2 少女からの依頼
「パパぁ!?」
予想外の言葉に、ケースケは素っ頓狂な声を上げる。パパとは……、この少女は誰……、そもそもどうやってこの部屋に……。あまりの状況の分からなさに、彼の頭はフリーズ寸前だ。
「そう、パパ。十年前、ママと出会ってるはずなんだけど……まさか、覚えてない……?」
目をウルウルさせてアーリエは寂しげにうつむく。だがケースケが覚えているはずがない。なにせ、身に覚えが無いのだ。彼はパチクリと瞬いた。
そもそも、ケースケは童貞だ。この十年、生きるために必死で女を気にする余裕も、買う金も無かった。ようやく安定したと思ったら、彼自身の性格が奥手すぎて、アプローチもできない。結果、三十歳になっても童貞を守り続ける羽目になっていた。
「いや……あー……」
しかし、目の前で今にも泣き始めそうな可愛らしい少女に対して、違うと強くも言い辛かった。
「……とりあえず、下に降りて落ち着こうか」
ケースケはそう提案した。
・ ・ ・
部屋から出て階段を下りると、そこには宿屋と併設した食堂がある。うまい、安い、早いを兼ね備えた冒険者のための食堂だ。
「ようケースケ! 優雅な朝だな!」
「あんた女に奥手だからって、まさかそんな小さい子に手を出したのかい!?」
ケースケが下りてきたことを察して、店主のカーボとその奥さんのヒスタが顔を出す。カーボは豪快に笑っており、ヒスタはなんだか怒っているようだ。
アーリエはひょこりと隠れるようにケースケの後ろに回る。
「か、勘弁してくださいよヒスタさん……。さすがの俺でも、こんな小さいのに手は出しませんよ……」
「そうかい? まあ、ケースケなら信じられるけど……いいかい、女が欲しくなったら、言ってくれたら世話するからね」
「その時はよろしくお願いします」
頭を掻きながら、アハハと笑う。ヒスタは良い人なのだが、おせっかいなのだ。
「俺ぁ疑ってなかったぞ、お前にそんな度胸あると思えんし。それに、その嬢ちゃんに支えられて帰ってきたくらいに、昨日のお前酔ってたからなぁ。あれじゃあ、起つもんも起たねぇだろうさ」
カーボは豪快だが、もう少し言葉を選んでほしいものだ。これでは、まるで不能のようではないか。ケースケは思わず苦笑する。
「しかし、捨て子でも拾ってきたのかい?」
「いやぁそれが俺も分からんのですよ。いつの間にやら――」
「初めまして、ごきげんよう。私はアーリエ。パパ……ケースケの娘です」
「ちょっ!」
後ろにいたアーリエが突然、そんなことを言った。その声は決して大きな声ではないが、通る声であることと、この食堂が大きくないこともあって、この場にいた全員が、それを耳にした。
とたん、食堂がざわつく。
この食堂を利用しているのは、その大体がケースケの知り合いでもある。いつも真面目なケースケを知っている彼らにとっては、娘がいたということは、想像のできないスクープであった。普段は豪快なカーボですら呆気に取られている。ヒスタに至っては放心状態だ。
「あの子十歳くらい? ケースケがこの町に来たのは三年くらい前だから…………?」
「身重の奥さん置いてきた……? う~ん、あいつの性格上、考えにくいもんだが……」
「ああ見えて、昔はひどいやつだったとか……?」
ひそひそと、彼らはケースケの話を始める。同時に好奇の眼がケースケたちに集中した。
「えっと、その……マジか……?」
カーボは呟くように、ケースケに聞いた。だが、その答えをケースケは持っていない。だから、困ったように首を振って否定するしかない。
「正直……身に覚えが無くて……」
そんなことを言えば、アーリエは途端にしくしくと泣き始める。
「そんな……パパ……私のことも、ママのことも、覚えてないの……?」
泣き始めたアーリエにどう対応すればいいか分からず、とりあえずケースケはカーボに言った。
「あー、もう。カーボさん、ちょっと端っこの席貸してね。あとお茶と、モーニングを二人前」
「お、おう……」
アーリエの手を握って、席へと誘導する。そして、彼女と向かい合うようにケースケは座った。この席はほかの席と隔離されていて、視線は当然通らないし、声も漏れにくい。内緒話をするには持って来いだ。
おずおずと、半分呆けたようなヒスタがお茶を持ってきたので、ケースケはそれを受け取ってずずっとすすった。ようやく一心地つく。そうして、初めて、自分の娘だと名乗る少女をじっくりと見た。
