恋愛小説家ですがスランプになりました。
「葉月さん。デートって、どんな感じですか?」
デスクに座って己の原稿を睨みながら、秋山雅は葉月と呼んだ女性に尋ねた。
「何を言ってるんですか? 良いから急いで下さい。締め切りまで二週間を切ってるんですよ?」
少しだけ強い口調で、葉月は秋山を叱るような口調で手を動かすように急かした。
だが、それも仕方がないことだった。
彼女、葉月琴葉の仕事は編集であり、今彼女が求められていることは秋山という名の作家が仕事を終わるようにサポートすることだからだ。
「いや、伊達や酔狂で聞いているわけでは無いんですよ。聞いてもらえます?」
秋山の手が動かなくなったことに気づき、葉月はため息を吐いた。
「良いですよ。休憩代わりに少し話しましょうか」
そう言いながら、葉月は紅茶のカップを二つ用意した。
秋山は仕事用のデスクから客用のテーブルに移り、葉月と向き合った。
カップを手に取り、香りを確かめるように、薄い色の紅茶を楽しむ。
葉月の入れる紅茶は技術があるとか特別というわけではない。
ただし、秋山が最も好む温度と濃さを完全にマスターしていた。
逆に、どれだけ素晴らしい紅茶だったとしても、この紅茶以外は満足いかない体にされた自覚が秋山にはあった。
紅茶のカップに口をつけ、カップをそっと傾ける――ほぅ、と無意識にため息を漏れた。
同時に今まで凝り固まっていた肩や背の筋肉が緊張からほぐれていくのが実感する。
長時間同じ姿勢でいる秋山にとって、この時間は精神的にも肉体的にも大切な時間だった。
「それでですね葉月さん。葉月さんは俺より歳上ですよね?」
現役大学生の秋山がそう尋ねる。
「ええ。そうですね。秋山先生が二十一ですので、私はその三つ上です」
デリカシーの無い質問に『何で恋愛小説家が出来るんだこいつ』と思いながら、葉月は答えた。
「ということは、もちろんデートとか経験あるんですよね?」
秋山の言葉の後、葉月は言葉を発さず――沈黙で答える。
時間にして数秒だが、会話途中の数秒である。
ひどく長い時間のように感じた後、秋山が口を開いた。
「葉月さん――まさか……」
葉月はそっと顔をそらした。
「で、でも、恋はしたことあるよね?」
期待値が低そうな秋山の言葉に、葉月は難しい顔をする。
「ええ、まあ一応程度ですがありますよ。まあ想いを伝えることが出来ませんでしたが」
その言葉に、秋山はぱーっと笑顔を浮かべる。
「良かった! だったらそのあたりの気持ちを教えてもらえません?」
葉月は酷く慌て、赤面しながら首を横に振る。
「説明できませんし、失恋みたいなものですよ! 嫌です!」
秋山は、自分が失礼な質問をしてると今更に気づき、はっとして冷静になる。
「ああ。すいません。酷いことを言いましたね」
「……らしくないですよ先生。どうしたんですか?」
葉月の言葉に、秋山はしょんぼりとして答えた。
「すいません……俺スランプ続きじゃないですか」
新作が半年も出ておらず、原稿を何度も落としている。
それでも未だ雑誌が秋山を使ってくれているのは、才能に期待されているからと編集である葉月の尽力によるおかげだった。
「――ナーバスになってるんですね。すいません気が利かなくて」
葉月の謝罪に、秋山が手を横に振る。
「いえ、別に落ち込んだりとかそういうのではないんですよ。というよりも、原因が何となくわかってしまって」
秋山の言葉に、葉月は驚いた。
筆の早い秋山が半年も何も書けないというのはよほどのことだと思っていた。
だから、原因がわかって何とかなる程度のことだったとは予想もしていなかったからだ。
自分の担当では無いが、葉月は今まで何人もスランプでつぶれる作家を見てきた。
そのほとんどの人は責任感が強く『書かないと』という脅迫概念からで自分を追い込み、潰れていく。
そして大体の場合――スランプに原因は無い。
急に書けなくなる。
それでも書かないといけない。
書きたいけど書けない。
書きたくないけど書きたい。
矛盾しているようで矛盾していないその苦しさから、潰れてきた多くの人を、葉月は見てきた。
「それで、原因って何だと予想したのですか?」
葉月の言葉に、秋山が頷く。
