24. 忠誠
「覚悟というのは、彼女の場合、愛情の深さとも言い換えられるでしょう」
その言葉に、心臓が震えた。
リュシイが彼を、どれほど愛しているのか。それが問われている。
「愛情がなければ、耐えられないでしょう。これから、大変ですから。彼女には頑張ってもらわないと」
「これからも勉強は続くんですね」
彼女は王妃になるのだ。
そのために身に付けなければならないことは、数え切れないほどある。
「ええ、それはもちろん。文字を覚えたり、作法を身に着けたり、そんなものは入り口にしか過ぎなかったと思い知るかもしれません」
「そうですね」
私は主人の言葉に頷く。
「それに、心ない誹謗中傷にも耐えなければならないときがくるかもしれない」
「ああ……」
たとえリュシイが国を救った女神と崇められているとしても。
彼女が貴族の生まれではないこと。略奪されたという事実。
何とかして蹴落としたいと考える輩には、それが突破口だと思われるのかもしれない。
「でも、やりようによっては、美談にも出来るのでは」
略奪され、戻ってきた彼女を娶った、心の広いお優しい国王。そんな筋書きでもいいのではないか。
「まあその頃には、私は引退しているでしょうね。それは私の仕事ではありません」
「そんな、まだまだ」
「いやいや、そんな世辞はいりません。実は近いうちに陛下に暇を申し出るつもりです。もう歳ですからねぇ」
主人は笑う。そういえば、皺が深くなってきた気がする。白髪も増えてきた。
私と出会った頃の主人は確かに、もっと若々しかった気がする。主人は常に第一線で活躍していたし、いつも見ていたから、そんな変化にも気付けなかった。
「それに、私が王妃の義父ともなると、いらぬ心配をする者も出るでしょう」
主人はそれでなくとも、絶大な権力を持っている。
公爵であり、大法官であり、国王陛下の覚えもめでたい。
その上、王妃の義父ときては。
いずれ、王城の全てを把握し、国王に成り代わりたいと思っているのではないか。
そう思う者が出てきても無理はない。
もしかしたら彼女を引き取ると決めたときから、主人は王城を去ることを決心していたのではないのか。
「私が忠誠を誓ったのは、先王陛下です」
私の顔を覗き込むようにして、主人が言った。
「だからもう充分やってきたと思います。今から陛下は、自分自身に忠誠を誓う人間を集めなければならない」
そうか。そうなのか。先王の御子であるからこそ、主人は今まで王城に勤めていたのだ。
主人の忠誠は、先王のためにこそあった。
「ジルベルト」
「はい」
「あなたは、誰に忠誠を誓いますか?」
「私は……」
すぐに答えが出なかった。
国王には会った。思っていたほど頼りなくもなかったし、誠実な人間なのだと感じられた。
けれども忠誠を誓うとはどういうことか。
私は彼に命をも賭して仕えることができるのか。
「まあ、ゆっくり考えなさい。慌てて答えを出すことではない」
「はい……」
私は膝の上の拳をぎゅっと握り締めた。
何の覚悟もできていない。未だ何も考えていなかった。一体、私は何をしてきたのか。
「寂しくなりましたねぇ」
主人が窓の外を眺めながら、ぽつりと言った。
「彼女のような女性がいると、家が華やかになって良かったのですが。家に帰ると安心できました」
「そうですね」
「彼女には、ジルベルトに嫁ぐという選択肢もあったのに」
いきなりとんでもないことを言い出したので、私は「は?」と間抜けな声を出してしまった。
「いや、それはないですよ」
私は何度も顔の前で手を横に振った。
急に冷や汗がどっと出てくる。
「おや、彼女のことは気に入りませんでしたか?」
「そうではなく。彼女は陛下のことをずっと想っていたではないですか」
「いや、そこを奪い取ってみせてくださいよ」
「まさか」
それを望んでいたのは、私だけだ。
彼女が見つめていたのは、あの、植木鉢。
「それにジャンティさまだって、二人きりになる相手が私なら安心だと、仰っていたじゃないですか」
最初は疑うようなことを言われたが。
「ああ、それはね。建前上」
「建前って……」
「私は正直、わざわざ苦労するのが分かっているのに王妃になるというのも、どうかとも思っていました」
「そうなんですか?」
そうは見えなかったが。
「お世継ぎは欲しい。陛下がやっと女性に執着してくださった。本来ならば喜ぶべきところですし、実際、喜んでいたんですが……」
「そうですよね」
「でも、養女とはいえ、彼女は私の可愛い娘ですから。途中から、彼女は自由に幸せな道をと思うようにもなりましたよ」
そう言って苦笑する。
「まあ選んだのなら仕方ないですな」
主人は一つ、息を吐く。
彼女は決めたと言っていた。これから訪れるどんな苦労も乗り越えるのだとそう決心したのだろう。
