(8)アレン・ルタードは婚約者を愛している【前】
レザリアの花が咲く時期になった。
長年ルタード家に仕える庭師の報告を受け、アレンは早朝の庭で手ずからレザリアの花を摘んでいた。
「当主様。今年もせいが出ますねえ。おっしゃってくれれば、私が用意しますものを」
「婚約者に贈るものだ。私が摘みたい」
「そんなら、ぜひこっちの列から選んでください。レザリアの花は、黄色い色が強いほど、愛の強さを表わすっていいますからね。シェールトンのお嬢様も喜びなさるでしょう」
庭師が自慢げに指差した場所には、言葉の通り、ひときわ鮮やかな黄色をまとうレザリアが密集し、花を咲かせていた。アレンは頷いた。
「ああ。いい色だ。お前の助言に従おう」
「お役に立てたなら光栄でさあ」
「すまないな。仕事に戻ってくれ」
庭師が去り、一人残ったアレンは、一本一本、吟味して花を選んでいった。
毎年、春になるとアレンは婚約者にレザリアの花を贈る。
花を眺める行為など、時間の浪費に感じる。庭師の勤勉な仕事ぶりを評価こそすれ、普段、アレンは庭の草花に気を配ることはしない。良し悪しの判断はできるが、枯れていなければそれでいい。ただし、この黄色い花だけは別だ。
婚約者と、彼女の腕におさまるレザリアの花束を思いながら進めるこの作業は、アレンにとって大切な、愛おしい時間だった。
薄い赤を帯びた金髪の少女が、翡翠色の瞳で己を見上げたとき。
アレンの世界が色づいたのは、リヴィエラ・シェールトンという十一歳の少女に出会ってからだ。その日まで、アレンの人生は灰色だった。
仕方なく顔を出した、つまらない集まりでのことだ。
成人前の子どもたちが集められた貴族だけの茶会で、生まれて初めてアレンは感動した。感謝さえした。彼女に出会えたことに狂喜した。
見つけた、と。
――以前は、彼女もまた、自分にとってその他の有象無象だった。あるときまでは。だから失敗してしまった。気づくのが遅すぎた。
追い詰めてはならない。知られてはならない。彼女は、いざとなれば躊躇いもなく命を捨てることができてしまう。あの耐えがたい喪失の痛みは、忘れない。今度は最初から間違えない。
それは、胸が詰まるほどの。
不可解な思考と心の動きだったが、アレンは抵抗することなく受け入れた。逆らってはならない。本能が囁いていた。――この感情を否定するような常識は捨て去れ。
リヴィエラが視界に入るだけで、喜びでざわめく心が、その証拠だ。
だが、リヴィエラという存在が自分の中で一線を画しているだけで、特に自分のありようが変わったわけではないということもわかった。
己の本質は変わらない。……変えようがない。
母は正気であった頃でさえ、心のない怪物、とアレンを見るたびに怯えていた。息子の影に、祖父が見えるのだという。アレンは、父親とされている男の息子ではなかった。
母と祖父の間に生まれた子、それがアレンだ。祖父こそが父。狂える暴君。一口にいって、ルタードという一族は螺子が外れている。紋章に掲げる潔白の白色など最も縁遠い。その権化が祖父だった。
祖父は、実に容姿の醜い男だった。ただそれだけで一族の中で軽んじられていた。しかし、突出して利口な男だった。忍耐強く、敵と見なしたものは排し、欲しいものは手に入れる。
嘲笑の対象だった祖父は、ルタードの頂点に立った。かつて祖父を嘲笑ったものは、一掃された。本人だけではなく、その家族にいたるまで。ルタードの血族は大分数を減らした。
そんな祖父が最も欲したのが、美貌により『妖精』と称されたアレンの母だ。息子の結婚式で、祖父は舌なめずりをした。父は妻を祖父から守れなかった。母は、祖父の子を産んだ。そうして母は壊れていった。
ルタードの中にあって、父は善良過ぎた。まともすぎたのだ。だから祖父に無害とみなされ可愛がられたが、アレンにとってそれは唾棄すべき弱さでもあった。
父と祖父ならば、アレンが共感できるのは祖父のほうだった。
『――アレンよ。お前は私によく似ている。だから、わかるな? お前と私は相容れない。喰うか喰われるかだ。だが、私は公平だ。猶予はやろう。私がルタードで疎まれながらも、生かされたように。猶予は、お前が十五歳になるまでだ』
