15. 執着
「おかえりなさい!」
もう門番以外は皆が眠っているだろうと思っていたから、そう声を掛けられて驚いた。
リュシイがぱたぱたと玄関まで走ってくる。
「まだ起きていたのか」
「そろそろ帰ってこられる頃かと思って」
「帰らないかもしれないと言っていたのに」
「いいえ、帰ってくるのは分かっていましたから」
彼女はそう言って、微笑んだ。
『分かっていた』? 帰ってくると『思っていた』、ではなく?
先に誰か早馬でも寄越したのか。まさか。そんなことをして誰が得をするのか。
「ほら、前に私の料理を食べてみたいって言っていたでしょう?」
「え、ああ」
彼女は満足したように頷いた。
「何も食べていらっしゃらないと思って、スープを作ってみたの。お口に合うかどうかは分からないけれど、お召し上がりになって?」
王の申し出を断ったのに、彼女の作ったスープを受け入れるのは少しだけ躊躇われたが、良い匂いがほのかに漂ってきて、私は首を縦に振っていた。
厨房に入ると、彼女が皿にスープを注いでいた。
「どうぞ」
椅子に腰掛けると、匙と共に、目の前にスープを置かれた。そしてその脇に、何やら小鉢に入った野菜の炒め物のようなものも置く。
彼女はというと、回りこんで私のすぐ前に腰掛け、こちらを見てにこにこと微笑んでいる。
どうやら感想が欲しいようだ。
スープを一口、口に含んだ。温かい。身体の芯から温まりそうだ。鼻に抜ける玉葱の香り、柔らかい舌触り。
「美味しい」
その言葉が口をついて出てきた。
「不味かったらちゃんと不味いって言って、と約束したのを覚えている?」
「いや、本当に美味しい」
嘘じゃない。
「良かった」
そう言って彼女が笑う。
小鉢の方にもフォークで手を付ける。それを口に運んだ。
「美味しいけど……これは?」
多少、苦味がある。だがバターの味がして、ちょうどいい苦味になっている。あまり食べたことのない感じだ。
「それ、車前草なの」
「えっ」
「柔らかい葉を選んで、アクを抜いて、バターをちょっといただいて、炒めたの」
「へえ」
「ね、食べられるでしょう?」
そう誇らしげに言う。
「うん、少し苦いけれど、美味しい」
「不味くはないのね?」
「うん、美味しい」
緊張していた身体から、力が抜けていくのを感じた。
彼女はこちらを眺めて微笑んでいる。
もしも彼女をずっと傍に置いておける人間ならば、こうしてずっと和むことができるのだろうか、と思った。
◇
それから二日して、主人は屋敷に戻ってきた。
そして私に出会ったとたん、こう言った。
「陛下はジルベルトのことを覚えていらしたでしょう?」
髭の奥の口の端が上がる。
そのときの経過などを聞いてこないということは、既に全てを把握しているのだろう。
私は、主人が自室に帰ろうとする、その後をついて行った。
「ええ、覚えておいででした。一度見た顔はお忘れにならないとか」
私がそう言うと、主人は立ち止まって、何度か目を瞬かせた。
「おや、それはずいぶん信頼されたものですね」
「え?」
なにがどうして信頼を受けたという話になったのか。
主人がまた歩き出したので、私もそれについて歩く。
主人は自室に入ると、私も一緒に入るよう促し、そしてソファに腰かける。私もその斜め前に座った。
「陛下はそういうとき、確かに相手のことを『覚えている』と仰います。が、ご自分の特技は伏せています」
「というと……」
「『印象に残ったから覚えていた』という言い方をされます」
「どうして」
「そりゃあ、そう言われた方が嬉しいでしょう?」
主人はそう言って笑った。
確かに。
国王陛下に名や顔を覚えていただいている、ということが嬉しくない人間がいるだろうか。特に、この国のさほど地位が高くない人間ならば。それだけで舞い上がってしまうだろう。
「おかげで、信者とも呼べるような人間になってしまった人を何人も知っています」
主人はそう言って苦笑した。