「ジルベルトにも、テオドールさまにも、彼女を揺らがせることはできなかったようですしね」
「司祭さま?」
「教会がわざわざ彼を連れてきたということは、あわよくば彼女を口説き落として教会に迎え入れたいと思っていたのでしょう。彼、女性に人気がありますからね」
やはり。
しかし、そこまで分かっていて司祭さまを屋敷に入れ続けたということは、リュシイに自由な道を、と主人が思っていたことの裏付けにもなる。
「彼女の力を、とにかく国内に留めておきたい。それだけは譲れませんけれどね」
「ああ、だからクラッセの……」
彼だけは、二人きりにしたくないと言っていた。
だが主人は勢い込んで言った。
「エグリーズさまだけは論外です! 国外とか国内とかそういう問題じゃありません! あんな放蕩息子が義理の息子になるなんて、どれだけ胃があっても足りません!」
なんという言い様。仮にも隣国の王子だというのに。
主人は息を吐く。それで落ち着いたようだ。
「まあ、あの方は、あれがらしいというか」
「それは何となく分かります」
「それに、ご婚約者の方に一途のようですよ」
「……そんな風には見えませんでした」
あんなに愛想を振りまいていたのに。
女性と見れば、美辞麗句を並べているように見えたのだが、決まった女性がいるのか。
世の中には、いろんな人がいるものだ。
「まあ、エグリーズさまと陛下が親友というのは分かる気がしますねえ」
「親友……なんですか。外交上の付き合いではなく?」
「悪友、と言ってもいいですかね。お互いがお互いにないものを持っているので。それでいて二人とも王族の人間なので」
「はあ」
とすると。
彼が屋敷にやってきて、私に向かって牽制したように感じたのは、気のせいではなかったのだろう。
親友がやきもきしているのを見て、確認しに来たのかもしれない。
「あの方を見習えとは言いませんが、ジルベルトも少しくらい羽目を外すといいですよ」
「私が……ですか」
「あ、いや、やっぱり止めましょう。ジルベルトはそのままがいいですね。あれは困る。非常に困る」
本心から困っているようだったので、思わず苦笑が漏れた。主人も髭の奥で笑った。
私は、ふと思いついて、口を開く。
「あの……一つお訊きしたいのですが」
「なんでしょう?」
これだけは、確認しておきたかった。
「もしも本当に……その……純潔を失うと同時に予知の力が失われたら、それでも陛下は……」
王が彼女の予知の力を欲しがっているだけだとしたら。それはあまりにも悲しい。
「失っても構わない、そう仰いましたよ」
主人は自信を持っているのか、力強くそう答えた。
「そもそも、予知など必要ない。それがなくとも予見して国を守る。それが王たる自分の仕事なのだと、仰いました」
私はその言葉に感動すら覚えた。
それが彼女の選んだ人なのだ。
そうか。ならばいい。彼女が泣かなければいい。
主人は馬車の天井を仰ぎ見た。
「ああ、全く損な役回りを演じたものです。陛下には彼女と会えないことを恨まれ、養女として引き取ったはずの彼女はたった半年で嫁にやらなければならなくて」
主人は大仰にため息をついた。
「陛下は時間が少しでも出来れば、すぐに中庭の花壇に行かれてしまって。もう私の顔など見たくもないという風情で。まあもちろん、半年という時間が必要だということは理解しておられましたから、単なる八つ当たりですな」
中庭の花壇。あのときも彼はそこにいた。
「花を愛でると心が落ち着くということでしょう」
「それもあるでしょうが……中庭には、彼女が持ってきた花と同じものが植えてあるんです。ほぼ同時に植えられたんですが」
そうだったのか。
彼女が窓際に置かれた植木鉢をずっと見つめていたように。
彼もまた、ずっと見つめていたのだ。
半年後。白い花が咲いたら、また二人は会えるのだと。
「今朝方、王城でも花が咲きましてね。王城で仮眠をとっていたのに、叩き起こされました」
「それはそれは」
苦笑する。
「まったくあの人にはいつも困らされる。もう少し成長していただきたいものです」
そうぼやく。
だが言葉の奥底に、彼に対する愛情が見え隠れしていた。
以前はそのことに嫉妬していたが、今は不思議とそんな思いは湧いてはこなかった。
「せめて、可愛い娘が手元に残れば、甲斐もあるというものですがねぇ」
本当にうんざりした様子で言うので、私は小さく笑いを漏らす。
今日は珍しく、愚痴三昧だ。
王城から離れる決心をして、気が緩んでいるのかもしれない。
「また養女をお引取りになられては」
「いや、もういいですよ。女の子はいずれは離れていくものなのだと身に染みました」
「じゃあ養子では」
「私の養子になりますか?」