『はい。お祖父様』
よって、アレンと祖父との間で、導火線にはっきりと火がついたときも、納得できた。
頂点に立つのは、一人であればこそ存分に采配を振るえる。二人もいらないのだ。二人存在するとしたら、一人にするしかない。教えられずとも理解していた。両者は共存できない。ルタードにあっては殺し合うしかない。そういうものだ。祖父が当主の座についたように。
アレンが十五歳になる前に、決着はついた。対外的には、祖父は病死した。
ローゼリート公爵位は、滞りなく父が継いだ。名目上は、父がルタードの頂点に立った。
祖父が死に、壊れていた母も、部分的には元に戻った。母は祖父を記憶から排除したのだ。治ったわけではない。だから、祖父を思い出しかけると激しく取り乱し、暴れ出す。ルタード家では、祖父の名前を口にすることは禁じられている。
『いらない! いらない! いらない!』
そして、アレンが近づいても母は壊れた人形のようになった。母の目の前で祖父を殺したのが悪かったのだろう。祖父は異様なまでに用心深い男だった。そんな男が、母のそばにおいてのみ、隙を見せた。ならばそこを狙うしかない。
事態はほぼ想定通りに進んだ。
ただし、アレンにとって解せないことが一つだけあった。
母の行動だ。
浅い息の祖父が最期に見たのは、母だった。うずくまる母を呼び、手を伸ばした。アレンが邪魔をせずそれを傍観したのは、もはや祖父が脅威とはなり得なかったからだ。もし邪魔をするとすれば、それは自分ではなく、あの場にいたもう一人の人物の役目だった。
……母は、死にゆく祖父の側にしゃがみ込み、手を握った。
その真意は知れない。母は壊れているからだ。壊れて、すべてに蓋をした。
――リヴィエラのための花を選別し終え、満足の息を漏らす。
両腕に花を抱え庭を歩き出したアレンは、前方に見えた、女使用人の補助を受け歩く人影に自分の機嫌が下降するのを感じた。
女使用人がアレンの姿を目にし、失敗を悟ったのか、顔を青ざめさせる。
数秒遅れて、人影――母もアレンを認識した。
瞬間、翠玉の瞳がこぼれんばかりに見開かれる。母にあった正常性が瞬く間に失せた。
――母が悲鳴をあげなくなったのは、いつからだったか。
アレンを見れば、壊れる。暴れ出す。そんな反応だったのが、かわりに沈黙し、怯えるようになった。……そうだ。あれはアレンが『ある言葉』を投げかけてからだ。母は、大人しくなった。
今日も、壊れた人形と化した母は、アレンに対してただ震えている。
一体、彼女は何が恐ろしいのだろうか。何故、母は壊れたままでいるのか。
母のこれは、詐病のようなものだとアレンは解釈している。
治す気のない病。治してはならない病。認めてはならない感情。
アレンとの距離が縮まることに限界がきたのか、母は女使用人に横から抱きついた。
「奥様!」
女使用人の首筋に顔を埋め、震えている。同じ邸宅内に住みながら、母とその息子であるアレンは顔を合わさずに過ごすのがこのルタード家での不文律だ。しかしときにこうした不幸な事故が起きる。
「母上。ご機嫌麗しゅう」
アレンは立ち止まった。一言だけ母に声を掛け、女使用人に目線で「連れて行け」と指示を出す。頷いた女使用人が母の手を引いた。
遠ざかってゆくその頼りない背中を見つめながら、『ある言葉』を胸の内で紡ぐ。
かつて、母にぶつけたそれ。
『認めれば良いではないですか。お祖父様を愛していたと』
だから母は、祖父の残滓に取り乱す。壊れてまで、認めてはならないと、抵抗する。
だが、アレンも確信があったわけではない。
祖父のいまわの際、母が取った行動が、アレンはずっと不可解だった。
祖父と母。加害者と被害者が、彼らの間でどんな関係を築いていたかは、本人たちしか知らないことだ。
母には祖父への、負ではない感情があったのか。
仮にそうだったにしても、せいぜいが同情か、哀れみか。
どちらかといえば、母にぶつけた言葉は、アレンの願望だった。そうあって欲しいと。
そうであれば――希望がもてる気がしたのだ。
「私とリヴィエラに」
呟き、アレンは腕一杯に抱えたレザリアの花に顔を寄せた。




