10. 手紙の返事
リュシイに客人が来ている、とアネットに伝えると、「ジャンティさまの仰った通りね」とお茶の準備をし始めた。
この場合、予備知識が必要かと、言葉を付け加える。
「来られているのは、教皇猊下のご子息のようなのですが」
彼女はこちらに振り向いてから、ほんの少しの間、固まった。
「……嘘でしょう?」
「間違いないと思います」
テオドールという名、司祭の三つの星。それから、以前王都の教会に行った際に見かけた姿。どれをどうとっても、彼に間違いないだろう。
ただ、以前に見かけたのは、かなり遠くからだったので確たる自信はないが。
だが主人からの書状を持っていた。これでもう疑う余地はない。
「まあ、どうしてそんな方が来られたのかしら」
「さあ」
それしか言いようがない。
「とりあえず、お茶をお持ちしなくちゃ」
「客間の方におられます」
「分かったわ」
アネットは配膳台を引いて厨房を出て行く。
教皇は決して世襲制ではないが、ここのところはそれが慣例になってしまっている。育てられた環境を考えれば、信仰心に篤い子息が教皇を継ぐというのが、無難で順当なのかもしれない。
だからおそらく、あのテオドールさまがいずれ教皇を名乗ることになるだろう。
しばらくして帰ってきたアネットは、私を見て深く頷いた。
「間違いないと思うわ。教皇さまのご子息ね。遠目だけれど私も見たことあるもの」
「……どんな感じでした?」
少々下世話かと思ったが、どうにも気になって仕方ないから、そう訊いてみる。
「ううーん、なんだか聖典を読んでいらしたみたい。でも私も少しの間しか部屋にいなかったから。長居するわけにもいかないし」
それはそうだろう。考えても仕方ない。彼女と教皇の子息がどういう関係なのかは知らないが、何か信仰に関係のあることなのだろう、と適当に自分を納得させた。
私は席を立つ。
今日も彼女の勉強を見る予定だったが、急な客人でぽっかりと時間が空いてしまった。
まだ読んでいない本でも読むか、と思った。ここのところ彼女に付きっ切りで、自分の学業が疎かになっているように思う。
……でも。
たぶんきっと今は、落ち着かない。本を読むなどという気になれない。
身体を動かそう。
私はここのところ草むしりをしていないことを思い出して、庭に出ることにした。
◇
本来ならば、この屋敷の庭は庭師が手入れしている。
しかし彼は毎日通うわけではないので、手の空いたときに気付いた者が、適当に雑草を抜いたりしている。
正直、一人になりたいときや、何も考えたくないときなどに、草むしりはいい。
私だけでなく、他の者もそういった気分のときにやるようだった。
庭の端にしゃがみ込む。急ぎの仕事ではないだけに最初は少しずつ抜いていたが、その内に気分が乗ってきて、どんどん抜いた。抜かれた雑草がうず高く積まれるのを見るのも、仕事が進んだことを目で知ることができるので、心地よかった。
気が付けば、もう少しで陽が落ちる時刻になってきていた。地平線が赤く染まり始めている。
「ジルベルト!」
急に呼ばれて顔を上げる。
彼女が満面の笑みで、手を振りながらこちらに駆けてくる。
それを見るとため息が漏れた。なんだか現実に引き戻された気分だった。
「……リュシイ。だから」
私の視線に気付いたのか、彼女は「あ」と小さく漏らして、足を止める。そしてゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「ごめんなさい。走ってはいけないわね」
「そうです」
彼女は私の横にしゃがみ込む。
いや、それも貴族の娘としてどうだろう、と思ったが、面倒になったので言うのをやめた。
「……お客人は?」
「今しがた、帰られたわ」
ならば、結構長い間屋敷にいたのだ。
何をしていたのだろう。こんなに長い時間、二人きりで。
恋文の男は、まさかとは思うが教皇のご子息なのだろうか。
……なんだ?