異世界ならではの髪と目の色。顔立ちは、どこか気品を感じさせる。加えるなら、十二分に美少女ということだろうか。肌は玉のようで、傷の一つも見られない。それは、今お茶の入ったコップを持っている、その両手も同様だ。着ている服は機能性に長けてはいるが、それ以上に仕立ての良さを感じさせる。
彼が十五年間培ってきた洞察眼が、彼女の正体をおおよそ掴む。それはつまり、一介の冒険者たるケースケ程度では関わることもできない、貴族のご令嬢であるというものだ。
そこまで考えて、ケースケはコップを置いた。
「さて、アーリエちゃん……だったかな。なんで君は、俺を頼ってきたんだい?」
ピタリと、少女は動きを止める。そして、またしくしくと泣き始める。
「そ、そんな……パパはほんとに、覚えてないの?」
だが、今度こそうろたえることなく、努めて冷静にケースケは対応する。
「ウソ泣きってのはもうわかってるよ。年のわりに、演技のうまいことだ」
「……そう。じゃあ、もういいわね」
すっと、少女は顔を上げた。その眼もとには、先ほどまで見えていた涙の光さえ欠片も残っていない。年齢不相応の落ち着きように若干ビビりながら、ケースケは彼女に問う。
「で、どこぞの貴族のご令嬢が、俺に何の用だ? わざわざ、娘だって嘘をついてまで」
「……」
少し、アーリエの顔が曇る。しかしすぐに表情を戻すと、口を開いた。
「……冒険者ケースケ。私を、ある場所まで護衛してほしいの」
「護衛の依頼? そういうのはギルドを通して依頼をしてほしいもんだが」
「それが出来ないから、こうやって頼んでるんでしょ。分からないの?」
随分と高圧的な態度だ。これはよほどのご貴族様なのだろう。
さて、とケースケは再びお茶をすすりながら考える。
こういった依頼は、大抵面倒なのだ。それに対するメリットは釣り合っていない。一度、同じような頼みを受けたことがあるが、その時は重傷を負って死にかけた。ああいうのはもうごめんだ。
「場所は隣国。報酬は金貨五千枚。それでどうかしら?」
破格の報酬だ。下手な貴族では到底出せない金額である。
「それはすごいな。だが、な……」
金と命。どちらが大切かといえば、命だ。そこをはき違えなかったからこそ、劣悪なスキルでも生き残れたのだと彼は考える。
だが。
断る。その言葉が喉まで出かけて、しかしケースケは出すことは無かった。代わりに、別の問いをアーリエに投げかける。
「……なんで、俺を頼ってきた? 他に優秀な冒険者なんて、いっぱいいるだろうに」
それは、いまだ残っている日本人の、杉町京助の感性によるものであった。利より情を優先する、この非合理的思考は、長い間ずっと沈黙していた。それが今になって声高に叫ぶ。目の前の、自分を頼ってきた――その理由は分からないが――少女に手を差し伸べなくてもいいのか、と。
「それは……その……」
アーリエは動揺したように目を伏せる。それは先ほどのウソ泣きとは違い、本当に動揺しているように見えた。
「……」
「……」
沈黙の時間が流れる。
アーリエは俯いたまま動かない。その表情は何かを逡巡しているかのようだ。だが、ついに彼女が口を開くことはなかった。
「……そうか、分かった」
たっぷりと息を吸って、吐いた。そしてケースケは首を振る。
「すまないが、依頼は断る」
その言葉は、年端もいかぬ少女にどれだけ重く響いただろうか。はっきりと、ショックを受けたような表情でアーリエは顔を上げる。そして、どこか懇願するように口を開く。
「……お金なら、もっと上乗せできる」
「悪いけどアーリエ。俺もリスクを負いたくはないんだ。どれだけ破格の報酬でもな」
古ぼけた罪悪感に押しつぶされそうになりながら、それでもケースケは拒否の言葉を口にする。悔しそうにアーリエは再度俯く。
そして彼女はそっと席を立つと、ケースケの袖を掴み、ひどく弱弱しく、しかしどこか甘えるように言った。
「ねぇ……本当に、だめ……?」
まっすぐケースケを見る彼女の眼には、涙が浮かんでいる。本来プライドの高いはずの貴族がこれほどに頼む。それは本来ありえないことである。
だが、それでもケースケは静かに首を振る。
「…………勇敢だって、言ってたのに」
「えっ?」
ぎゅっと目をつぶり、彼女はポツリと呟いた。それはケースケの耳には入らない。
彼が何かと聞き返すより早く、彼女は何も言わず、身を翻して宿から走り去っていった。背もたれに寄りかかり、ケースケはため息をつく。疲労と、罪悪感でいっぱいであった。
「どうしろってんだよ……」
漏れ出たつぶやきは、ため息とともに、重く体にのしかかってくる気がした。
娘(?)