「でも、近しい人間にはそういうことは仰いません。そんな風に取り繕う必要もありませんからね。ジルベルト、あなたは近しい人間と判断されたのですよ」
「……そう、でしょうか」
「おそらくは」
少しだけ、ほんの少しだけだが、心が躍ったような気がした。認められたのだ。私が。
だが、主人はため息をついた。
「陛下も無防備ですな。いくら私の屋敷にいる書生とはいえ、ほぼ初対面でそんな判断をなさるとは」
「はあ……」
「まあでも、私はあの方のそういう無邪気なところは好きですがね」
そう言って、にやりと笑う。
「無邪気……ですか」
「ええ。あの立場にいる人間にしては、他人を信じやすい方ですね」
「そうなんですか」
「あの方はね、生まれてこの方、継承権争いというものをしたことがないんです。それでかもしれませんね」
王位継承権争い。玉座に着くものは皆、多かれ少なかれそれを経由するものかと思っていたが、そうでないこともあるのか。
「ええ。もちろん、継承権をお持ちの方は他にもおられますよ? 先王陛下には二人の弟君もおられましたしね。ですが陛下は、先王の唯一の忘れ形見。健康にも問題はない。加えて、器用なんですな。何事にもそつがない。陛下も人の子、小さな失敗は多々ありますし、完璧とはもちろん言い難いが、大きな問題がないんです」
辛口の主人がそう言うのだから、これは最大の褒め言葉と理解していいのではないかと思う。
「けれど、王位を欲しいと思う人はいるでしょう」
「いたかもしれませんね。けれど名を挙げたところで、王城の混乱、ひいては国内の混乱を招くだけですから。仮に王位を手に入れたとしても、その後の平定は難しくなる。陛下は若いし、そこそこ見目も麗しくあられて、国民からの人気も高い。その方から王位を奪うよりも、王族として平和に暮らした方が利になる。そういう計算くらいは出来る方々しか周りにいなかったということです」
果たしてその通りだろうか。この主人の言うことをそのまま受け取るのは少し違う気がした。周りをそう思わせるために、主人も動いたのではないだろうか。
「私の見たところ、叛乱のために我が国の軍を掌握できるような器量を持った方もいませんしね」
もしもいるとしたら。ただ一人。
「これが戦乱の世であったり、国が傾くような飢饉があったのならば話は別です。陛下のような穏やかな人間では国王は務まらないでしょう。時代に即した王ということですね」
主人はそう言って、頬杖をついた。
「こういうことを考えると、神という存在を信じてもいいかとも思えます」
「神……」
主人の口から神という言葉が出てくるのは稀だ。建前上、主人もエイゼン神を信仰しているが、日々の言動を見ていると、無神論者であることは明白だ。
神に祈る暇があるなら、自分の力で前へ進め。
そういう考えの人だ。
私は、本当に今まで自分の力で進んできただろうか。
与えられた道を、何の疑問もなくそのまま歩いていただけではないのか。
私は今まで、王城に勤めて国政に携わりたいと、本当に思っていたのだろうか。
「今回は、よくやってくれました」
「いえ……本当に手助けになったかどうか……。力不足で申し訳ありません」
「そう思えるのなら、上出来です」
そう言って、主人は笑った。
でもそれで満足してはいけない。事実、大したことは出来なかった。
「いえ、陛下に指示されたことをするだけで精一杯で……」
主人はただ、私の話を聞いていた。
「もしかしたら、私などいなくとも処理できたかもしれません。私が陛下を助けなければいけないのに、むしろ助けられていました。我が国の王が頼りがいのある方だと知ったことは嬉しくは思いますが」
苦々しい笑いが漏れた。
主人はうーんと唸って髭を何度か扱く。
「それは仕方ない。経験が物を言う。王城に勤めるようになればまた違うでしょう」
「だといいのですが」
王城に勤める。そうだ、私はそのためにここにいるはずなのだ。
