1. 植木鉢
その日の夕方、私の尊敬する主人が屋敷に連れて帰ってきた少女は、手に白い陶器の植木鉢を抱えていた。
少女は黙って立っていれば淑女らしく見える容姿ではあったけれど、ずいぶんと落ち着かなく辺りを見回していて、一目で貴族のご令嬢などではないとわかった。
まあ私も人のことは言えない。ここに初めて連れてこられたとき、ずいぶん無愛想な少年だと思ったと、今でもからかわれるように言われることがある。
「お帰りなさいませ、ジャンティさま。ところで……こちらの女性は?」
出迎えた使用人の一人が、おずおずとそう尋ねる。この少女をどう扱うべきなのか測りかねたのだろう。もちろん私もその一人だ。
主人は、少女の肩を抱いて、こう答えた。
「彼女は私の娘です」
そして、少女に向かって微笑んだ。少女も柔らかく微笑み返す。
しかしその光景を見た私たちは。
「はあ?」
この屋敷で働く者にあるまじき反応。大抵のことには動揺せず、自分の本音は表には出さない。口元にはいつも微笑をたたえ、どんなときでも主人を気持ちよく出迎える。
だがこれが驚かずにいられようか。
その場には私を含めて五人ほど使用人がいたのだが、皆が口を開けたまま固まってしまった。
国王に次ぐ地位である大法官として王城に勤め、齢四十を超しても独身を貫いてきた我が主人。生涯、この国のために身を捧げると言って憚らない人。浮いた噂がまったくなかったわけでもなさそうだが、少なくとも表沙汰になったのを聞いたことがない。
その主人の、娘? であれば、隠し子であるということか。
けれど。どこをどう見積もっても、少女は主人の娘には見えなかった。
銀色の長い髪。新緑の色の瞳。透けるような白い肌に、紅をさしたかのような紅い唇。
対して主人は、白いものは混じっているが、栗色の髪と髭。赤味掛かった瞳。浅黒い肌。
仮に母親似としよう。そして年齢の違い、性別の違いもある。しかし、これはいくらなんでも親子には見えない。血の繋がりがまったく感じられない。
親子間でここまで似ないことなどあるだろうか。
私たちの戸惑いを十分に堪能したのか、主人は髭の奥で口の端を上げると、言った。
「養女、ですよ」
ああ、と皆が納得して息を吐いた。だがその一瞬あとにまた訪れる疑問。
なぜ急に、養女などと。
まったくだ。まったく、その気配を感じていなかった。たぶん、この場にいるただの一人も。
「さあ、リュシイ殿。皆に挨拶していただけますか」
……いただけますか?
私はその言葉に違和感を覚える。養女であるならば、なぜ主人は敬語を使うのか。この場合、『挨拶しなさい』で十分だろう。
少女は戸惑い気味に、隣に立つ主人を見上げた。
「あの……本当にいいのでしょうか」
美しい声だと、思った。穏やかな風に吹かれる鈴のように心地よい、声。
「何がでしょう?」
「ええと……お世話になってしまっても」
「もちろん。あなたは私の養女なのですから、この家の住人ともなるのです」
主人は穏やかに微笑んでうなずいた。そんな柔らかな笑みは、今までほとんど見たことがなかったから、胸に小さな痛みを感じる。
少女は安堵したように息を吐いて、口元に笑みを浮かべた。
そしてこちらに向き直ると、
「リュシイと申します。よろしくお願いいたします」
と勢いよく頭を下げた。
やはり貴族の令嬢ではないな、と確信する。どこぞのご令嬢であれば、ゆっくりと優美にドレスの裾を持ち上げつつ、一礼するだろう。
彼女はいったいどこから連れてこられたのか。そういう女性と公爵である主人の接点など、どこにあるのだろうか。
だが美しい娘だった。持って生まれた容姿は人並み以上だ。ちゃんと教育すれば、どこに出しても恥ずかしくない淑女にすぐにでもなれるだろう、とは思った。
「ではまず」
私たちが頭の中でいろいろと考えを巡らせているのを見透かしたように、主人は少しだけ声を張った。
「彼女の部屋を用意していただきたい。今晩のところは客間で構いません」
「かしこまりました」
さすがにこの屋敷に勤めて長い者は、すでに動揺を押し隠してしまっていて、主人の指示にすぐに動き出す。
「アネット、あなたは」
「はい」
女性の中で一番の年長者であるアネットが、名を呼ばれ、かしこまった。