「まず、私は恋愛小説家です。四年ほど続けていて、ベテランに一歩踏み込んだ立ち位置にいると言っても良いでしょう」
葉月はその言葉に頷いた。
安定して読め、中学生位の女子が好む優しくも甘い展開が魅力の、才能ある中堅作家。
それが今の、秋山の会社での評価である。
「そして、今俺が苦しんでいる部分のほとんどは、デートシーンです。特に高校生によるデートシーンは全く書けません」
その言葉に、葉月は首を傾げる。
「おかしいですね。先生はこれまでいくつものデートシーンを書いてますし、今更その位で――」
秋山は手を前に出し、葉月の言葉を遮った。
「言いたいことはわかります。ですが、もう少し話を聞いてください」
真剣な表情の秋山に、葉月は固唾を飲み、頷いた。
「ですので、俺は原点に返ろうと思ったんです。俺の恋愛小説の原点。恋愛の原点……。そして、俺は一つ、重大な事実に気づきました」
秋山が言葉の溜めに入ったのを確認し、葉月は黙ったまま、次の言葉を待った――
「デートシーンに困った理由――そう、俺は、デートどころか恋すらしたことなかったんです」
葉月は茫然としたまま、秋山を見つめた。
妙にドヤ顔をしていることに腹が立ち、葉月は秋山を怒鳴った。
「何で恋も知らないのに恋愛書いてんのよ!」
「書きたかったから書いたんだよ!」
「知ってるよ! 先生の作品素敵だから私も好きよ!」
葉月の声が部屋の中で大きく響いた。
そんな謎の言い合いの後、秋山は申し訳なさそうに葉月に頼み込んだ。
「というわけで、本当に申し訳ないんだが一つ頼まれてくれない?」
「はい。何でしょうか?」
「今度の日曜、俺とデートしてくれ。これ以上デートを知らずに書くのは厳しい」
葉月は少し考えた後、首を横に振った。
「時間がありません。十日後にプロットの提出があります。すいませんが――」
葉月が言い終わる前に、秋山は葉月に原稿を見せた。
それは恐ろしいほど綺麗な原稿だった。
そこに描かれているのは統一された四角の枠だけで、まるで何も書かれていないような……。
「……。編集長に今回も無理でしたと言っておきます。その上で、今週の土曜日、二人で取材に行きましょう」
眉に皺を寄せ、辛そうな表情で葉月はそう言った。
今日から土曜まで、葉月は修羅場になることが決まった瞬間だった。
編集長のお叱りに、雑誌の調整。
他にもドンドンと仕事が押し寄せることが確定した。
一方秋山は、取材だと聞いて、首を傾げていた。
その程度は――秋山は女心がわかっていなかった。
秋山雅。ペンネームは佐藤ハルノ。
高校生の時に、ふと急に恋愛小説が書きたくなり、ノリと流れと勢いを原稿に叩きつけた。
淡い恋心が終わりと告げ、落ち込んでいた少女が、少年に告白され戸惑いながらも、淡い恋心ではなく本当の愛に目覚めるまでを描いたボーイミーツガールの話。
同級生に見せた時、その原稿は思った以上に好評で、勝手に雑誌に送られた。
そして、うっかり受賞してしまったのだ。
最初の一年は若き天才と呼ばれていたが、それ以降は評価も落ち着いた。
それでも、ライトな恋愛と優しい心理描写、何より読みやすさから一定のファンが付いていた。
秋山の小説がライトな恋愛なのは、本人が恋を知らないので描写がライトなのではなく、ライトな内容にしかならないだけだった。
秋山の恋愛観は少女漫画と中学女子向けのラノベのみで、主観は一切入っていなかった。
「それで、取材ですがどこに行きますか?」
頑なにデートと言う言葉を使いたがらない葉月に、秋山が答える。
「高校生のデート資料に使いたいので、予算は二万で駅前集合みたいな感じで良いかな?」
その言葉に、葉月は少しだけむっとした表情を浮かべる。
「いえ、シチュエーションの話ではなく、先生がどこに行きたいのか尋ねているのですが」
「ん? だって取材だろ?行きたい場所よりも行くべき場所の方が重要じゃないかな?」
そう言われると、葉月はそれ以上何も言うことが出来なかった。
二人は相談し、小説においてどういうシチュエーションと展開が望ましいかを協議し、当日に一つずつ試してみることにした。
土曜日の朝、駅前の目印である時計塔の下に秋山は走った。
