17. 幸せな夢を
今度は足元に気をつけながら、二人してゆっくりと屋敷に戻ると、屋敷の前には何人もの人間が集まっていた。
その中の一人が私たちの姿に気付くと声を上げた。
「帰って来られたぞ!」
皆がこちらを見る。二十人はいるか。
その中に、主人もいた。
「テオドールさま! ご無事で!」
主人が慌てて駆け寄ってくる。司祭さまは馬を下りると頭を掻いた。
「いや恥ずかしいな、こんなにたくさんの出迎えがあると」
「何を仰っているのです! 御身に何かあったらと、生きた心地がしませんでしたぞ」
「ああ、それはこの書生が助けてくれたから。助かったよ、死ぬかと思った」
そう言って笑う。
笑い事じゃない、と主人はため息をついた。
「もしや王城から救助隊を派遣しようとしたのかな?」
「当然です!」
「それは申し訳ないが、無駄に終わったようだ」
「無駄になって幸いです」
王城からの救助隊。では今ここにいる男たちがそうなのか。
彼女の夢の話を聞いて、王城が動いた。
本当に本物なのだな。
テオドールさまの言葉だ。
そして今、私の心の中でもその言葉が繰り返された。
そのとき、屋敷の中から誰かが飛び出してきた。リュシイだ。
「ああ、テオドールさま! 良かった、本当に良かった!」
彼女はぼろぼろと涙を零している。
「もし間に合わなかったらと思うと……私……」
「おや、私としたことが女性を泣かせてしまった。すまないことをしたね」
「そんなこと! 本当に良かった……」
安堵の涙を流し続ける彼女の肩に、テオドールさまはぽんと手を置いた。
「あなたの予言のおかげだ。助かった」
「ありがとうございます……。でも、もう少し早く知っていれば」
「いや、充分だ。さあ早速だが勉強を始めようか」
「まあ」
飄々とした態度の司祭さまを見て、彼女の涙も収まってきたらしい。彼女は目頭を指で押さえて微笑んだ。
二人は並んで屋敷に入っていく。
「よくやってくれました」
ふいに主人からそう言われて背筋が伸びる。
「あ、いえ……私は」
「驚いたでしょう。言っていなかったから」
「ええ、まあ……」
「後で詳しいことを話します」
そう言うと、主人は踵を返した。
「テオドールさまのご無事も確認できました。ここまで来てもらって申し訳ないが、城に戻っていいですぞ」
主人に言われて、救助隊の人間たちが一礼して帰っていく。
私は呆然とそれらを眺めることしかできなかった。
◇
泥まみれの服を着替え、落ち着いた頃、主人の部屋に呼ばれた。
部屋に行くと主人が来客用のソファを指した。
「どうぞ、座ってください」
言われた通り、ソファに腰掛ける。主人も私の正面に座った。
そして笑いながら言う。
「びっくりしましたよ。帰ってきたらリュシイが泣いているから。私の知らない間に苛められているんじゃないかと思いました」
「そんなこと」
真剣な顔でそう応えると、主人は小さくため息をついた。
「冗談ですよ」
「あ、すみません……」
それからこちらをまっすぐに見つめてくる。
「こういうことがあるのなら、言っておくべきだったかもしれません。意図的に隠したわけでもないんですが、でも自慢げに話すことでもないですし。いや、これは言い訳ですかな」
「はあ」
何と応えていいのか分からない。
主人はしばらく私の顔をしげしげと眺めたあと、ぽつりと言った。
「地震のあと、市井の間で流れた噂は知っていますか?」
「噂?」
いきなり何の話だ。
戸惑いながらも、思い起こす。
「ええ、たぶん、耳にはしています」
「どんな噂でしたか?」
「ええと、女神が陛下に地震の……予言……を」
私ははっとして顔を上げる。主人は頷いた。
「そう」
まさか。
「その女神とは、彼女のことです」
あまりのことに、私の口は開いたまま塞がらなかった。