「彼女を半年で、貴族の娘らしくしていただきたい」
「……半年、でございますか」
アネットはわずかに眉根を寄せた。きっちりと期限を決めてきたのはどういう訳か。貴族の娘らしくとは、どこまでを言うのか。
しかしアネットは思い浮かんだであろうそれらの質問は口にはせず、頭を下げた。
「かしこまりました」
「任せましたよ。それから、ジルベルト」
「は、はい」
若輩者の私では、まだ動揺を隠すことはできないようだ。急にこちらに振り向かれて声を掛けられたことで、裏返った声を出してしまった。
「同じく半年で、彼女に貴族の娘にふさわしい教育を施してもらいたい」
「教育?」
私はこの屋敷に書生として住まわせてもらっている。学ぶのはいつも私のほうなのに、人に教えるとはどういうことか。
「教育とは……どういったことを教えればいいのでしょうか」
「何でも。貴族の娘にふさわしい……いや、貴族の娘ならば当然知っていなければならないことを、半年で叩き込んでください」
少女の年齢は、十七くらいか。だとすると、貴族の娘たちが生まれてから十七年間ずっと少しずつ蓄えてきた知識を、わずか半年で彼女に教え込まなくてはいけない。
いや、彼女の知識というものがどの程度かがまだわからない。もしかすると、それなりに学力があるのかもしれない。
主人が養女として連れて帰ってきたくらいだから。
「アネット、ジルベルト。今言ったことは、明日からでも構いません」
と私たちに告げると、主人は少女のほうに振り返った。
「今日は疲れたでしょう。食事を私たちと一緒にとって、それからお休みになられるといい。けれども明日からは頑張っていただかなければならない」
「はい」
少女は何かを決意したかのように、うなずいた。
「時間は、少ない。でもやらなければならない。わかりますね?」
「はい、自分で決めたことですもの」
「よろしい。あなたならばできると信じていますよ。おそらく、それは私だけではない」
主人がそう声を掛けると、少女は朝露を受けた花がゆっくりと花びらを開くように、微笑んだ。
誰もが見惚れてしまうような、笑みだった。
「ご期待に沿えるよう、頑張ります」
そこで、部屋を準備していた使用人が戻ってきた。
「ジャンティさま、客間が用意できました」
「内鍵はありますね?」
「はい、動作も確認いたしました」
「よろしい。では案内してください」
そう指示すると主人は少女の背中を押した。彼女は凛と背筋を伸ばして歩き出す。
植木鉢は最後まで手離すことなく、大切そうに抱えたままだった。
彼女を見送ったあと、主人がふいにこちらに振り向く。
「ジルベルト」
「は、はいっ」
「大変な労力になるだろうと思います。だがこれは、あなたのためでもあります。教えるという行為は、自己を伸ばすものでもあるのです」
彼女に向けられていた視線とは、ずいぶんと質の違う眼差しを向けられ背筋が伸びた。
厳しく諭す、目。
本当は少しだけ、腐っていた。なぜ急にやってきた少女をそんな風に大切に扱うのか。
いずれ主人の養子になるのではないかと、いろんな人に言われてきた。そして彼の仕事の手伝いをするようになるのではないかと。
それが打ち砕かれたような気分だった。
だが、まだその判断は早いと思わせる、主人の発言だった。
「誠心誠意、頑張らせていただきます」
私は頭を下げる。顔を上げたときには、主人は満足げに笑みを浮かべていた。
だが、何かに気付いたように、手を打つ。
「そうそう、これだけは忠告しておきますよ。決して夜這いしないように」
「まっ、まさか!」
慌てて声を上げた。いつものようにからかったような笑いが返ってくるかと思ったら、主人は考え込む。
「やはりひとつ屋根の下というのは心配ですかね。この家の彼女の年齢に釣り合いそうな男性はジルベルトだけなのですが……」
「天地神明に誓って、それだけはありませんからっ!」
確かに美しい少女だが、私は節操のない人間ではない。そんな風に思われるのは心外だ。
「まあ、ジルベルトなら大丈夫でしょうが……。若さというものは制御が利かないものなんだと、ついさきほど思い知ったばかりなのでね……」
そう零すと、主人はまた考え込んだ。