時計塔の下に待っている彼女の元に急ぎ、秋山は息を切らしながら尋ねる。
「ごめん。待った?」
時刻は九時五分。『約束の五分後に遅刻して来た』という設定だ。
「ううん。今来たとこ」
そう葉月は答える。
『彼女は既に三十分待っている』という設定だ。
実際はお互い、九時五分前に到着し、時間を見ながら準備をしていた。
「……どんな感じ?」
お約束のシチュエーションを試した後、秋山がそう尋ね葉月は難しい顔をした。
「思った以上に腹が立ちますね。自分だけ待たされた挙句に時間通りに来ないってのは、何というかプライドと真心両方を踏みにじられた気がします」
役になりきって葉月がそう答えた。
「なるほど。遅刻するならヒロイン側にして『髪のセットに失敗した』や『寝ぐせが消えなかった』みたいな女性の悩みを理由にした方が良いかな」
「そうですね。遅れて来る彼女の跳ねた髪を触りながらおちょくったり、遅刻を気にしない懐の広さを見せたりと、主人公側の選択肢が多くとれそうです」
葉月の言葉を秋山は胸ポケットに入れたメモを取り出し書き記した。
「それじゃ、行こうか葉月」
「はい!先生……じゃなかった。秋山さん」
事前に決めた呼び方でお互い手を繋ぎ、二人は町を歩き出した。
真剣な様子の秋山と対照的に、葉月は握った手を確認し複雑な心境ながら少し嬉しそうな表情を浮かべていた。
「それで秋山さん。最初はどこに行くんですか?」
葉月がそう尋ねると、秋山はバッグに入っているガイドブックを取り出した。
そのガイドブックにはこれでもかと付箋が貼ってあり、かなり読み込んだ後がある。
もちろん、デートの為では無い。資料としてだと葉月も理解している。
秋山はガイドブックを開き、一件の店を指差した。
「この喫茶店が若いカップルに人気らしい。付き合ってくれないかな」
何とも言えない悲しさからため息を吐きたくなる気持ちを抑え、葉月は頷いた。
その喫茶店は、二十四歳という大人として良い年齢の葉月には少々入りにくい店だった。
白に桃が混じった色で模様のオシャレなテーブルと、丸太のような見た目の椅子。
従業員は赤や緑の服と帽子を被り、どことなく妖精のような姿をしている。
そして、店の名前は【絵麗願都】
店の内装からメニューまで、全てがファンシーな雰囲気に包まれていた。
自分が浮いているのでは無いかという気持ちの中、おずおずと店に入る葉月。
その横で、秋山は店員を呼び、一言尋ねた。
「店の中での撮影は大丈夫ですか?」
真っ赤な帽子と服を来た女性は微笑み答える。
「テラス席の方なら大丈夫ですよ。店の中はお客様が多いのですいませんがご遠慮ください」
「了解です。では、テラス席に座って良いですか?」
秋山の言葉に頷き、従業員は笑顔で席に案内を始めた。
目立つテラス席は避けたい。
その言葉を言うタイミングを、葉月は失った。
秋山は人が映らないように店の風景や雰囲気、従業員をデジカメで撮影しだした。
従業員も微笑んだりピースサインを出したりとノリノリで反応してくれる。
ただ、それが葉月には何とも面白くない。
何か嫌なのかわからないけど、確かに不快だった。
面白くない、だけど、これは担当編集者として取材についてきただけだ。
何も言うことが出来ない……。
「葉月、何か食べたい物はないかな?今日は奢るよ。千五百円くらいまでで」
葉月は高校生デートを想定しての値段をわざわざ言う秋山に、女心を説明したい思いでいっぱいになった。
「じゃあ、ケーキセットのBコースをお願いします」
それでも葉月は何も追及せず、微笑みながら秋山にメニューを渡した。
「……デートだと何を頼むのが鉄板かな?」
「……自分の小説だとどうしてますか?」
葉月の言葉に悩み、秋山は葉月にすがるような視線を送った。
葉月はため息を吐き、妖精風の衣装の従業員を呼んで注文を頼んだ。
「ケーキセットのAとBをお願いします。Aセットの方はカフェオレ。Bセットはココアで」
「はい。ご注文を確認いたします。ケーキセットのAでドリンクはカフェオレのホット。ケーキセットのBでドリンクはホットココアでよろしいでしょうか?」
「間違いありません」
「かしこまりました」
