21. 不安
彼女は素晴らしい進歩を見せ、今ではもう絵本だけではなく、簡単な本ならば読めるようにもなった。書くことにも随分慣れてきたようだ。
けれども最近は、手紙を交わしているのを見たことがない。
最初の頃は、それでも何度か手紙の行き来はあったようだったのに。
相手が忙しいのか、それとも彼女が返事を書いていないのかは分からない。
次第に、彼女の表情が曇ってきたのが分かった。
明るくは振舞っている。くだらない話にも笑ったりする。
けれども、最初ここに連れてこられたときのような、希望に満ちたような瞳はしていない。
それだけは確かだ。
「もしかして、調子が悪い?」
私はある日、思い切って聞いてみた。
扉を確認する。入ってくるときに、薄く開けた。もちろん今も開いている。これは大丈夫だ。
「調子悪く、見える?」
彼女が目を伏せて、そう返す。
「いや、そこまでは……。私の気のせいだろう。すまない、変なことを訊いて」
すると彼女はふるふると首を横に振った。
「気に掛けてくださって、嬉しいわ」
そう言って笑ったけれど、やっぱりどこか寂しげなのは、気のせいではないだろう。
窓際の花を見る。
蕾と思われる粒は、今日も少し大きくなったように見えた。
◇
いつものように彼女の部屋に向かうと、扉が大きく開かれていた。
アネットが来ているのか、と中を覗いたが、彼女一人きりだった。
そして、窓を拭いている。
「何をしているんだ?」
「あ」
今まで私に気付いていなかったのだろう、彼女は手を止めてこちらに振り向いた。
「ごめんなさい、もう勉強の時間なのね」
「いや、それはいいんだけど、一体何を」
「何って……」
彼女は手に持った雑巾を見て、首を傾げた。
「お掃除しているのだけれど」
「いや、それは分かるんだけど」
もちろん窓拭きは、掃除以外の何ものでもないだろう。
「今朝、清掃係は来なかった?」
朝食の間、清掃を担当する者が、この部屋を掃除するはずだ。いつもそうだ。窓から何から綺麗に毎日磨いている。
「来たわ」
「じゃあ」
「置手紙をしておいたの。今日は私がしたいから、道具を置いておいてくださいって」
「どうして」
「もう少しでこの部屋ともお別れだから、自分でしたかったのよ。置手紙にもそう書いたの」
お別れ。
そうだ。彼女がこの屋敷に来てからもうすぐ半年になる。
もうそんな時間が経ったのか。信じられない。
私は何も言えなくなって黙り込んだ。
「でも、ほとんど掃除してくださったみたい。私がやること全然ないのよ。どこもかしこも綺麗なの」
そう言って彼女は苦笑する。
「私はもう掃除してくださった後をなぞるだけ」
彼女は所在無く窓を雑巾で拭き、そしてそれを窓辺に置いた。
「それに私、この屋敷には、ほとんど何も持ってこなかったから荷物もないし」
そうだ。彼女が持ってきたのは、今窓辺にある、白い陶器の植木鉢だけ。
私は窓辺に寄り、植木鉢の中を見る。
私の思いとはうらはらに、鉢の中の木は、すくすくと枝と葉を広げている。
そして蕾も増えていた。前のように緑色の粒ではなく、もう白くなっているものがたくさんある。
「蕾が」
それを口にするのは怖いような気がした。
だが努めて明るい声音を出してみる。
「蕾が膨らんできたね。もうじきに咲くよ」
そう言って振り返ると、なぜか彼女は浮かない顔をしていた。
「どうかした?」
誰よりも彼女が、花が咲くのを楽しみにしていたのではないか。
「え? どうもしないわ……?」
リュシイは顔を上げて、首を傾げた。
「なんだか、ここのところ、ずっと元気がないように見える」
「そんなこと」
そう言って、目を伏せる。
どうもしない、だなんてそんな言葉、信じられない。明らかに、元気がない。
