20. 蕾
馬車に揺られながら考える。
私が養子だとして、彼女らに何か得があるかといえば。
普通に考えて、養子であるところの私に見初められれば、主人の、義理とはいえ娘になれると思ったのだろう。
絶大な権力と地位。それはどんなに誘惑に満ちているだろう。
ため息が漏れる。養子になるとこういう煩わしいことも付いてくるというわけだ。今のままでは相手にもしないだろうに。
だからといって、養子に選ばれなかった自分を褒める気には全くならないが。
彼女たちは皆、扇で顔を半分隠していた。それが礼儀なのかもしれないが、本心が見えないようで怖い。
表情の豊かな彼女の方が、どんなに美しく感じられるか。
けれども、貴族のお嬢さまらしくあれ、というのなら、彼女もああするしかないのだろう。
私はふと思いついて、前方に移動して小さな窓から御者台に話しかける。
「あの」
「なんだい?」
御者が、手綱を握ったまま応える。
そういえば、同じ屋敷に勤めているというのに、あまり喋ったことはないな、と思う。でも気さくな口調で答えてくれたから、ほっとした。
「さきほどの店は、まだ開いているでしょうか」
「ああ、贈り物を受け取った? たぶんまだやっていると思うけど」
「では少し、寄ってもらってもいいですか」
「なに、恋人にでも贈り物をするのかい?」
「いやっ、そういうわけでは」
御者からは見えないだろうに、私は慌てて手を横に振る。
「ははは、いいよ、詮索はしないから。私は秘密を守るのが仕事のようなものだからね」
それはそうだろう。主人と一緒にこの馬車に乗るのは、それなりに地位の高い人物が圧倒的に多いだろう。そしてこの中でどれだけの密談が行われてきたのだろう。
御者の口数が少なくなるのは職業柄、ということなのだろうか。
でも、これはどう考えてもそんな大そうな話ではない。
「別に、秘密にするほどのことでは」
「大丈夫、大丈夫」
これ以上否定しても無駄なような気がしたので、私は大人しく座って待つことにした。
しばらくして、またあの店にたどり着く。
馬車から降りて、店の中に入った。
「あの、すみません」
「おや、さきほどの。なにか品に不都合でもありましたか?」
店主であろう男性が出てきて首を傾げる。
「いえ、とても喜んでいただけました」
「それは良うございました」
店主はそう言って満足げに頷いた。
あのお嬢さまは箱の中身を見ていないから、本当に喜んでいたかは知らないが、主人が選んだのなら間違いはないだろう。
「それで、あの」
「はい?」
「ええと、女性たちが持つような、こう口元を隠すような扇なんですが」
身振り手振りでそう言う。なんと説明すればいいのか分からない。
だが店主はすぐに分かったようだった。
「ああ、ございますよ。どのようなものをお探しでしょうか」
「そう高価でなくともいいのですが、あの、練習用……みたいなもので」
「小さなお嬢さま?」
「いえ、そういうわけでも」
私がそう言うと、店主は何を詮索するでもなく、棚から一つの箱を取り出した。
「ではこれなどいかがでしょう」
箱の蓋を取って、私の方に見せて、こちらに差し出してくる。
手に取って、開いてみた。
あの誕生会でお嬢さま方が持っていたような華美なものとは違った。質素ででも品のある、薄い水色の地に、小さな花がいくつか描かれたものだった。
白い、花。
「ではこれを」
「ありがとうございます。贈り物でしょうか、包装いたしますが」
「いや、そのままで」
そんな、畏まったものではないのだ。練習用。
他意はない。
「かしこまりました」
値段を聞くと、私の財布にも優しい、さほど高価ではないものだった。まさしく私の要望に応えてくれたということだろう。
私は金子を支払い、その箱を受け取る。
毎度ありがとうございます、の言葉を背に、再び馬車に乗り込んだ。
◇
屋敷に帰ると、彼女が奥から走り出てきた。
「おかえりなさい! どうだった?」
「……リュシイ」
「あ」