従業員は丁寧に頭を下げ、後ろに下がって注文を奥に伝えに向かった。
「すまん。助かった」
秋山が微笑みながら葉月にそう言った。
「小説にするなら、同じ物を飲み物を変えて頼むのが最初のデートで良いと思いますよ。または、違うものを頼んでヒロインが主人公のケーキを欲しがるとか言う展開もありですね」
その言葉に秋山は、胸のメモを取りだし真剣な表情で書き記した。
「ふむふむ。距離感が大切だね。最初のデートの時での距離感を開けて、デート終わりで近づき、もっと一緒にいたいでも良い。最初から近い距離感だけど、付かず離れずでのラブコメも良いな……」
「そうですね。付け足すなら、描写は男視点にする方が受けは良いと思います。緊張する男主人公の視点から始まり、最後は緊張を忘れて楽しめた。というのが王道ですがやはり良いかと」
完全に作家と担当の話し合いになっているが、これこそが今の二人の自然体だった。
そんな話をしてると時間を忘れ、二人の元にケーキが届いた。
Aセットのケーキはイチゴのショートケーキ。
Bセットはスフレ状の丸いチーズケーキだった。
「……どうしたの? 食べないの?」
ケーキが来ても手を動かさない葉月に秋山がそう尋ねた。
「写真。取らないで良いんですか?」
葉月の言葉に気づき、秋山は慌てて写真撮影をした。
ケーキを食べている時に、秋山は葉月の視線が気になった。
じーっとこちらの方を、というよりもこちらの口元を見ていた。
「どうしたの葉月。何か付いてる?」
その言葉を聞いて、びくっとした後、葉月はむすっとした表情で、自分のフォークでチーズケーキを切り取り、秋山の口元に持ってきた。
「し、資料の為ですから。はい、あ、あーん……」
恥ずかしそうにする葉月とは正反対に、秋山は何のためらいも見せずに、葉月のフォークに刺さったチーズケーキを食べた。
「うん。おいしいよ。ありがとう葉月」
そう言いながら秋山は上っ面ま笑顔を見せた。
役になりきっていると、すぐにわかる笑顔だった。
「……五点。その展開はダメです」
冷たい目で葉月がそう言うと、秋山は首を傾げて頭を掻いた。
「うーん。難しいな。どうしたら良い展開になるかな?」
「……ご自分で考えてください」
葉月は上っ面の笑顔を浮かべ、秋山にそう返した。
次に秋山が向かったのは映画館だった。
喫茶店から映画館、ウィンドウショッピングをしてから帰る。
帰りにアクセサリーショップで小物を買って、こっそりと渡して今日のお礼とする。
そんなありきたりな展開、だけど、王道の展開を秋山は想定して、資料にしたかった。
あくまで、資料としての取材旅行の一環である。
「秋山さん。何の映画を見るんですか?」
「ん。今流行りの【光奏でる空】にする予定だけどダメかな?」
【光奏でる空】とはつい先日公開したばかりの恋愛映画である。
諸外国の話で一人乗りの戦闘機に乗った男が怪我をして不時着する。
その時に出会った女性に助けられ、怪我が治るまで面倒を見てもらい、二人は恋に落ちる。
そして怪我が治ると、男は修理したボロボロの戦闘機に乗り空に戻る。
男は軍人で、それが仕事だからだ。
そして理由はもう一つ。
敵が迫っていることを知っていたから、男は女を守る為に――戦いに向かった。
最後に、空に輝く光を見て、女性が涙を流しながらフィナーレとなる。
そう――内容は完全に知っているのだ。
恋愛小説家と編集である。
話題の恋愛作品をチェックしないわけがなかった。
当然の様に二人は映画を見て、そして当然の様に、秋山は難しい表情を浮かべた。
映画が終わり、外に出てから秋山が一言、困ったような表情で尋ねた。
「……なんでだろうか。デートのはずなのに、全然楽しくない」
「――やっと気づきましたか」
葉月はため息を吐いて、秋山に苦笑した。
「ごめん。どうしたら良いんだろうか。楽しくないことを書いても意味無いし……やっぱりスランプだからかな……」
そう呟きながら秋山は自分の頭を掻いてしかめっ面をする。
普段はもう少し葉月に気を使うのだが、本当に余裕がないらしい。
普段では想像もつかないほど落ち込む秋山を見て、葉月は再度ため息を吐き、そして微笑んだ。
「もう一度、今度は別の喫茶店に行きましょう。残りの時間を楽しくしてあげますから」
