2. きっかけ
表向き和やかな夕食が終わり、リュシイと名乗る少女は、用意された客間へと戻って行った。
その後主人は、残ったアネットと私に言い含めてくる。
「これから私は忙しくなると思います。王城に詰めることが多くなるでしょう。その間、彼女のことをよろしく頼みます」
私とアネットは顔を見合わせた。
正直、今のこの状況がまったく理解できない。その上、頼りの主人が家を空けることが多くなるとは。
今、少女はこの場にいない。なにかを問えば、今ならば答えてくれるかもしれない。だが、なにから訊けばいいのか。
私とアネットはそれを視線で探り合う。
だが主人は、私たちが質問する前に、こう言い放った。
「彼女のことは特に秘密にするほどのものではありませんが、言い広めるものでもありません。妻も娶らず、ただ一身に王城に仕えていた私が、ほんの気まぐれで彼女を引き取ったのです。皆には納得できかねる話かもしれませんが、年寄りの道楽と思ってもらって構いませんよ」
「道楽……」
私はその言葉を口にする。道楽。
確かに、孤児を引き取る貴族は多い。自分が慈悲深い人間であることを知らしめるためだったりもするし、子どもに恵まれない夫婦が優秀な子どもを引き取ったりもする。
だが中には、本当に戯れに道楽として……奴隷同然に扱う人間もいるという。
それに、彼女は美しい。自分の好みに育て上げる楽しみを味わう者がいたとしてもおかしくはない。
しかし、主人には、そのどの考えも似つかわしくないように思えた。私が誰よりも尊敬する主人には。
「お嬢さまに、貴族の娘としてふさわしい振る舞いを教えて差し上げればよろしいのですよね?」
アネットが口火を切った。
「その通りです」
「ですが……、今の食事を見ましても、さきほどからの立ち振る舞いを見ましても、まったく教育を受けていないように見受けられるのですが」
「それも、その通りです」
「でも、半年でと」
「そう。多少、厳しくしてもらっても構いません。半年で叩き込まなければ私が恥をかくのだと思ってください」
主人の恥となる、と言われて、アネットは背筋を伸ばす。
「お任せください」
アネットはそう了承して頭を下げた。
「あの……」
今の会話でふと不安になった。
「なんでしょう?」
「まったく教育を受けていないということは、すべて一から教えなければならないということでしょうか」
「そうなります」
「半年、なんですよね」
「そうです。それ以上の時間はありません。彼女は半年後にこの家を出ます」
「えっ」
たった半年のお嬢さま、ということか。何のために。それが『道楽』だというのか。
だが穏やかに微笑む主人の顔は、「それ以上は訊くな」と語っているように思えて、私たちは口を閉ざすしかなかった。
「ああ、それと」
「はい」
「彼女は、この屋敷から出さないようにしてください」
またしても驚くべき要望だ。
「屋敷から? 一歩も、ですか?」
「庭なら構いませんよ。でも、この敷地内からは出さないように」
「……はい」
確かにこの屋敷は広い。もちろん庭も、私ですらまだ立ち入ったことがない場所があるんじゃないかと思うほどに。
でもそれは、監禁に近いのではないのだろうか。主人のことだから、まさかそういうつもりではないのだろうけれど。
しかしずいぶんな制限のように思われた。
「それから、もうひとつ」
まだあるのか。
「なんでしょう」
「客人はあるかとは思いますが、しかし私の許可のない者とは会わせないでください」
ますます監禁のようだ。いったい何の意図があるのだろう。
「これは絶対です。許可を出す方には前もって書類を渡しますから、それを見てから判断するように」
「わかりました」
「絶対ですよ」
そう念押しして、主人は私とアネットを交互に見つめた。
私たちは、もちろんうなずくしかできない。
「それがどんなに身分の高い者であっても、そう、それがたとえ国王陛下であろうとも、私の許可のない者には絶対に会わせないようにしてください」
「あの……」
アネットが小さな声で主人に問い掛ける。
「差し出がましいこととは存じますが……。でも、それは管理しすぎではないでしょうか。どんなお嬢さまであっても、そこまでは」
なにか思ったのか、おずおずと異論を唱える。
「半年の我慢です。半年過ぎれば、もちろん屋敷の外に出ることを許します」
主人の考えは揺るぎそうになかった。
だから私たちは、「かしこまりました」としか返すことができなかった。
◇
主人も退席したあと、私たちは食卓を片付けながら、ぼそぼそと話し合った。
「ジルベルト、どういうことか、わかる?」
「残念ながら、私には……」
彼女がこの家に半年だけ預けられる理由も、そもそもなぜ主人が急に養女などを欲したのかも、彼女がどこからやってきたのかも。
それに、この屋敷に閉じ込められる理由も。
この情報量では、いくつかの無責任な推測はできても断定することは不可能だ。だが、だからと言って、主人にそれらを訊くことは憚られた。
それを許さない、主人の雰囲気。
「そうよね。私にも、さっぱり」
そう肩をすくめて、ため息をつく。私もつられて息を吐いた。
「半年だなんて……。作法というものは日々身に着けるものだというのに、叩き込むなんて大丈夫かしら」
アネットは不安げな声を出す。
「あなたも大変よ?」
私のほうに振り向いて、心配そうな視線を寄こす。
私は小さく苦笑いするしかできなかった。
「でもねぇ」
とアネットは続けた。
「もしもジャンティさまが養子を迎えるのだとしたら、あなただと思っていたわ。きっと皆もそう思っている。そしていつか後継者にするつもりだと思っていたのだけれど」
「私ではお眼鏡に適わなかった、ということなのでしょう」
自分でそう口にしながら、胸が痛んだ。
実のところ、ここのところ伸び悩んでいる。
できることなら王城に勤めたいと思っているのだ。主人の跡を継ぐべく。
けれども成績が伸びない。王城の官職につくための模擬試験があるのだが、それがずっと横這いなのだ。
十分に合格範囲内の点数ではある。本試験であれば、すぐにでも王城に勤められる。だが、最初の試験の成績が後々まで響いてくるのは間違いない。できれば好成績を残して王城に入りたいのだ。
王城に入るには他にも剣術や弓術、体術に馬術といろいろと見られるが、それはそこそこできればいいし、私にもそれなりにたしなみはある。下手に得意だと軍のほうに回されてしまうから、それは心配していない。
だが、頭脳のほうを問われてそれが十分でないというのは、私にとって致命的だ。
二十二歳。もうすでに遅れをとってしまっている。あと何年の猶予があるだろう。そればかり考えて焦ってしまう。
勉強はしている、と思う。だが頭に入ってこない。どうしてもどこか抜けてしまっている。
試験の結果を見て、やはり主人は眉間に皺を寄せた。私を責めたりはしない。けれども期待に応えてはいないのがわかる。
「ジルベルトには、なにかきっかけが必要なのかもしれませんね」
主人はそう零した。
では彼女ならば主人の希望通りに育つとでもいうのか。たった半年で。
わからない。ただ、主人に必要とされたのは彼女だったということだ。
「そんなことないわよ」
そう口にして、アネットは私の肩をぽん、と叩いた。私の心の内を察したのかもしれない。自分の息子のように私を可愛がってくれている人だから。
「彼女は『道楽』で連れてこられたのだから。明らかに『後継者』にしようとしているのではないわ。半年しかここにはいないのだし」
その慰めの言葉に、私はやはり曖昧に笑みを浮かべるしかできなかった。