18. 教皇
夜、厠に行って戻る途中、彼女の部屋の前に差し掛かった。中から薄く明かりが漏れている。
まだ起きているのか。
「リュシイ?」
そっとノックをして中を覗き込む。
彼女は机の上に突っ伏していた。
机の上には紙が散らばっていて、彼女はペンを持ったまま眠ってしまったようだ。
「リュシイ? 風邪を引くよ」
声を掛ける。ぴくりとも動かない。もしかしたら倒れたのではないかと思うほどだが、健やかな寝息が聞こえるので、ただ単に疲れて眠っているだけなのだろう。
私は部屋の中に入る。
「リュシイ?」
何度も声を掛けるが、やはり反応しない。深く眠ってしまっているのだろう。
根を詰めすぎだ。きちんと休憩も取らないと。
これはもう揺り起こすしかないかと小さくため息をつくと、彼女の横に立って手を伸ばした。
だが、それ以上、動くことができなかった。
今。もしかしたら、夢を見ているのだろうか、と思った。
いや、安らかな寝顔だ。きっと今はうなされていない。
人は疲れを取るために眠るのに、彼女は辛い夢で起こされる。
今、もしも夢を見ることもなく深く眠っているのならば。
触れてはいけない。私は、彼女に触れてはいけないのだ。
ため息をつく。だからと言って、このままにはしておけないだろう。
私は足音を立てないように寝室の寝台にゆっくりと歩み寄って、そこから毛布を一枚引っ張り出した。
それを彼女の背中にそっと掛ける。
「君は」
たぶん、聞こえてはいないだろうけれど。
「君は十分に頑張っているよ」
そう声を掛けると、私は明かりを消して、音をたてないように、そっと部屋を出た。
◇
また主人が客人を連れて帰ってきた。
だがその客人は、玄関に横付けされた馬車から降りては来ない。
馬車から降りてきたのは、司祭さまと主人だけだ。
そのとき、開けられた扉から、馬車の中が見えた。
豪奢な白の祭事服を着ている。立派な髭を、手で梳いていた。
聞かずとも、分かった。
教皇さまだ。
何を言われなくとも、頭を垂れずにはいられない。何という威厳の持ち主だろう。
「急で申し訳ないが、リュシイ殿をお借りしたいのだが」
司祭さまが私にそう言う。
「は、直ちに」
私は彼女の部屋に向かう。
部屋の扉をノックすると、薄く開いた扉から、「はい」と返事があった。
扉を開けると、彼女は勉強をしていたらしく、ペンを持ったまま、顔を上げてこちらを見ていた。
「ええと、実は、教皇猊下がお呼びなんだが」
驚くだろうか、と思っていたが、彼女はペンを置くと、落ち着いた様子で立ち上がった。
「今日になったのね。分かりました。着替えてから参ります」
「あ、ああ……」
教皇さまの訪問は、かねてより決まっていたのだろう。
何が起こっているのかは分からないが、私は彼女の部屋の扉を閉め、そして玄関に向かう。
「少しかかるようですが、呼びましたのでお待ちください」
それは承知していたのか、司祭さまも主人も、小さく頷いた。
それから、さして待たせることなく、彼女は廊下をこちらに歩いてきた。
真っ白い、全く飾り気のないドレスを着ている。
それがまるで花嫁衣裳のようで、私は息を呑む。
いつかこうして屋敷を出て行く日がくる。
そのことが急に怖ろしく感じられた。
彼女は手に何やら荷物を持っている。敷布に包まれて中身は分からない。
彼女は少し口の端を上げて、こちらを見た。
「行ってまいります」
「あ、ああ……」
彼女は教皇さま、司祭さま、それに主人と四人で馬車に乗り込み、屋敷を出て行った。
◇
また庭の草むしりをすることにした。
ああ、リュシイが来てからというもの、未読の書物が増えるばかりだ、とため息をつく。
間違いなく、彼女のせいではない。私自身の問題だ。
本当は草むしりはそれほど急ぎではないのだから、今やらなくてもいいのだ。
けれどもどうにも、落ち着いて自身の勉強をするような気にはならなかった。
ずいぶんと堕落したものだ、と思う。
だが、そればかりではない。
きっと彼女から得たものも、多い。
日々の心がけであるとか、人との付き合い方とか、普通の人ならば身に着けていて当然のことを、おそらく私は彼女が来てから初めて学び始めたのだ。