おそらく、身体的な問題ではない。心の方だ。
だから、提案してみる。
「言葉にしてみたらどうだろう」
「え?」
「口にすると、楽になるかもしれないよ」
そう言うと、彼女はしばらく逡巡した後、ためらいつつも、口を開いた。
「少し……怖いの」
「怖い?」
怖い? 何が。花が咲くことが? どうして。
「どうしよう」
彼女は震えていた。私はそのことに少なからず驚いた。それはそうだろう。誰が彼女が震えていることを予想できたのか。
「花が咲いたら、どうしたらいいのかしら」
「どうしたら?」
花が咲いたら、彼女はこの屋敷を出て行く。そうではないのか。
「本当に私を待ってくださっているのかしら。今も」
私はその言葉に何も返すことができなかった。
もうじき、半年になる。人の心が移ろってもおかしくはない時間だ。ましてやそれが恋心なら。会いもせず、ただずっと待ち続けるには苦しい時間だろう。
やはり最近、手紙を受け取っているのを見た覚えはない。
「私は待っていたけれど、あの人は私を待っていてくださっているのかしら」
そう言う彼女の瞳が潤んでくる。
「信じなくてはいけない、と思うのに、どうしてこんなに不安になるの。私、こんなに、疑い深い人間だったんだわ」
「それは仕方ない。半年も離れているのだから」
恋人同士ならば、毎日でも会いたいと願うものだろう。
そうして愛を育んでいくものだろう。
けれど彼女にできたことは、窓辺の植木鉢を眺めることだけ。
「それに私、本当に何も知らない。何の教養もない。私はあの人にふさわしくない。こんな私をいったい誰が必要とするのか分からない」
「そんなことは」
彼女はこの屋敷で勉強して、知ってしまったのだ。
知らない、ということを。
「怖い」
彼女は自分の肩を自分で抱いた。
「私だけが待っているのではないかしら。本当はもう私を待っていないのではないかしら。誰も言わないけれど、私はもうどこにも行けないのではないかしら」
言葉尻が、荒い。
「大丈夫だよ」
なだめようとなるべく穏やかな声音を選んではみたが、彼女の震えは止まらない。
「夢は、そう、夢では見ていないのか? ちゃんと迎えにきてくれるのだろう?」
君の将来の姿を。
「見た……」
彼女は絞り出すようにそう言った。
一瞬、愚かにも、気落ちした。見たのか。
そしてその後に自己嫌悪に陥る。
ああ、自分はなんと醜い人間だろうか。彼女は泣いているのに。
「だったら、そんなに不安がること」
予知夢は外れたことがない。そうではなかったか。
「でも本当に予知夢だったのかしら」
「え?」
まさかと思うようなことが彼女の口から発せられた。
あのとき。テオドールさまが落馬したとき、あれだけ自分の夢に確信を持っていた彼女が、今、夢を疑っている。
「あれは、自分の願望が見せた夢だったのかもしれない。私の勝手な希望だったのかもしれない。だってあれから一度もあの夢を見ていない。一度しか見ていない」
「でも……」
「花が咲くのが怖いの。咲いたら結論が出てしまう」
「大丈夫」
思わず手を伸ばした。彼女の言葉は弱々しかったけれど、これは彼女の叫びだった。これ以上、彼女の叫びを聞きたくなかった。
無理やり彼女の頭を片腕で抱いて、胸に押し付ける。
「大丈夫だから」
彼女は身体を離そうとしたが、それを無理に力を込めて押し付けた。彼女は諦めたように、そのまま胸に顔を埋めてくる。
彼女の肩が震える。胸元が濡れてくるのが分かった。けれども彼女は声を上げない。ただ声を押し殺して涙を流すだけだ。
大丈夫。
もしも君の愛しい人がもう既に待っていなかったとしても。
ここに、君を待っている人間がいる。
本当は、そのことに気付いて欲しかった。
ずっと気付いて欲しかったのに。