その言葉に驚き秋山が顔をあげると、葉月は自信たっぷりにウィンクをして見せた。
今度はごく一般的な、デート向けでも何でも無い喫茶店に入り、オレンジジュースを二つ頼んで席に座った。
「さて、なぜ楽しくないかわかりませんか?」
葉月が微笑みながら尋ねると、秋山は頷いて答えた。
「わかりません」
どうやら、小説の事を考えすぎて当たり前の事すら忘れているらしい。
「秋山さん。小説の資料を見ても楽しくないですよ?」
葉月の言葉に、秋山は首を傾げた。
「だから、小説の資料としてだけで過ごしても、何も楽しくなんですよ。小説の事を一旦忘れましょう!」
気持ちを入れ替え普通に笑うという当たり前なこともできないほど疲弊した秋山に、葉月は微笑みながらそう言った。
秋山は難しい顔をした後、胸のメモ帖をバッグの中に入れた。
「うん。今日は考えないようにするよ。それで、どうしたら良い?」
秋山が尋ねると、葉月は微笑みながら言った。
「さっきの映画どうでした?」
「二度目だからね。正直に言えばあんまり……」
その言葉に、葉月は満足そうに微笑んだ。
「私も二度目なんですが、一つ気づいたことがあります。最後、主人公の軍人さん生きてます」
「え、まじで!?」
秋山は大声で葉月に近寄った。それに葉月は嬉しそうに微笑んだ。
「はい。マジですよ。最後のシーンの前の前くらいに、遠くに小さくパラシュートを飛ばしているのが見えました。アレは二度目じゃないと気づかないですねー」
「ぐぬぬ……見逃した……。そっか。じゃあアレはハッピーエンドだったんだね」
ほっとした顔で、秋山はそう呟いた。
ハッピーエンド至上主義の秋山にとって、ソレはとても良いニュースだった。
「……どうです?ちょっとは楽になれました?」
葉月は秋山の顔を見ながら、心配そうに尋ねた。
そう言われて、秋山はさっきの会話は楽しめたことに今更気づいた。
『楽』じゃないと『楽しめない』
そんな当たり前なことに、秋山は今更に気づいた。
「ああ。楽しかったし、ちょっと悔しい。もう少しまじめに見ていれば……」
そう秋山が言うと、ふふと葉月は子供を見るような眼差しで、小さく微笑んだ。
ここで、秋山は一番気づかなければならないことに、今更気づいた。
葉月は、秋山の事をずっと心配していたのだ。
振り回して、退屈な思いをさせて、心配させて。
それは今日だけではない。
この半年、ずっとだ。
それでも葉月はいつも微笑みながら、秋山に付いてきてくれていた。
秋山は今日初めて葉月をことを見た。
いつものスーツと違い、ロングスカートに白いブラウス。
普段のまじめな印象と違い、少し子供っぽくはあるが、とても可愛いと思った。
それに加えていつもの化粧と少々違う。
普段とどう違うのか理解は出来ない。
ただ、いつもよりとても綺麗に見えた。
ずっと葉月の顔を見ていても、退屈しそうにない。
気づいたら、秋山は葉月に見惚れていた。
「……秋山さん、どうかしましたか?」
葉月の言葉に秋山ははっとして、首を横に振る。
「う、ううん。何でもないよ」
少し慌てたように、赤くなった頬を隠すように、秋山はそう言った。
「そうですか。ところで、話が変わりますがこれどうしましょうか?」
葉月が下を指差しながら尋ねた。
そこにはプリンが一つ、置いてあった。
頼んでいないのだが、偶然余ったらしいので店主にサービスされた品だった。
「ん。ああ。食べて良いよ。たぶん葉月にってことで渡されたと思うし」
「でしたら遠慮なく」
その答えを予想していたように、葉月は既に持っていたスプーンを使ってプリンを食べ始めた。
一口食べた瞬間口角が上がり微笑んだ。
プリンだけでなく、自分もとろけそうなほどおいしいらしい。
ニコニコと満面の笑みを浮かべながら食べる葉月を秋山は楽しそうに見つめた。
相手が幸せそうにするのが嬉しい。
これがデートの本当の意味だと秋山は気づいた。
葉月はずっと見ている秋山に気づき、スプーンを加えたまま首を傾げた。
「ふぉうひまひた?」
「……スプーンを外して話してくれ」
「失礼しました。どうかしました?やっぱり食べたかったですか?」
「いいや。美味しそうに食べるなと思っただけだよ」