そしてそのことで、私の心の許容範囲がいっぱいになってしまったのだ。それでどうしたらいいのか分からなくなってしまって、戸惑っているのだ。
そう思い至ると、ひどく自分が人よりも劣っているような気がして、落ち込む。
どうしてこんなにみっともないのだろう。
車前草があって、思わず手を止める。そしてそれだけ抜かずにおくことにした。
しばらくして雑草の山が築き始められた頃、玄関の方から馬車の音がした。
誰か来たか、と向かうと、ちょうど教皇さまの馬車が屋敷の前から去っていくところだった。その前を主人の馬車が案内するように走っている。
そして馬車から降りたのであろう彼女が、一人で玄関先に立っていた。
だが、その姿が尋常ではない。
「どうしたっ?」
私は慌てて彼女に駆け寄った。
彼女は全身、濡れ鼠だった。銀色の髪から水が滴り落ちている。白いドレスの裾を引っ張って、それを絞っていた。
白く細い足が見えて、私は思わず目をそらした。
そのついでに空を見る。当然だが、晴れていた。通り雨などではない。
「着替えようかと思ったんですけど、帰ってきたほうが早いかと思って」
そう言って彼女は笑った。
「ちゃんと拭いたつもりだったんですけど、まだ結構濡れていて。これでは馬車も濡れているわね。申し訳ないわ」
「いや、そういうことではなくて」
「ではどういう?」
彼女はきょとんとして首を傾げた。
一体何があったんだ。
まだ寒くないとはいえ、もうそろそろ冷え込んでくる季節だ。そんなときにずぶ濡れになるなど、正気の沙汰ではない。池にでも落ちたのか。どうして。
「とにかく中に」
彼女の背に手をやって、屋敷の中に入れる。
「あら! ずぶ濡れじゃないの!」
中に入ったとたん、奥からアネットが駆けつけてきた。私が叫んだのが聞こえたのか。
「一体どうしたの、風邪を引いてしまうわ。早く、こちらへ」
「でも、床が濡れてしまいます」
私たち二人の慌てぶりとは対照的に、彼女はのんびりとそんなことを言った。
「そんなの後から拭けばいいから」
言われて彼女は二人で奥へ行ってしまった。お湯を使うのだろう。
私はため息をついて、掃除具置き場へ向かった。床を拭いておこう。
一体何があったのだろう。
彼女は、教皇さまと一緒に出かけたのではなかったか。
ではなぜ教皇さまはこのように彼女を濡らしてしまったのか。
行ったところがたまたま雨だった? いや、帰ってきた時間から考えて、そんな遠出はしていないはずだ。
なんらかの嫌がらせ? まさか。教皇さまに限って。それに主人も一緒だった。
教皇さま。教会。水。
私ははっとして顔を上げた。
そうだ。洗礼だ。
水は身を清めるという。だから洗礼には水は欠かせない。
正式には川を使う。穢れを洗い流す意味があるのだ。
だがいちいち洗礼を受ける者全員を川に入れては大変なので、額に水をかけるという程度で済ませるのが慣例だ。私も洗礼の際にはそうした。
それにしても教皇さま御自ら洗礼をなさることなど、ほとんどないはずだ。王族の洗礼などは教皇さまがなさるが、それ以外には聞いたことがない。皆の洗礼を彼が引き受けては大変なことになる。
予言者である彼女の洗礼は、特別だったのだろう。
床を拭いていたモップが、キュ、と耳障りな音をたてたので、動きを止める。
教会は、本当に彼女を欲しがっているのかもしれない。
地震を言い当てたという、あの力を。
◇
窓辺に置かれた植木鉢は、少しずつ少しずつ成長していった。
「ここに来た頃は、五、六枚くらいしか葉がなかったように思うのだが」
「そうなの。ずいぶん大きくなりましたでしょう?」
彼女はそう言って微笑んだ。
あの小さかった苗木は、葉を伸ばし枝を伸ばし、もう『木』と呼んでもいいほどに育ってきていた。
「どんな花が咲くのかしら」
「まだ調べていないのか?」
「ええ、咲くのを見るのが楽しみ」
そう言って彼女は口元に笑みを浮かべ、眩しそうに植木鉢を眺めている。
でも。
でも、咲いたら君は出て行ってしまうのだろう?
もしかしたら、もう会えないのかもしれないのだろう?
私には、彼女のように花の成長を喜んで笑うことはできなかった。