私は自分の考えがいやに浅ましく思えて、首を小さく横に振る。何を考えているんだ。
それを彼女に気付かれたかと思い、そっと横を見ると、彼女は抜かれて積まれた雑草を眺めていた。
「なんでしょう」
「何をしているの?」
「見ての通り、草むしりです」
「ではこれは捨てるつもりなの?」
「ええ、そうです」
「どうして?」
「え……どうしてって……」
雑草は抜くものだ。景観を損なうし、他の必要な植物の栄養まで持っていってしまう。
全ての植物には命がある、とでも言うつもりなのかと思ったら、彼女は思いがけないことを口にした。
「これは食べられるのに」
「……は?」
「これ、食べられるわよ」
彼女は雑草の中から一つの草をつまみ出して、前に掲げてみせた。
「ええと……」
彼女の顔を見ると、いたって真剣なようだった。
「身体に良いのよ。薬にもなるの」
「……名前もない草かと思っていました」
「車前草というの。馬車道にも生えている、丈夫な草なの」
「……そうですか」
私の間の抜けた返事を聞いて、彼女はあっと口を押さえた。
「もしかして、お嬢さまらしくないのね、こういう話」
「いや……なんというか」
知識として、あって損はない話ではあるだろう。先の地震のことなどを思えば、特に。
あのときは、王城の蓄えからかなりの持ち出しがあったという話だし、近隣諸国からの援助もあった。それでも食料は充分とは言い難かった。
だから、知っていて損はない。
だが、貴族として生きてきたお嬢さま方がこういう知識があるかと問われると……それは疑問だ。
おそらく彼女らは出された食事を何の疑問もなく食する。それは、いと優雅に。
「いえ、確かにお嬢さまらしくないかもしれませんが、それは知っているといいことだと思いますよ」
「……そう?」
彼女は上目遣いでそう言ったあと、にっこりと笑った。
「こういうことは、私、たくさん知っているのよ。教えて差し上げてよ?」
そう得意げに言うから、自然と口から笑みが零れた。
「では拝聴いたしましょうか。でももう暗くなってきました。また後日にでも。今日は中に戻りましょう」
「ああ、そうね」
彼女は立ち上がる。私も立ち上がって手をはたいた。
そしてリュシイは頭を下げた。
「今日は、ごめんなさい」
「え?」
「勉強を見てもらうはずだったのに」
「ああ、来客があったのだから、仕方ないですよ」
「明日は頑張るわね」
彼女は笑顔で決意表明をする。
それを言うために、庭に出てきたのか。
急に、嫉妬していた自分が馬鹿みたいに思えた。
彼女はただ、彼女らしいだけなのだ。
生きるために必要なことは知っていて、それ以外は知らない。それだけのことだ。
そして私もそうなのだ。私が生きるために必要なことは知っている。それ以外は知らない。
その知識に、優劣はない。
どちらが優れているという話ではないのだ。
なのに勝手に張り合って嫉妬して。私はなんという小さな人間なのだろう。
屋敷の中に入りながら、私は彼女に聞いた。
「食べられるという話だったけれど、料理はできるのですか?」
「そりゃあ、ここの調理師の方々ほどは上手くありませんけども。幼い頃に両親を亡くしましたから、長い間一人で暮らしていて、それなりにはできるんですよ」
「へえ……」
幼い頃に両親を亡くした、というのは珍しい話でも何でもないが、その後、一人で暮らしていた? この年で?
幼い頃から両親はいない。
では、彼女に虐待を加えたのは、少なくとも親ではない。
「一度、食べてみたいですね」
「では今度機会がありましたら作って差し上げますわ。不味かったら不味いって正直に言ってくださいね」
「不味かったら、ね」
自分の中の壁が一つ取れたら、彼女との間もずいぶん狭まったような気がする。拒絶していたのは私だけだったのだろう。
横を歩く彼女の助けになりたいと、そのとき、思った。
なかなか現金な話ではあるが。
◇
次の日、彼女の部屋に行くと、何やら慌てて机の上のものを片付けているようだった。
「……何?」
「いえっ、あの……」
彼女は机の上を片付け終わると、俯いて頬を両手で包んだ。
「先日いただいたお手紙に返事をしたいと思っているのだけど……。読むのも難しいけど、書くのも難しくて」
「……ああ、あの手紙」
恋文への返事は、当然恋文だろう。
もちろん人には見せたくない代物に違いない。
「知らない単語も多いし、私の字では読めないかもしれないし、その上、何を書けばいいか悩んでしまって」
そう言って苦笑いをする。
何を書けば、など。何を迷う必要がある。
想いを伝えればいいだけの話じゃないのか。好きですだの、愛してるだの、歯の浮くような言葉はこの世の中に嫌というほど溢れている。
なんだか意地悪なことを思ってしまったようで、ハッとする。ずいぶんと私は矮小な人間みたいではないか。
「……近況でも書けばいいのではないかな」
「近況?」
「今どんな生活を送っているのか、心配なのではないかな」
「そうね、そうだわ」
彼女はそう言って笑った。
「そうするわ」
「きっと、そんなに急がなくとも大丈夫だろう。丁寧に書いた方がいいかもしれない」
主人の話によると、相手方は彼女が文字をそんなに読めないことを知っているようだった。
「そうね。時間が掛かるかもしれないけれど、頑張ってみる。これも勉強と思って」
「分からない言葉があれば、訊いてくれるといい」
「ありがとう、頑張るわ」
「いや……」
礼を言われると、居心地が悪い。贖罪の気持ちが全くなかったわけではないから。
ふと窓辺を見ると、植木鉢の中の苗木はもう苗木と呼べなくなってきていて、枝を伸ばしている。
彼女がこの屋敷を出て行く日が近くなってくるのを見るのは、少しだけ寂しいような気がした。