「まあ、とにかく。ジルベルトは陛下に悪印象はなかったようですね」
「ええ」
私の返事を聞いて、主人は何か考えるように斜め上を見つめた。
それから、少し身を乗り出してきた。誰も聞いてはいないが、まるで内緒話をするように。
「陛下はなかなか優秀なお人ではありますが、そうですね、ジルベルトに少し似ているかもしれません」
「私に?」
どこがどう似ているというのだ。自分では何一つ近いことなどないと思うのに。
容姿も地位も能力も。何一つ敵うものはないように思えて、自分をみすぼらしく感じてしまっているのに。
「あの方は、人にも物にもほとんど執着しないのです。そういうところが似ている」
「執着しないって……。あの、私がそう見えますか」
「ええ。少なくとも、今は」
そんなことはない……とは思うのだが。
いや、でも、主人にそう見えているのなら、そうなのかもしれない。
だから成績が伸びないのだろう。知りたい、という執着がないから。
それにもう、家族のことを思い出すことすら稀だ。人との関わりにも、執着がないのかもしれない。
「陛下の場合は、望めば何でも手に入りますからね、だからでしょう、執着しなかったのは」
「なるほど」
結果は同じでも、それは大きな違いだ。
「今までは、大した争いはなくやってこれた。でも、まだお世継ぎがおりませんから、これが争いの元になるかもしれない。ですから早めに御子を、と何度も言っていたのですが、これがなかなか動かない」
そうだ。若い王にはお世継ぎが未だいない。市井の間でも、妃はどうなるのだ、という話はよく出てくるらしいし、皆どこかで心配しているのだろう。
「それこそ、急がなければならないことでは」
「ええ、そうです。ところが陛下は、『良い人がいれば連れてこい』と仰っていた。まあ、そう仰られる方がこちらとしては楽なんですが」
「では問題はないじゃないですか」
「でも、近隣諸国にちょうど良い年頃の姫君がおられなかった」
そう言ってため息をついた。
「実は縁談の話はありました。我が国と血縁を持ちたい国はいくらでもありますから」
「じゃあ」
その中から選べばいいではないか。なんと羨ましい話だ。
「一番、国の大きさや立場などを考えて無難に思われる姫君が」
「はい」
「六歳の姫君なんですよ」
それを聞いて、ため息が漏れた。それはどうしようもない。
いや、子どもの頃から婚姻するなんて話はいくらでもある。産まれたばかりの姫君が妃となった国だってないこともない。
けれども我が国は、早く世継ぎを欲しがっているのだ。
その六歳の姫君を娶ったところで、世継ぎを産めるようになるのは何年先か。
「だからもうこの際、適当に侍女でもお手つきになさればいいのに、それもなさらなかった。ずっと」
身も蓋もない話だが、それだけ切羽詰まっているということだろう。
「幸か不幸か、王付きの侍女たちはほとんど皆、いずれかの大臣の息のかかった者ばかりですからね、誰だって王妃にふさわしい身分を持っている。元々、王妃になるべく王付きの侍女となったようなものですから」
あのとき、書庫に案内してくれた侍女の顔を思い浮かべる。もしかしたら彼女も、王妃になりたいと虎視眈々とその座を狙っているのだろうか。そんな感じには見えなかったが。
「ええと、でもそれは、誠実だということでは」
「この場合、誠実さなど求められておりませんよ。早くしないと、それこそ他の王族方から声が上がる。継承権争いに発展しないとも限らない」
「はあ……」
「陛下に女性に対する執着心があれば、こんなことで悩みはしなかったんでしょうけどねえ。ずいぶん長い間、悩まされました」
主人はそう言って、深くため息をついた。
なるほど。
やんごとなき立場の方々には、私には想像もつかない苦労があるらしい。
執着か。
私に欠けているもの。
だから私は、ずっとここで立ち止まったままなのだろう。