微笑みながら言う秋山に葉月は頷いた。
「ええ!本当に美味しいんですよ」
葉月の嬉しそうな顔に、秋山も自然と表情がほころんだ。
「そっか」
そう一言で返す秋山に、葉月は何か勘違いをした。
「しょうがないですね。一口だけですよ」
そう言いながら、葉月はプリンの器を持ち、スプーンを救って秋山の口元に持ってきた。
「はい。あーん」
以外なほど押しが強く、とても断れるような状況ではなかった。
秋山は驚いた表情の後、覚悟を決めて口を開き、一口食べた。
――味が、わからない……。
緊張と興奮からか、秋山の感想はそれしかなかった。
その様子に、葉月は首を傾げた。
さっきまで平然としていた秋山と違い、挙動不審である。
その上、今秋山はまるで秋の紅葉のように真っ赤になっていた。
「……もしかして、私のこと意識してます?」
冗談のように軽く、葉月は自分を指差しながら尋ねる。
秋山は更に顔が赤くなり、目線をそらす。
その姿は肯定しているのと同じと言って良いだろう。
口ではそう言っても、その可能性を考えていなかった葉月は、自分を指差したまま赤面し固まった。
気まずい雰囲気のまま、葉月は慌てるようにプリンを食べ切る。
後半は、全く味がわからなかった。
「さ、さて、次はどこに行きますか?」
慌てた様子の葉月に、秋山が答える。
「資料というかデートとしては良くない場所だけど、行きたい場所があるんだ。ちょっと付き合ってくれないかな?」
その様子が真剣だったから、葉月も真剣な表情を浮かべ頷いた。
秋山に連れてこられた場所は、大きな書店だった。
二人のデートでは絶対に来てはいけない場所である。
何故なら、ここに来ると嫌でも仕事を思い出すからだ。
「何となく、何がダメだったかわかったよ。まあ書けるかはわからないけどさ。だけど……」
思ったことを素直に口にする秋山にしては珍しく、とても言いずらそうにしていた。
その様子は思ったことが言えないよりも、自分でもうまく説明できないんだと葉月は悟った。
「どうして欲しいか。どうしたいか言ってみてください」
葉月は微笑みながらそう言った。
その様子は『答えだけで伝わるから大丈夫、長く一緒にいたからだ伝わるよ』そう言っているようだった。
「葉月のオススメの本を教えてほしいんだ。それを見て、少し勉強する」
五割本音、もう五割は、葉月の仕事以外のことを知りたい。
秋山はそう思った。
ソレを聞いて、葉月は苦笑した。
自分の大切なこと、そんな当たり前なことすら告げていなかった自分が可笑しかった。
「良いですよ。付いてきてください」
葉月が手を握り、秋山を引っ張るように本屋を移動する。
雑誌コーナーから漫画コーナー。
そしてライトノベルコーナーの隣。
女性向けの恋愛のコーナー。
そして、葉月はそこで止まった。
そのコーナーは中堅どころの恋愛小説家【佐藤ハルノ】の名前があった。
佐藤ハルノ。本名秋山雅。
葉月が最も好きな小説家の名前だった。
「特に、これが好きですね」
そう言って葉月がとった一冊は、秋山の最初の本だった。
「私の初恋って、実はこの本なんです。だから告白なんてできませんでした。だって本ですもん」
葉月は照れくさそうに笑った。
それは葉月が入社してすぐの時だった。
葉月は仕事を止めようと思っていた。
入社してすぐだが、自分には向いていない。
そう葉月は思ったからだ。
小説家としての夢が破れた葉月にとって、編集という仕事は地獄だった。
書けない自分が妬ましい。
書いて成功した人が妬ましい。
そんな感情を捨てきれなかったからだ。
編集関係になりたかったわけでは無い。
印刷や書店関係の仕事に就くはずだったのに、気づいたら編集に放り込まれていた。
移転願いをだし、ダメなら辞めよう。
そう思って会社に向かい、編集長を待つ間に、暇つぶしに置いてあった小説を手に取り読んだ。
ソレは自分の理想の世界だった。
自分が書きたかったけど書けなかった世界がそこにあった。
気づいたら、葉月は涙を流していた。
葉月はその小説に恋をしていた。
後から来た編集長に話を聞いたら、この作者の編集が辞めた為、後釜を探しているらしい。
『というわけで君、やってくれないか?』
