素だが可愛らしい服を着たアーリエが、ランプの灯りに照らされて立っていた。
「その服は……」
それはいつか、ケースケが彼女に渡した服であった。ところどころ、しみや汚れがついている。荷物のほとんどを川で失ったはずだが、あの服は手元に残っていたようだ。
チラチラと灯りが揺れる中、アーリエはゆっくりと、いや恐る恐るとケースケに歩み寄る。ぼんやりと見えたその顔は、何か思いつめたように張りつめていた。
「ケースケ……お願いがあるの……」
キュッと、少女はケースケの袖を掴み、いつかのように弱弱しく、そして甘えるように言った。
「私を……どこか遠くへ、連れていって……? 私の……お父さんになって……?」
「…………」
アーリエがそんなことをお願いしてくるとは。それともこれは酔いによる幻覚ではなかろうか。ケースケは驚きのあまり、しばし呆然とする。
だが、裾を掴む小さな手と、不安そうに揺れる海色の瞳が、それが幻覚でないことを教えてくれている。
アーリエと別れることはさみしい。覚悟を決めていたとしても、こればかりはどうしようもない。それを、彼女自身が自分についてきたいと言っているのだ。それほどまでに慕われていた、ということに、嬉しさを覚える。
それに、彼女の言葉は心のどこかで、京助が望んでいた言葉かもしれなかった。
もともと、どこかで何かのキッカケが欲しかったがために依頼を受けたのだ。これまでの人生と決別し、この自分を慕ってくれる少女とともに生きる。人生二度目の、いや、三度目のスタートができるかもしれない。
だが、だ。ケースケは少女の問いにすぐには答えず、スッと目を閉じる。
それはあまりに自分本位ではなかろうか。もし、彼女のお願いを聞いたとして、この先に何が待っている?
彼女に、その日暮らしのひもじい生活を送らせるのか?
冒険者の娘として、石を投げられ侮蔑され、蔑まれる生活を彼女に送らせるのか?
今精神的に弱っているから、この一か月半を共に過ごした大人に、すがっているだけではないのか?
それは果たして、彼女の幸福へ繋がっているのか?
ケースケは違うと考える。その環境はアーリエにとって、苦しみを与えこそしても、幸せを与えることはないだろう。
少女の一時の感情による暴走が、どうしても理にかなった判断には思えない。
むしろ、普段の気丈なアーリエが、このような判断をしてしまうほどに疲弊しているのだとしか、思えなかった。
だから、ケースケは静かに首を振る。
そして、口元を歪めた。
「依頼は果たしたろう? 相当に、ムチャな依頼だったが、俺は仕事を果たした」
「……ケースケ?」
ならばせめて。
「もともと、俺たちはそんな関係だアーリエ。金でつながった、依頼主と冒険者。あんたのパパ代わりをしていたのも、それが仕事だったからだ」
「俺はいいパパだったろ?」そう、ケースケは悪びれずに笑う。そんな彼を、アーリエは信じられないような目で見ていた。目を見開き、薄暗闇の中でも分かるほどに、顔色が悪くなっている。
彼女の身体は小刻みに震え、裾から手を離すと、重力に従ってダラリとたらす。
その様から視線を外しながら、それでも俺は言葉を止めない。
「悪いが――」
せめて、アーリエが沈むことの無いように。
「――子守は、もうゴメンだ」
ついていかなかったことが正しいと思えるように、せめて、俺のことを嫌ってくれ。
「………………そう。そう、よね…………」
長い、長い沈黙の後、ポツリとそんな声が聞こえた。今、アーリエはどんな表情をしているのか。その言葉には、どんな感情が含まれているのか、今のケースケには推し量ることはできなかった。
ゆっくりと、アーリエの気配が遠ざかっていくのが分かった。思わず視線を上げると、背を向けたアーリエが、ドアの前で立ち止まっていた。その背中を押しとどめたい気持ちを抑えながら、ケースケはじっと少女の後ろ姿を見つめていた。
「……じゃあね、ケースケ。……今まで、ありがとう」
決別の言葉。そして、少女は振り返らずにドアを開けると、そのまま部屋を出ていった。ガチャリとドアが閉まり、ケースケはたった一人、部屋に取り残されたような気がした。
そんな孤独を紛らすかのように、彼は酒瓶に手を伸ばしグラスへと酒を注ぐ。そうして、一気にあおろうとして、ふと、琥珀の水面に映る自分と目が合った。その黒い目には、暗い感情が澱のように溜まって、濁っているように見えた。
「……クソ」
逃げるようにそれをグイと飲み干すと、感情に任せてグラスを床に叩きつけようとして、しかし、その手を途中で止めた。
こぼれ落ちたグラスは、大した音も立てずに、絨毯の上を転がった。
・ ・ ・
翌朝、きらびやかな装備を纏った一団が、宿を訪れた。バース家の護衛団だ。
奏に連れられて馬車に乗り込むアーリエは、質素なあの服ではなく、いつもの旅服を身につけていた。
その後ろ姿を、ケースケは黙って見送る。
アーリエもまた、彼を振り返ることはしなかった。
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