「王城の者は皆、知っています。地震のときに伝えました。それが女神に変わったのは、予言者がいると広まると混乱させてしまうだろうと思ったからです」
それはそうだろう。教会だって立つ瀬がなくなる。すがるものが教会から予言者に代わることだって考えられる。
「よく……信じましたね」
今朝、私も彼女が言っていることを信じられなかった。
ただ、彼女が落ち着くならと、向かっただけだ。
行って良かった。本当に、良かった。
「ええ、まあ。そりゃあなかなか信じられませんでしたけどね、あれだけ何度も言い当てられては」
そう言って苦笑する。彼女は地震の他にも、たくさんのことを予言してみせたのだろう。
「それに、もしも外しても、それはそれでいいじゃないですか。何も起きなければそれが一番いいに決まっている」
「ええ」
私は頷く。
本当に、良かった。ご無事で。
もしも何事もなく屋敷にテオドールさまが着いていれば、それはそれでもっと良かった。
「しかし……本当にいるんですね……予言者というものが」
「ええ、占い師や、予言者を自称する者ならいくらでも見てきましたが、本物は初めてです」
王城で、あの大震災を予言した。
それならば彼女のあの人脈も納得だ。
王城の侍女、隣国の王子、そして主人。皆、リュシイのことを知っていた。どういう道筋で知り合ったかは分からないが、皆、あの地震のときに彼女と関わったのだ。
それに、王城はもちろん、教会だって関わっていてもおかしくはない。
そういえば、細かなことだが、何度か行動を言い当てられたことがあることを思い出す。
馬の前に人が飛び出てくる、と忠告されたこともあった。あの忠告がなければ、本当に人を馬で蹴っていたかもしれなかった。
きっと彼女は夢で見ていたのだろう。
これから起きることを。
「……幸せな」
「え?」
「幸せな夢なら、いいのですが」
私のつぶやきに、主人は頷いた。
今回だって彼女は泣いていた。きっと地震のときも、夢を見ながら泣いていたのだろう。
未来を知るのは、きっと良いことばかりではない。
「ジルベルトが聡くて良かった」
主人はそう言って微笑んだ。
「彼女の力を羨んだり妬んだりする人間は多々います。でも、ジルベルトならばそう言ってくれると思いましたよ」
「いえ……私など」
予知という能力に対してではないが、最初の頃は、彼女の立場や努力の上に得た知識にも妬んでいたのだ。
なんと愚かなことだったか。
「あの……テオドールさまが今までいらしていたのは……」
「もちろん、彼女にエイゼン神を信仰させるためです。彼女は予言者だ。彼女を神と崇めて新しい宗教が出来るかもしれない。それは王城にとっても教会にとってもよろしくないことですから。彼女も承知してくれましたし」
だが、司祭さまにはどうやら別の目的があったようだった。
「教会には、誰か彼女に信仰を教えて欲しいと言っただけだったんですがね、まさかテオドールさまを寄越してくるとは」
そう言って主人は苦笑した。
司祭さまは、彼女を口説きたいようだった。いや、彼自身がどれほど乗り気だったかは知らないが、誰かに口説くように言われたことを仄めかしていた。
教会は、彼女の力が欲しかったのだ。予言者が次期教皇の妻となれば、その力を教会が掌握できる。
それが目的だったのだ。
彼女にとって、予知の力は何なのだろう。
エイゼン神を信仰することを承知した、ということは、他人に自身を信仰させるつもりはないということだろう。
彼女はそんなことを望むような人間ではない。
けれども周りは勝手に動く。彼女の力を巡って。
そのことを彼女は喜ぶだろうか。
どうしてもそうは思えなかった。
「私たちの仕事ですよ」
「え?」
「彼女に幸せな夢を見せるのは」
主人は私の目を見ている。心の中まで見透かそうとしているようだ。
私は背筋を伸ばす。
「はい、尽力したいと思います」
「よろしい」
そう言って、主人は微笑んだ。