もちろん、葉月は大きく首を縦に動かした。
辞めたいと思うことはそれ以降、一度もなかった。
「これが私の初恋だった本です。……って変な告白みたいですね」
そう言われても、秋山は驚くだけで、何も言葉に出来なかった。
「……とりあえず出ましょうか」
秋山の手を握り、葉月は書店の外に出た。
握った手は暖かく、幸せな気持ちになると同時にドキドキしていると葉月は気づいた。
手を握ったまま秋山は葉月に連れられるように歩いているが、今どこを歩いているのかわからない。
緊張で何も考えられなくなっていた。
わかるのは、その手の暖かさだけだった。
その温かさがなくなったことに気づき、手が離れたんだとわかって秋山は意識を戻す。
周囲を見るとそこは公園だった。
「高校生デートの最後なら公園で良いですよね。まあ私もデートなんてしたことないので良くわかりませんが」
そう言いながら、葉月は公園の中心でくるくると踊るように回った。
子供っぽい見た目と行動である。
だがそれでも、誰もいない公園でじゃれている葉月が、秋山には魅力的に見えた。
綺麗とか可愛いとかではなく、とても『葉月らしい』振舞いだったからだ。
「――本に恋した人は次の恋ってどこに行くんでしょうね」
葉月が少し離れた所から、秋山にそう尋ねてきた。
流石にここまで来たら、鈍い秋山でも葉月の言いたいことが理解出来る。
同時に、今までずっと、葉月を苦しめてきたことも秋山には理解できてしまった。
「……きっとろくでもない奴のところに行ったんだろう」
そう秋山が答えると、葉月はむっとした顔で答えた。
「二点。情緒も無いし答えでもない」
葉月は少し怒った顔でそう言った。
秋山は葉月の様子を見て、気づいたことがあった。
それは彼女が今どれだけ今緊張していて、どれだけ辛い気持ちでいるのかということだ。
遠くにいてもわかるほど彼女の足は緊張で震え、顔はむっとした顔を作っているが冷や汗を掻いている。
――いつも、作った表情をさせていただんな。俺。
秋山は申し訳ない気持ちと同時に、どれだけ彼女に大切にされているのか理解して、罪悪感がありながらも嬉しい気持ちが溢れていた。
葉月に何か気の利いた一言でも言えれば良いのだが、秋山も同じように緊張し何も言葉が出てこない。
伝えたい言葉や思い、気持ちが出てこない。
それでも、たった一つだけ、秋山にも自分の気持ちが見えていた。
「――もう一度、君と手を繋ぎたい。手が、寒いんだ」
葉月はきょとんとした顔の後、こちらに走ってきて、秋山の手を握りしめた。
今度は指と指を絡ませ、放さないようにしっかりと握りしめた。
「……七十五点。――これで寒くなくなった?」
「ああ。もう寒くないよ。ありがとう」
涙を流していることには触れず、秋山はそう言った。
後日、秋山のスランプは見事に解消されていた。
だが、葉月は不満そうだった。
「先生!これどういうことですか!?」
葉月は新作の原稿を手に持ち、秋山に怒鳴りつけた。
「没かな?結構いい出来だと思ったけど」
きょとんとしながら秋山がそう言うと、葉月は怒鳴るように答える。
「素晴らしいですよ。傑作と呼べるかもしれません。で・す・が! 前回のデートの意味、全くないじゃないですか!何で歴史ロマンスになってるんですか!」
書かれた内容はデートの内容どころか、デートの描写すらなかった。
葉月もこれが理不尽な怒りだと理解している。
ただ、それでも嫌なものは嫌だった。
まるで、あの時間が無かったように扱された気がしたからだ。
「いや、俺歴史物もかけるし、せっかくだから。ダメだった?」
「ダメじゃないです! でも、私との時間は何だったんですか! つまんなかったんですか!?」
葉月の声を無視し、秋山は葉月の手を握った。
「あっ」
葉月が声をもらしても無視し、秋山は指を絡ませる。
「これじゃあ伝わらないかな?」
秋山の言葉に葉月は下を向き、赤くなった顔を隠した。
――二人のデートで得た者を、他の人に見せたくないってのは作家として失格かもしれん。
秋山はそんなことを考えながら、繋がった手のぬくもりを感じていた。
ありがとうございました。
お砂糖吐いて下さるととても嬉しいです。