彼女は足を止めて静々と歩き出す。この癖だけはどうにも直すのに時間がかかりそうだ。
ゆっくりと歩み寄ってきて私の前に立つと、だが弾んだ声で訊いてくる。
「で、どうだった? 楽しかった?」
「楽しむ余裕はなかったよ」
「そうなの。どなたかに誘われた?」
「いや全く」
あれは誘われたとは言わないだろう。ただ単に、主人の養子であるかもしれない男に群がってきただけだ。
「ええ? でもそうだわ、こういうことは男性から誘わないといけないのかも」
思いついた、というように、彼女は手を叩く。
「まさか。しないよ、そんなこと」
「そうなの……」
なんだかがっかりしている。彼女が落胆するような話でもないのに。
だが彼女は、ここに閉じ込められているようなものなのだから、舞踏会の話を聞いて、擬似的に楽しみたかったのだろう。
だから、言葉を重ねてみる。
「けれど、とても華やかな誕生会だったよ」
「まあ」
リュシイは顔を上げて、表情を輝かせた。
「たくさんの人が招待されていて、女性たちは皆、綺麗なドレスを着ていて」
「そうなの」
「音楽隊が来ていてね、それに合わせて踊るのだけど、そのドレスがくるくると舞うようで」
「素敵! 物語の中みたいね」
楽しそうにそう言うから、少しほっとした。
「物語の中と言うけれど、いつかリュシイも参加することになると思うよ」
「私? 私は……なんだか想像がつかないわ」
そう言って、少し考えこむ。
そうだろうか。
私には、誰よりも輝いてあの中にいる彼女が、簡単に想像できるのだが。
「そうだ、これ」
私は懐にあった箱を彼女に差し出した。
「なあに?」
彼女はおそるおそるという風に、それを受け取った。
「今日行ったら、ほとんど……と言っていいと思うけど、お嬢さま方が持っていらしたから、リュシイにも必要かと思って」
彼女は箱をしばらく眺めて、そして私を見上げてくる。
「私に下さるの?」
「ああ」
「開けていい?」
「どうぞ」
彼女は蓋を開ける。
「わあ」
声を上げた。
「素敵。扇?」
そう言って、中にあるものを広げてみせる。
「見たことあるわ。こうして口元に当てるのよね」
「そう……かな」
慣れていないからか、お嬢さま方とは何か少し違うような気がしたが、何が違うのか分からない。だがそのうち馴染むのだろう。
ただ、その質素だけれど品の良い扇は、彼女にとても似合っているような気がした。
「ありがとう」
彼女は微笑む。
「そう高価なものではないから申し訳ないけど」
そう言うと、彼女はふるふると首を横に振った。
「嬉しい。大切にするわ」
そう言って、扇を胸に抱いた。
あの誕生会で感じていたモヤモヤが、一気に払拭されたような気がした。
「そうだわ、見て」
「え?」
言うなり、彼女は私の手首を掴んだ。
引っ張られるまま、足を進める。たどりついた先は、彼女の部屋だった。
「ええと」
「ねぇ、これ、蕾じゃないかしら?」
彼女が窓際に寄り、植木鉢の中の木を指差す。
「蕾?」
私は彼女が指差す先を覗き込む。
葉と葉の間にある、小さな小さな粒。言われなければ分からないくらいだ。
だが、他の粒と比べても、確かに少し違う気がする。他のものは、これから葉になるのだろう。
けれどもこれは、真ん丸い。
もしかしたら、これから膨らんでいって、白くなってくるのかもしれない。
「そうだね、蕾かもしれない」
私がそう言うと、彼女はぱっと表情を輝かせた。
「そうよね、きっとそうだわ」
そして、手にした扇を広げた。
「もしかしたら、こんな花が咲くのかしら」
扇に描かれている、小さな白い花。
この木にその花が咲くことを想像する。なんだかとても似つかわしい気がした。
「そうだね、そうかもしれない」
「素敵な贈り物をありがとう」
彼女は扇を閉じると、またそれを胸に抱いた。
私は一瞬、そのやっとついた蕾を、引きちぎりたいような衝動に駆られた。
そのとき私の胸に湧いた感情は、唾棄すべき、醜い想いだっただろう。




